四輪王子と自転車女子
鬼狂茶器
1話
遡ること2年半ほど前のお話。
とある街を石崎は、愛車のケータハムスーパーセブンを駈っている。フォード製の1.6リッターのエンジンが軽やかにレッドゾーンまで吹き上がる。乾燥重量565kgの車体を僅か5秒で100km/hまで加速させる。サイドポーンは地上から50センチあるかどうかという超低重心の車体のため、まるでカートで公道を走っているかのようだ。目の前の信号が青から黄に変わる。石崎は短めのシフトを小刻みにシフトダウンしていく。
『フオォォーーンンンン!!』
自然吸気特有の甲高いエンジン音が心地良い。停止線に止まると石崎はショートホープに火を着けた。
「ふぅ~」
少し辛味のある紫煙が肺を充満し、石崎の少し興奮した心を落ち着かせてくれる。見通しの良い交差点には石崎以外の車は一台もない。交差点の先には桜並木があり、心地良い春風が辺りを桜吹雪に包んでいた。
隣の信号が黄色から赤に変わったところで石崎はショートホープを灰皿で揉み消すと、シフトをニュートラルから1速へ入れる。信号が赤から青に変わる。クラッチを軽く合わせるとゆっくりと前進させる。
『キキーッ!!!』
左側から赤信号を無視した自転車が突然突っ込んで来る。石崎は急ブレーキを掛けるが、既に横断歩道まで出てしまっている。制服を着た女学生が乗った自転車が石崎のスーパーセブンの横っ腹目掛けて突っ込んで来る。
(間に合わない!!)
自転車がセブンのサイドポーンに突っ込んだ。そしてその反動で自転車女子が石崎の頭上を縦回転で一回転していく。恐怖に引き攣ったその自転車女子と空中で目が合う。石崎は、無意識に空中に飛んでいく自転車女子の制服の襟に両手を伸ばす。寸でのところで掴む。
『ドスン!! 』
そして、
『ガラガラガッシャーーーン!!!!!!』
自転車が反対車線の更に向こうの歩道に転がっている。その近くには自転車女子の学校カバンが転がっている。そして自転車女子は石崎の腿の上に体育座りのように座っている。
「うううっ……」
呻いているのは下にいる石崎だ。自転車女子のヒップアタックをモロに股間に喰らったのだ。
「あ…あのう…大丈夫ですぅ…?」
自転車女子が尻下の石崎に声を掛ける。
「な、何とか…。それより君は怪我ないかい?」
狭い車内でお姫様抱っこしてるため顔が近い。石崎は、ちょっと居心地が悪い。
自転車女子は高校生ぐらいの幼い顔をしている。肩まで伸びるストレートの黒髪から薫るフローラルな香りが石崎の鼻腔をくすぐる。かなりの美少女だ。
「あの…事故ってすぐで気が動転してるところ、申し訳ないんだけど…そろそろ俺の上からどいてもらえると嬉しいんだが。」
自転車女子は、顔を真っ赤にすると、
「ご!ごめんなさいっ!」
と石崎から飛び降りる。
「あっ痛っ!」
車から飛び降りると自転車女子は地面に座り込む。見ると右足の足首を押さえている。
「大丈夫か?ちょっと待ってな。」
石崎は、車から急いで降り、自転車女子をお姫様抱っこすると歩道まで避難させる。自転車女子は顔を真っ赤にして自分の足元を見ている。車のハザードを点け路肩へ移動させると自転車女子の自転車とカバンを自転車女子の座っているところまで持ってきた。直ぐに警察と保険会社に連絡する。警察が来るまで、自転車女子の側に寄り添って、
「足痛むかい?」
「何もしてないと大丈夫なんですけど、動かすと痛い。」
「そうか。後で病院に行こう。」
「でも学校行かないといけないんです。今日始業式だし…」
「そうなんだ。でも折れてるかも知れないから、病院には行こう。あとご家族にも連絡しないと。」
「無駄よ…あの人に連絡したって…」
「……」
(複雑な家庭環境なのか…余り深入りはしない方が良いのかな…)
「そうか…でも病院にだけは行ってくれないか。あと学校には俺から連絡しようか?」
「ありがとう。でも学校には私が自分で連絡します。スマホ貸してもらえます?」
自転車女子は石崎のスマホを借りると学校に電話している。どうも担任と話しているようだ。そうこうしていると警察と保険会社が到着した。石崎は車載のドライブレコーダーの画像を見せながら事故の状況を説明し、この後病院まで行きたいことを伝えた。取り敢えず0対10で事故免責とのことだった。そのため自転車女子の医療費は本人負担とのことだった。
「お待たせして済まなかったね。一度君の家に行ってお母さんにお話ししたいのだけど…どうだろう?」
「家に行ってもあの人いないよ。」
「なるほど。さっきの警察の人の言う通り、申し訳ないが俺の保険では君の治療費はまかなえないんだ。だからお家に戻って君の保険証を使いたいのだけど。」
「ふぅ~ん。まさか家に入るなりワタシに襲いかかる気じゃないでしょうね?」
「ふっ。なるほど…君の危惧も分からないでもない。でも今の君はひとりでは歩けない。家族も来れない。俺も君をこのままここに捨て置くのも心苦しい。どうだろう?君に俺の名刺を渡すのでこれで俺の事を信用してはくれないか?」
そう言って石崎は自分の名刺を差し出した。自転車女子はそれを受け取り、
「ふ~ん…分かった。信じて上げる。じゃあ行く?」
「信じてくれてありがとう。」
(ん?なんかおかしくないか…まぁ良いか。)
石崎はまた自転車女子をお姫様抱っこすると、助手席に優しく乗せ、4点式のシートベルトを着けてやる。何故か自転車女子は顔を真っ赤にしている。運転席に乗ると石崎はシフトを入れセブンを自転車女子の家へ向かった。
「ここよ。ちょっと待ってて。」
「いやいや、歩けないだろ。抱っこしてやるよ。」
「いや。それはもう止めて。肩貸してくれるだけでいいから。」
自転車女子はまた耳まで赤くし足元を見てぶっきら棒に言い放つ。
「分かったよ。」
助手席の自転車女子に肩を貸してマンション内へ入っていった。
「ここよ。おじさんは外で待ってて。保険証持ってくるから。」
「大丈夫かい?ちゃんと歩けるのか?」
「足の心配より、私の貞操の方が心配なんですけど。」
「言うねぇ~。ではどうぞ痛む脚で保険証だけ取りに行って下さい。」
自転車女子は石崎を睨むと片足ケンケンで部屋に入っていった。
暫く、いや、かなり待たされた後、自転車女子は制服を着替え、真っ白なセーターワンピースに着替えて出てきた。
「かなり待たされたんだけど。まさか着替えてたとはね…」
「ふっ…シャワーにも入って来ました。」
全く悪びれることもなく保険証を片手に片足ケンケンで出てきた。
「では行きますか。」
片足ケンケンがまどろっこしいので石崎は強引に自転車女子をまたお姫様抱っこし、駐車場まで連れて行った。
病院へ向かう道中、自転車女子は、
「ねぇおじさん、もうさ…ワタシのこと抱っこしないでくれない。超恥ずかしいんですけど。」
「しょうがないだろ、君は今歩けないんだから。」
「おじさんにお姫様抱っこされるなんて、ちょっと信じられないんですけど。さっきのお巡りさんに言い付けてやっても良いんだけどね。」
「それは困るね。ほら着いたよ。」
都立病院に着いたふたりは、頑なに拒絶する自転車女子を無理矢理またお姫様抱っこで受付まで連れて来た。
「ホントおじさんって意味不明よね!あんだけ止めてって言ってるのに!」
「効率の問題さ。君がケンケンで移動してる間に君の足が悪化して治りが遅くなると、その分俺の気分が悪い時間も長くなるんでね。」
自転車女子は不服そうな表情で石崎を睨んでいるが、反論はしてこない。
ようやく番号が呼ばれ診察室に入るふたり。CTスキャンとレントゲンを撮った結果、骨には異常なし、ただ靭帯損傷、いわゆる捻挫との診察結果だった。自転車女子は医者に、
「ワタシ陸上しているんですけど、これからも走れますか?」
と少し涙目で尋ねた。
「なるほど。陸上競技してるんですね。それならば少なくとも2ヶ月は安静して下さい。捻挫はクセになるので、完治するまでは安静です。ではギブスして固定しておきましょう。」
そう言うとその医者はカルテに何語か分からない文字を記入した。
自転車女子は右足首にギブスされ診察室から出てきた。両手にはアルミ製の松葉杖を持っている。
「あぁ…最悪だわ…夏にはインターハイがあるのに…」
石崎は少し罪悪感を抱き、
「申し訳なかった。」
素直に謝った。
「え!?いや…おじさんが悪いんじゃないよ。ワタシがボーとしてたから…」
「罪滅ぼしにもならないかも知れないけど、君の自転車を弁償させてくれないか?」
「え?そんなの悪いよ…」
自転車女子は先ほどと違って申し訳なさそうに石崎の方を見ている。石崎は笑いながら、
「気にしないでくれ。陸上を頑張る君へのエールだよ。笑って受け取ってくれたら俺も少しは気が楽になるし。」
「おじさんも律儀な人ね、ふふふ」
「それと、そろそろおじさんって言うの止めてくれないか?俺まだ35だし、俺は石崎寛。君の名は?」
「ふふふ…あの映画みたい。それに35なら充分おじさんだし。私は高幡香澄。」
「香澄ちゃんね。じゃあ自転車買いに行くか。」
「いきなりちゃん付けってやっぱりおじさんね。ふふふ。」
「うっ……そ、そうなの?」
石崎は治療費を払うと、たどたどしく松葉杖を使う香澄に寄り添って歩く。駐車場に着くと石崎はまた香澄をお姫様抱っこすると暴れる香澄に構わず、助手席に優しく乗せた。
「おじさん。この車なんでドアないのよ。毎回、お姫様抱っこされるなんて、ちょっと屈辱なんですけど。」
と香澄は真っ赤な頬を膨らませながら文句を言っている。
「まぁこういう車だから我慢してくれ。」
桜吹雪の吹く中、病院からセブンを自転車屋へ向かって走らせて行く。
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