とある部屋の日常

メンタル弱男

とある部屋の日常


・2月17日 晴れ


 今日は天気が良かった。燦々と明るい光が窓を通り抜け、ふっくらとした小ぶりのサボテンが嬉しそうに影を作っていたのが印象的だった。陽だまりの中で暖まった、優しい木目調の椅子に腰掛けてコーヒーを飲んだ。砂糖がない。この前まではあったのにいつの間にか切らしてしまったのか。結局、苦手なブラックで、ちびちびと味わった。


 昼間、涼香は仕事でいなかったから昼寝をした。夢を見ていたはずだが内容はさっぱり覚えていない。ただ、目覚めた後に震え上がるような興奮を覚えたのは何だったのか。狂気という言葉とはまた違う、複雑に正義感が絡み合った息苦しい渦に飲み込まれるような気分。それは夢の中だけではなく、いつも自分の背中にぴったりとしがみ付いているように感じる。


 仕事を終えた涼香が帰ってきたのは午後九時を過ぎた頃で、憔悴し疲れ切った表情をしていた。最近は仕事が忙しいとぼやいている。僕は自分に何が出来るのかをいつも考えている。彼女の為なら何だって協力したい。なかなかその気持ちを行動で伝える事が出来ていない事がもどかしい。僕の至らない点だ。


 涼香は外で軽く食べて来たらしく、部屋でゆっくりする事なく、着ていた服をソファへ投げ捨ててシャワーを浴びに行った。(ちなみに僕は夕方に入った)打ちひしがれた心を具象化したように、白いシャツはソファの上で弱々しく土下座しているように見えた。


 バスルームから、涼香の甘い歌声が聞こえる。静寂な夜の中、一日を耐え忍んだ心が裸の身体と調和して解放されている。あぁ、この涼香と僕の生活が、彼女を少しでも元気付けるきっかけになって欲しい。そう思いながらこの日記を書いていたら、自分がどれだけ彼女を愛しているかが表れてくる。もう書き出せば止まらないが、今日のところはもうこれくらいにしておこう。



・2月18日 晴れ

 

 今日はベランダのフェンスの上で、手のひらに乗るくらいの紺色の鳥を見た。午後二時くらいだっただろうか。最初の一声だけ断末魔のような叫びを放ったが、その後は誰かが聞いているという自覚があるような、綺麗な歌を披露してくれた。コーヒーが飲みたくなるような心地の良い午後のひと時。マグカップを手にしたが砂糖の事を思い出した。昨日の夜、涼香が買ってきてくれていたのだが、まだ封を開けていない。ここで、いの一番に使ってしまうのは、親しき仲にも礼儀ありの精神から、さすがに気が引けたので、キッチンワゴンの奥にあるココアをいれた。

 

 夕方に風呂掃除をして(いつもシャワーを浴びた後はそのまま掃除もする)少し時間があったので、部屋の掃除もした。彼女は物の配置にこだわるタイプの人だ。なるべく怒られないように頭を使って慎重に片付けた。


 のんびりと寝転んでいたら、いつの間にかあたりは暗くなっていて、電気をつけずにスマートフォンを触っていると、画面の光に照らされて、自分の顔が窓に映っているのを見た。神聖なものか、もしくは悪魔か。全く自分の顔には見えなかった。早く涼香に会いたいと思った。


 午後十時に涼香が帰宅。簡単にご飯を済ませて、テレビを見る。涼香は決まって報道番組をチェックしたがる。そして報道番組はいつも暗いニュースが殆どだ。僕はジャンルを問わず暗い出来事を目にすると、そわそわして落ち着かない。むず痒い感覚もある。何故なのかは分からない。


 午後十一時に涼香がシャワーへ行き、僕はその間にすぐに寝れるように準備をした。

 そして今、僕よりも先に彼女は眠りについている。少し暑そうに、毛布を蹴飛ばしているところが愛らしい。あれ?珍しく、涼香が寝言を言っていたのだが、うまく聞き取れなかった。もっと近くでしっかりと聞いておけば良かった。。。

 


・2月19日 晴れのち曇り


 本当に狂っている。何が僕を僕たらしめているのか。それは間違いなく涼香だ。彼女がいなければ僕の頭は混乱と焦燥でカッと熱くなり、僕の身体は一息に空気へと昇華して形など留めていられないくらいに崩壊するだろう。なのに彼女はどうか?彼女にとって?僕は?一体何なんだろう?僕の手は今、戦慄いて震えている。そして歪んだ文字と感情を並べてこの日記に思いをぶつけている。。。


 少し落ち着こう。今彼女は鼻歌交じりに酔った身体でゆっくりとお湯に浸かっているところだ。冷静になる時間はまだ充分ある。

 

 まず今日の出来事を順序立てて書いていくところから始めよう。朝はいつも通り涼香を見送った後、朝食をとった。綺麗に後片付けをして、トイレを掃除した後、買い物に出かけた。基本的には買い溜めをしているのだが、パンが無くなってしまっていた。帰り道公園の真ん中で少し丸い身体をした茶色の猫が座っていているのを見た。気になって、僕はその猫の方へと近づいていった。


 この猫は少し変わっていた。とは言っても見た目にどこか特徴があるというような客観的なものではなく、猫を飼った事のないはずの僕が『懐かしい』と感じるような、心の底に触れてくるような繊細さを持っていた。僕がじっと眺めているのが気に障ったのか、尻尾を向けて歩き出したが、逃げて行くようなスピードではなかったので後をつけてみると猫の方もこちらを気にしている。どこかに連れていかれているような気分を味わった。そしてこの後、僕は数十分も歩き回ることになる。


 最後にこの猫が立ち止まったのは、林の中で静寂をまとった古い神社の前だった。鳥居の横で猫は背筋を伸ばして座っている。僕はこの場所で何をすればよいというのか。我関せずといった顔の猫に問いただそうとしたが、その瞬間に一蹴りで数メートル飛ぶような勢いで逃げてしまった。


 僕は木漏れ日にあたりながら、森閑とした風景に見惚れていたが、やがて自分の中で眠る(もしくは眠らせようとしていた)罪の意識が鼓動を伴って膨れ上がっている事に気が付いた。様々な場面を思い浮かべて、少し立ち尽くしていたが、早く帰らなければいけないと思い立ち、家へと向かった。


 家ではいつものようにテレビを見ながらパンを食べ、コーヒーを飲んだ。今日は砂糖を入れて。その後は玄関の掃除をした。靴箱の中は彼女のものばかりで、あまり使っていないものもあるが、いくつか磨いておいた。

 今日は午後から厚い雲が空を覆っていたが、その下を黒い点のような鳥が右へ左へ飛んでいく。その途切れる事のない平凡な時間の中で、唐突に涼香とじっくり話したいと強く思った。その時に今日出会った猫の話でもしようか。。。


 ところが、涼香はなかなか帰ってこなかった。午後十一時を回る事は今まで無かった。もちろん、何時に帰ろうが彼女の勝手だ。ただ僕の中には心配と、そしてその裏に僅かではあるが憎悪が見え隠れするのを感じた。恐ろしかった。自分の中でこのような感情が芽生える事が信じられなかった。しかし、これを書いているまさに今、僕の中には憎悪しかないのだ。。。


 涼香が帰ったのは、日をまたいだ午前一時頃だった。彼女は尋常ではないくらい酔っていた。何があったのか?心配になったが、意識は意外としっかりしており、すぐにお風呂へと足を運んだ。


 その後だった。僕は彼女が心配で、何かあったらすぐに駆けつけれるように部屋で耳をすましていると、彼女のスマートフォンが鳴った。ロック画面にメッセージが光る。

『今日は楽しかった。ありがとう。ではまたよろしくね。』という内容と共に、見知らぬ男の名前。。。


 目の前が真っ暗になり、目眩がした。絶望と目まぐるしく蠢く感情(その時は明確ではなかったが、明らかにあの感情は怒りだ)が僕に襲いかかった。彼女を心配していた自分が馬鹿みたいだ。こいつは誰だ?少し息を整えて考える。短い文章ながらに伝わる馴れ馴れしいこの態度にも腹が立つ。そして何より、涼香に裏切られたのかという事実が堪え難い。僕がどれだけ愛しているのか、分かってもらえていないのがつらい。どうしてこんな事になってしまったのだろう?

 

 涼香がお風呂から出てきた。彼女は恥ずかしげもなく裸のまま歩いては、冷蔵庫の中身を漁っている。僕は何も知らない、見ていないふりをする。時間も経って、大きなショックに揺さぶられた心の波は、ゆっくりと静まりつつあった。

 ただ、彼女に対する憎悪の念はより一層鋭さを増している。



・2月20日 曇り


 朝早く目が覚めると、昨日の事が嘘のように心が清々しかった。全てが間違いだったのだと、僕の思い過ごしだったのだと信じたかった。だが、とうとう彼女の行動に抱く疑念は確信へと変わってしまった。


 今日はいつも通りの時間に彼女が帰宅。何気ない日常を、彼女は抑揚なく描いていく。簡素でいて美しいと思う。一方僕の頭の中では、彼女を鋭く睨みつけている。直接問いただそうか?はっきりさせないから疲れるのではないか?早く白黒つけてしまいたい。だが僕は黙ったまま、彼女を睨む事しかできなかった。いつも一歩踏み出せない。


 もやもやした僕を置いていくかのように、彼女はまた一つ過ちを犯す。またあの男と連絡を取っていたのだ。

 彼女のスマートフォンを開いてしまったのがいけなかったのか。僕も決して善人とは言えないだろう。だが不安を消し去りたいという一心だった。しかしその思いは簡単に断ち切られた。その男とは今度、休みを一日中使って出掛けるそうだ。。。


 こんな仕打ちを受けるなんて、僕が一体何をしたというのだろう?

 


・2月21日 曇り


 僕はひどく疲れた顔で彼女の帰りを待っている。時間は午後七時。もうそろそろだと思う。


 僕は今日、面と向かって彼女と話そうと決めた。僕がどれだけ彼女を愛し、彼女の事を考えて、彼女のためだけに生きているかという事を伝えてみよう。それでも彼女が僕を捨てると言うのであれば、潔く彼女を諦めよう。それだけの覚悟はある。今までの努力、やってきた事を台無しにするのだから。。。


 彼女が帰ってきた!

 今か?今か?、、、。


 悩んでいるうちに彼女は服を脱いでシャワーへ行ってしまった。


 なかなか難しい。簡単な言葉を言うだけの事なのに緊張してしまう。。。

 落ち着け、落ち着け。シャワーが終わったら今度こそ聞いてみよう。


 バスルームのドアの開く音がする。もうあがってきたんだ。いつも通りだと裸のままリビングに来る。少し待ってもいいが、、、。やはり今しかない!リビングに入ってきたらすぐに聞くんだ!



          ○



 涼香は鼻歌交じりでリビングのドアを開けた。シャッフルのリズムが心地良い、カントリーの優しいフレーズ。


 だがドアを閉めて振り返ると、涼香はたちまち顔面蒼白になり、床に崩れ落ちた。この世の物とは思えない程、顔を歪めながら。


 なぜなら、目の前には全く知らない男が立っていたからだ。。。



          ○



・2月22日 晴れ


 涼香の事が好きだっただけなのに。

 涼香の事が好きだっただけなのに。

 涼香の事が好きだっただけなのに。

 涼香の事が好きだっただけなのに。

 涼香の事が好きだっただけなのに。。。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある部屋の日常 メンタル弱男 @mizumarukun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ