事故物件の事務所
ナツメ
これは今から二十年ほど前、私が関西某所の広告代理店で働いていたときのことです。
小さな事務所でしたので、オフィスビルではなくマンションを二部屋借りて、そこを事務所にしていました。
ですが、私が入社して二年も経つと少々手狭になってきました。事務所のある四階には空き部屋がなかったのですが、ちょうど七階の一室が空いたということで、そこを借りることになりました。
四階がメインの事務所で、七階はデザイン作業や仮眠の際に使っていたのですが、七階を使いはじめてすぐ、デザイナーのTさんがこんなことを言うようになりました。
「七階を使ってると、誰かに見られているような気がするんだよね」
Tさんはもともと繊細な性格でしたから、慣れない場所で神経過敏になっているだけじゃないか、と最初は思ったのですが、どうもそうではないようなのです。
実際に人影を見たとか、変な音がしたとか。現象がどんどんエスカレートしていくのです。
先ほど言ったようにもともと繊細な方ですから、Tさんはみるみる憔悴していきました。
営業のNさんという男性がいたのですが、彼はTさんと仲が良く、とても心配をして、可能なときはTさんに付き添って七階で仕事をしていました。
だからといって現象が収まるわけではなく、やがて七階に居ないときにまで妙なことが起きるようになりました。
Tさんが四階の事務所にたまたま一人のときに電話が鳴り、取ってみると無言で、ただ「カリカリカリ……」と何かを爪で引っ掻くような不気味な音がしていたそうです。
「社長、大変ですよ」
ある日、Nさんが営業から戻ってくるなりそんなことを言いました。その時はTさんを含め、全員が四階のオフィスに揃っていたので、自然と全員がNさんの話に耳を傾けます。
「このマンションでこの間、飛び降りがあったそうですよ」
Nさん曰く、訪問先で雑談中、「オフィスはどちらですか?」と聞かれたので「M駅の近くの〇〇マンションです」と答えると、「ああ、この前大変だったでしょう」と言われたそうです。
なんのことかと聞き返すと「この間、飛び降りがあったそうじゃないですか。事故か自殺かまだわかっていないって聞きましたよ」とのこと。
「何階だったかまではわからないって話だったんですけど、それ、ちょうど七階を借りたくらいの時期の話らしいです」
Nさんはそう言うと、心配そうに眉を下げて、ちらりとTさんに視線を移しました。
私もつられて見ると、Tさんは顔面蒼白で、震えてさえいるようでした。
結局、Tさんはほどなく事務所を辞めてしまい、その後どうしているかはわかりません。
ただ、この話は事故物件に霊が出たとか、そういう話ではないのです。
あとから分かったのですが、そのマンションで飛び降りがあった、なんて事実はなかったのです。
Tさんが辞めたあと、社長が大家に怒鳴り込んだのですが、そんなことはない、事故物件だったら貸す前に話していると逆に怒られてしまい、新聞でもそのような記事は見つけられませんでした。
実は、TさんのすぐあとにNさんも事務所を辞めていました。Tさんのような理由ではなく、通常の転職です。Nさんは非常に優秀で人当たりも良い方でしたから、もっと大きな会社から声がかかるのも納得でした。送別会を盛大に開いて、Nさんも笑顔で去っていきました。
しかし、今考えると、一連のTさんの心霊騒ぎは、Nさんによるものだったのではないか? と思えてならないのです。
一番最初の「視線を感じる」という話は、もしかしたら本当にTさんの勘違いや思い込みかもしれません。ですが、Nさんはその当初からTさんを気遣って、一緒に七階に行っていました。それは裏を返せば、七階でTさんとNさんは二人きりだったということですから、音を立てたり人影の演出をしたり、いくらでも怖がらせることができたとも言えます。
Tさんが四階で受けた不気味な電話も、Nさんだったら、事務所にTさんが一人になる時間を知っていて、外回り先から電話をかけることができます(もちろん、社長や私や他のスタッフにもできますが……)。
何より、「ここで飛び降りがあった」という話を持ってきたのは、Nさんなのです。
前述の通り、NさんはTさんと仲が良かったですし、本当に心配しているように見えました。いつも明るいムードメーカーで、そういう、嫌がらせみたいなことをするタイプには、どうしても思えないのです。
だから、Nさんが意図的にやっていたのか、Nさん自身がなにか霊的なものに取り憑かれてそんなことをしたのか、それとも、飛び降りはなかったけど本当にあそこには霊がいたのか……結局今でも、何もわかっていません。
事故物件の事務所 ナツメ @frogfrogfrosch
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