神崎ひかげVS健康診断

武州人也

飲みてぇわ

「あー……つらい……飲みたい……」


 飢えた表情の神崎は、アルコール類の一切入っていない冷蔵庫をしきりに開け閉めしていた。その両目の下には、くっきりと隈が現れている。

 新しい職場に勤めることとなった神崎は、来週に健康診断を控えていた。三日前、親友の藤原と一緒に出掛けた際にぽろりとこのことを漏らすと、藤原はまるでこの機会をじっと待っていましたと言わんばかりに切り出した。


「ひかげちゃん絶対診断結果酷いことになるよ。今からでも遅くないから、断酒しなきゃ」


 このままではいけない、というのは、神崎自身薄々分かっていた。ちょっとした外出でもスキットルを持ち歩いているのは、誰の目から見ても異常者の極みだ。

 勿論、一年間で積もりに積もった負債をたかだか十日程度で返済できるなどと神崎は思っていない。それは断酒を勧めた藤原だって同じはずだ。でも、やらないよりは遥かにマシな結果が待っているだろう。多少の荒療治がなければ、きっとこの不健康極まりない飲酒癖は治しようがないのだ。


 そうして三日が経った。この三日間で、神崎は酒を断つという行為の重さを嫌というほど思い知った。慢性的な飢えと渇きが、どれほど彼女の精神を苛んだかは想像に難くない。


 ――どうにか気を紛らわせなければ……


 そう思って、神崎は電子書籍で最近流行りの漫画を購入し読み始めた。前職のブラック企業勤務ですっかり酒以外の娯楽を忘却させられてしまった神崎であったが、久方ぶりに漫画というものを読んでみると、これがなかなか面白い。どうして早く気づかなかったんだろう、と、神崎はちょっぴり後悔した。

 あまりにも面白かったので一気に読み進めていたのだが、その途中で、何だかそわそわと落ち着かなくなった。気がつけば、神崎は電子書籍のアプリを閉じて冷蔵庫の前に立ち、開閉を繰り返していた。


 ――これじゃあまるで、重病人だ。


***


「……それで、断酒はどうなの?」

「リットン……藤原調査団さま……取り敢えず何とかやっておりましゅ……」

「そっか……それじゃあ冷蔵庫見せてもらうね」


 禁酒生活が始まって六日後、藤原が査察にやってきた。リットン調査団ならぬ藤原調査団は、冷蔵庫や床、ゴミ袋などを隈なく見渡し、飲酒の痕跡がないかどうかを綿密に査察した。この藤原、断酒提案者の責任ゆえか、やたら本気である。


「そう、この通り潔白なので……」

「その言葉、信じるからね。あと四日間、どうにか頑張るんだよ?」

「ふぁ~い……」

「取り敢えずその言葉を信じるとして……夕飯作ってあげよっか」

「やったー! タマちゃんの料理おいしいからなぁ……」


 禁酒の影響で暗くなっていた神崎の顔が、にわかに明るさを取り戻した。藤原は料理が上手い。それに神崎の好みを的確に把握しており、この酒乱OLの胃袋はすっかり掴まれていたのである。


 その後、二人は最寄りのスーパーへ買い物に出かけた。何だかすっきりとしない鉛色の空は、神崎の今の心境をそのまま空の上に描き写しているようである。

 藤原がお肉コーナーを見ている間、神崎はついふらふらと離れてしまった。まるで何者かに操られているかのようなその足取りで、神崎はある場所へと向かった。


「ああ~……いいなぁ……」


 神崎が引き寄せられるようにして立ち寄ったのは、酒コーナーであった。神崎は口角からよだれを垂らしながら、物欲しそうに棚を眺めている。六日間分の飢餓に苦しめられた神崎の心の中で、悪魔がささやき出した。

 とうとう誘惑に負けた神崎が、棚のものに手を伸ばした、まさにその時のことである。


「こーらー」


 背後から、怒りを含んだ声が聞こえた。その声は、神崎のよく聞きなれたものであった。


***


「まったく……今飲んだら台無しだよ?」

「……反省してます……」

 

 帰り道、神崎はまるでイタズラを見つかった子どものように小さくなっていた。今の神崎にできることは、己の心の弱さを恥じ入ること以外にない。その傍らで、藤原は神崎の惰弱さを咎めるかのようにむくれっ面をしていた。

 神崎は気を紛らすために、大きく息を吸った。その時、神崎の目に何か、妙なものが映った。


「あれ何?」


 それは曲がり角から、突如姿を現した。それはまるでトカゲやワニのように、四つ足で這って歩いていた。


「え……何あれ恐竜?」


 姿を現した生き物は、現存する生物のどれにも似ていない、奇妙極まるものであった。体型はトカゲに近いものの、顔はティラノサウルスのような肉食恐竜に似ている。そして何より特異的なのが、半円状の平べったい帆のようなものが背中にあることだ。


「 あれは……ディメトロドン!? 違うよひかげちゃん! 恐竜じゃないよ!」

「そ、そうなの? 詳しいねタマちゃん……」

 

 そう、藤原の言う通り、ディメトロドンは恐竜に見えて恐竜ではない。恐竜が登場する中生代よりも前の古生代ペルム紀の動物で、単弓類と呼ばれるグループに属する。一見すれば恐竜か爬虫類のようであるが、実は哺乳類に比較的近いとされる絶滅動物だ。


 ぐおおおおおお……


 その動物――ディメトロドンは、大きな口を開けて咆哮を発した。それがどのような合図かは分からないが、友好的なものでないことを神崎は肌間隔で理解した。なぜ絶滅した動物がここにいるのかは分からないが、目測で全長五メートルはあるであろう大きな生き物が接近してきている事態は危険そのものである。藤原を守らねば……神崎はすかさず懐からスキットルを取り出そうとした。


「あ、そうだ無いんだった……」


 神崎はこの時、スキットルを持ち歩いていなかった。自らの異常極まる飲酒癖を治すために、藤原に預けていたのである。


「ど、どうしよう……」


 おろおろする神崎。しかし、ディメトロドンは待ってくれなかった。この動物は大口を開けたまま、神崎に向かって突進を仕掛けてきた。


「に、逃げよう!」


 神崎は咄嗟に藤原の手を引き、ディメトロドンに背を向けて足早に曲がり角を曲がった。

 

***


「行け行け! やっちゃえトロちゃん!」


 近くのビルの高層階で、白衣の女が神崎たちを眺めながらはしゃいでいた。片手にはワンカップが握られており、その頬はリンゴのような紅に染まっている。

 この白衣の女――三枝さいぐさは、高輪ゲートウェイ駅で実験動物のカマキリを逃がしたかどで研究所をクビになり、その後神崎ひかげの命を狙う組織「青蜥蜴」にスカウトされたのであった。

 そうしてこの女は、直属の上司であり彼女をスカウトした尾八原おやわら充治じゅうじによって神崎ひかげ暗殺の任務を請け負った。その彼女が放ったのが、あのディメトロドンである。因みに、トロちゃんというのは三枝がつけた名前だ。ディメトロドンのトロからとったという、実に安直なネーミングである。


 三枝の眼下では、逃げる神崎と追うディメトロドンの姿があった。神崎と一緒に逃げているのは、神崎の友人で名を藤原というらしいことも知らされている。一度組織の者が藤原を人質に取ったことがあったが、どうやら逆効果であったらしい。それ以降、「藤原には手出しをしない方がよい」というのが組織の共通認識になっている。


 途中で、ディメトロドンが勝手に道を逸れ出した。その先の空地では、ガラの悪い、如何にもな不良が三人がかりで小さな少年にたかっているのが見えた。

 ディメトロドンは、その不良の内の一人に猛然と突進を仕掛けた。強烈な頭突きを食らった不良は、後方に吹き飛んで電柱に頭をぶつけてしまった。後頭部から溢れ出した鮮血が、電柱をべっとり汚しているのが見える。あれではもう死んでしまっただろう。残りの不良二人と脅されていた少年一人は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「トロちゃんグッジョブ! ……ああ、ターゲットを追いかけさせないと」


 三枝は重度のショタコンである。充治に誘われて彼の配下についたのも、充治の美少年然とした容姿に惹かれてのことであった。だから、少年を脅す不良が酷い目にあったのを見て、三枝は溜飲が下がる思いであった。

 とはいえ、ディメトロドンには本来の役目――神崎ひかげの殺害を達成してもらわねばならない。三枝は手元にあったキーボードを操作し始めた。実はディメトロドンの脳にはコントロールチップが埋め込まれており、遠隔で脳内に指示を与えることができる。

 三枝は神崎を追うように、再び指令を発した。


***


 辺りをぐるぐると回るようにディメトロドンから逃走していた神崎。その息は、もうすっかり上がっていた。このまま逃げ続けるのは流石に苦しいものがある。


「タマちゃん、危ないから下がってて」


 神崎はナガミヒナゲシやホトケノザの生い茂る空地に荷物を下ろし、そこに立ち止まった。ここで迎撃しようというのである。人気のない空地なら、他者を巻き込むこともないだろう。

 近くの電柱には、何とも不気味なことに鮮血がべっとりとついていた。その電柱の根元を見てみると、ガラの悪そうな、高校生ぐらいの男子がごろんと横倒しに転がっていた。どうやらもう物を言わない死体となっているようである。

 ディメトロドンも遅れて、神崎のいる空地に踏み込んできた。どうやらディメトロドンの方も疲れが溜まっているのか、少しばかり動きが鈍くなっている。


「はっ!」


 神崎は先手必勝とばかりにディメトロドンとの距離を詰めた。ディメトロドンも咄嗟に反応し、大口を開けて食らいつこうとしてくる。神崎が急に立ち止まったため、この絶滅動物の噛みつき攻撃は空を切った。


 ――駄目だ、近づけない。


 珍妙な生物を前にすると、どうしても恐怖心が先行してしまう。神崎ひかげは決して鉄の心を持つ軍人ではない。なぜか数奇な運命に巻き込まれ、数々の猛獣珍獣を撃退してきたのだが、元々はただ酒癖が悪いというだけのしがないOLである。今までイタチザメだのハイイログマだのモンゴリアン・デスワームだのを退けてきたのは、ひとえに恐怖を紛らわせてくれるアルコールの存在があったゆえのことであった。


 ――スキットル無しで、どこまでやれるか……


 これは、ディメトロドンという猛獣の戦いというだけでなく、自分自身との戦いであった。自分の中の飲酒癖と戦い、これを打ち破らなければならないのだ。

 土を蹴り、一直線に踏み込む。ディメトロドンも逃げることなく、四つ足で突進をかけてきた。

 神崎が拳を突き出す。しかし、拳が敵を打ち据えるよりも早く、古生物の強烈な頭突きが神崎の腹部に響いた。


「がはっ……」


 神崎の体が、大きく後方に飛ばされる。何とか踏みとどまったが、腹への衝撃には凄まじいものがあった。

 足元に視線を落とした神崎の目に、ふと、あるものが留まった。

 それはまだ中にガスの残っているライターであった。実は、このライターはディメトロドンの頭突きで殺された不良が、タバコの点火用に持ち歩いていたもので、頭突きを食らった際にポケットから落としたのであった。勿論、神崎にそのような事情は知る由もない。


「タマちゃん!さっき買ったガス缶貸して!」

「え……?」

「早く!」


 言われた藤原は、何が何だか分からないといった感じで、マイバッグから先ほど購入したカセットコンロ用のガス缶を取り出し手渡した。


「あっタマちゃん!」

 

 しかし、そこに再びディメトロドンが一直線に突っ込んできた。藤原を庇った神崎は横にすり抜けようとしたが間に合わず、その場で尻餅をついてしまった。

 この古生物は神崎の作った大きな隙を見逃さなかった。すかさずのしかかり、太い前脚で押さえつけてきながら大口を開けて食らいつこうとしてくる。


「こんのぉ!」


 神崎は前脚に二の腕を押さえられた状態だったが、なんとか腕関節から先は動かすことができた。そうして右手に握ったガス缶を、ディメトロドンの口に咥えさせることに成功した。

 神崎は押しのけるようにして腹に蹴りを食らわし、マウンティングから脱して立ち上がった。


「はぁ……はぁ……これで終わりぃ!」


 神崎は先ほど拾ったライターに点火し、それを口に咥えられたガス缶に向けて投げつけた。

 

 起こったのは、爆発であった。ガス缶が噛まれたことで穴が開き、そこから引火して爆発を起こしたのだ。ディメトロドンの頭部ははじけ飛び、四散した肉片の一部は神崎の頬にまで飛んできた。

 後にはただ、焦げ臭い匂いだけが漂っていた。


***


「もしもしタマちゃん?」

『ひかげちゃん?』

「ごめんね夜遅くに……」

『いいよ気にしないで』

「いや……明日健康診断でさ、何かみょーに緊張しちゃって、タマちゃんの声聞きたいなーなんて……」

『もう……甘えん坊さんなんだから……』


 アルコールの力に頼ることなく強力な敵を退けた神崎は、無事に健康診断前夜を迎えた。ここまで禁酒に耐え続けてきた結果が明日明らかになると思うと、何だか気もそぞろになってしまい、緊張を紛らわすために藤原と通話を始めたのであった。

 そもそも、神崎は今まで常人では命がいくつあっても足りないような死線を何度も潜り抜けてきた女だ。健康診断が如き、どうして恐れよう。とはいってもそこはやはり人の子、緊張する時は緊張するものだ。

 

『大丈夫、あの時だってひかげちゃんお酒飲まなかったんだから』

「そうだったね……今まで自分がどんなにお酒に頼ってきたか改めて分かったよ」

『まぁ、できれば生け捕りにしたかったよね、ディメトロドンだし』


 そう、今回の相手――ディメトロドンは酔っている時にのみ繰り出せる必殺拳「限界酔拳」を使わずに倒せたのだ。これは大きな進歩といってよいのではないか。


「夜にごめんね。健康診断、頑張ってきます!」

『いい結果が出るといいね』

「ありがとうタマちゃん。それじゃあおやすみ」

「おやすみー」


 通話を終えると、神崎は布団をかぶった。そう、今までの相手と比べれば、健康診断など恐るるに足らない。当たって砕けろ。……そうして、神崎は明日に備えて眠りに就いたのであった。








 その後、健康診断を受けた神崎は驚異的なγ-GTPの値を叩き出し、医師にこってり絞られてしまった。このことによって更なる地獄の禁酒生活が待っているのだが、それはまた別のお話……

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神崎ひかげVS健康診断 武州人也 @hagachi-hm

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