第6話
目の前には寝台に横たわる老人がいた。
さわらなくても様々な死を視てきたアイリーンにはわかった。
死のにおいがする。寿命か病気かで彼はもうじき死ぬだろう。
その死を看取らせるためにわたしをここに連れてきたのだろうか。
ここはアップルシード孤児院とは別の、普通の人間を受け入れるホープ孤児院であった。
目の前にいる老人はここの院長――ウィリアム・ホープ。
仕事の依頼主は三十半ばの女性――セリナ・ホープ。ここの先生の一人であり、彼に一番最初に拾われ、ここで育った元孤児であった。
「……エ……スト」
老人は魘されるようにただ一つの名を呼び続けていた。
セリアが痛ましげな視線でウィリアムの枯れ木のような手を握り、事情を説明してくれた。
「エストとは院長先生の妻だったひとの名前です」
ウィリアムは昔、ホープという姓ではなく、とある貴族の子息であったという。
彼は貴族でありながら、平民の女性と恋に落ちた。
愛人として囲うならば、問題はなかった。
だが、同じ貴族の婚約者をないがしろにして、結婚をしたいと申し出たとき、両親は激高し、ふたりの仲を引き裂こうとした。
ふたりは駆け落ちの約束をし、永遠の愛を誓いふたりだけの結婚式をあげた。
ただ安物の指輪を交換して口づけを交わしただけの儀式だったというが、ふたりにはそれだけで十分であった。
だが、ウィリアムの両親はそれを許さなかった。
事故にみせかけて彼女を殺してしまったのだ。
残されたのは永遠の愛を誓い交換したふたつの指輪のみ。
それは悲恋で語られるような、ありふれた悲劇だったのかもしれない。
だが、彼はとっては、たったひとつの希望を奪われたに等しかった。
ウィリアムは絶望し、家を、国まで捨て、さまよい歩き、気がつけばとある国のスラム街に横たわっていた。
このまま死んで彼女のもとに逝こう。
そう決意したときに気づいた。
目の前にウィリアムのように死にかけた子どもがいたのだ。
それは孤児――幼き日のセリナだった。
神の采配であったのか、彼はその子どもを拾い、育てはじめた。
子どもを助けたわけではない、逆に死のうとさまよっているとき子どもによって助けられたのだ。
それからもウィリアムは次々に子どもを拾い、孤児院をつくり、読み書きを教え、手に職をつけさせた。
生涯、彼女だけを妻とし、誰とも結婚をしようとしなかった。
そして今、彼は天国へ旅立とうとしている。
彼の枕元にはふたつの指輪が置かれていた。
「え……?」
指輪を視界にいれた瞬間、指輪が朱色に色づいて見えた。ただの銀製の指輪のはずなのに。
引き寄せられるように、指輪を手にとる。
片方の指輪の内側にはウィリアムの名が。もうひとつの――朱色がかった方にはエストの名が刻まれていた。
「院長先生はどんなに生活が貧窮しようともその指輪を手放すことはありませんでした」
セリナ・ホープの声も聞こえていなかった。
指輪を持つ手が熱をもつ。続いて目が、頭が痛くなる。
こんなことは、はじめてだった。
人ではなく、物に堕技が発動するなんて。
瞳が緋色に染まり、涙がこぼれた。
頭のなかに声が響いた。やさしい、だが切実な願いが込められた声が。
口がうごく。
まるで自分の意志でないように、彼の名前を呼ぶ。
「――ウィリアム」
彼にむかって手を伸ばす。それは少女の腕ではなくもっと成熟した女性の手に映った。
「アイリーン?」
珍しく、クリスの驚いた声がする。そんな声もだせるのかと頭の隅で思った。
「愛してる――ウィリアム」
彼の枯れ木のような手をとる。愛おしげに何度も彼の名を呼ぶ。
「私は幸せだったわ。ほんの短い間だったけど、私は幸せだった」
老人の――ウィリアムの目が開き、アイリーンを、否、エストを視界に映した。
「あなたを愛したことに後悔はないわ。私はあなたを愛することができたから、あなたに愛してもらったから、幸せになれたのよ」
「……エスト」
彼の目から涙がこぼれ、そして閉じられた――永遠に。
同時に、アイリーンの視界も真っ暗に染まり、気を失った。
気がつくとクリスの腕に抱かれていた。
反射的に彼を突き飛ばし、周囲を確認する。
場所は変わっていなかった。院長であるウィリアムの顔に布がかぶせられ、その横でセリナが顔をおおって泣いていた。
気を失っていたのはわずかな間だったらしい。
「なにが起こったの?」
「君の天恵――冥府の支配者が、指輪に宿った死者の残留思念を読みとったんだよ」
姿まで一時的に変わって見えた、とクリスは言う。
「おつかれさま。君のおかげで彼は安らかに逝くことができたよ」
なにを言われたのかよくわからなかった。
いきなり手を握られた。
振り向くとセリア・ホープが涙にむせびながら頭をさげていた。
「あ、ありがとうございます……っ。先生を、救ってくれて……っ」
救った? わたしが? この呪われたちからで、人を、助けることができた?
「……あれ?」
気づけばアイリーンの目から涙がこぼれ落ちていた。
それは止まることはなく、のどから嗚咽がもれる。
人に受け入れられることなんて、決してないと思っていた。
この呪いは人を不幸にしかしない、そう思っていたのに――
はじめてこのちからで人を救うことができた。
「だから言っただろう。これは祝福だって」
クリスはやわらかな微笑みを浮かべていた。
こらえきれなくなったアイリーンは、彼の胸に身体を預けて、声をあげて泣いた。
まるで子どものように。心にたまった澱をはきだすように。
その肩を抱き、クリスはやさしく背中をたたいた。
「これが君の産声だよ。これから君は天使になる。呪いは祝福となり、堕技は天恵となる。アイリーン、君は幸せになれるんだよ」
いつもは反感しかもたらさないその言葉を、受け入れてもいいと、ほんの少しだけ思った。
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