第五章  進みたい道

5-1 心の蓋

 ついに、アニソントレジャーフェスティバルの日がやってきた。

 開演時間は夕方頃だが、ライブグッズを買うために昼頃から集まることになっている。光磨としては、グッズは別に……という感じではあった。でもまぁ、ペンライトくらいは買って、見よう見まねで振ってみるのも悪くないのかも知れないと思っている。


「親父。じゃあ、行ってくるから」

「……ああ。…………光磨」


 出かける直前、光磨は秋鷹に声をかけた。冷静を装いつつも、心の中は結構わくわくしている。正直、自分の声が弾んでしまった自覚はあった。秋鷹も秋鷹で、いつもと変わらないテンションでありながら、優しい視線を向けている。


「お前が今日行く会場。……浩美も立ったことがある場所なんだ」

「えっ。……そこまで調べてなかったな。それは、フェスとかじゃなくて……」

「一人で、だ」


 秋鷹にしては珍しく即答して、小さく得意げな笑みを向けてくる。今日、光磨達が行くところはアリーナ級の一万人以上が収容できる会場だ。

 そんな広い会場を、奥野原浩美は一人で埋めたのだという。

 まるで、「どうだ、凄いだろう?」とでも言いたいように、秋鷹の視線が自慢たっぷりに輝いて見える。自分の父親に対する感想ではない気はするが、まるで子供のような笑顔だと思ってしまった。今の秋鷹の表情を見ていると、胸がちくりと痛む。


「親父、悪かった」


 ほとんど意識もないままに、光磨は口を開いた。


「今まで、本当に…………ごめん」


 言ってしまってから、光磨ははっと目を剥く。慌てて口を塞ぎながら、力なく笑ってみせた。せっかく秋鷹のテンションも上がっているところだったのに、自分は何を言っているのだろうと。光磨は自分自身を責める。

 しかし、秋鷹はじっと真面目な視線を向けていた。


「しっかり見てこい。浩美の立ったステージを。歩んできた場所を。……少しでも光磨が知ってくれたら、俺はそれで充分だ」


 言いながら、秋鷹は光磨の背中を力強く叩いてきた。

 これは完全に電波ちゃんのせいだが、背中を叩かれると変に泣きたい気持ちになってしまう。今日もまた、誰かの力を借りてしまった。もう迷っている場合ではないのだと、光磨は自分を奮い立たせる。


「わかったよ、親父。……行ってきます」


 秋鷹が無言で頷くのを確認して、光磨は今度こそ家を出ていった。



 ***



 奏風駅で待ち合わせをして、光磨、菜帆、紫樹、夏奈子――そして、いつも通りふらりと姿を現した電波ちゃんと合流した。

 夏奈子に電波ちゃんのことを話してから、二人が顔を合わせるのはこれが初めてだ。果たして夏奈子に電波ちゃんの姿が見えるかどうか。観察しようと思っていたら、


「あれっ? もしかして、あなたが噂の電波ちゃん? あ、それともキスミレちゃんって呼んだ方が良いかな?」


 予想以上に夏奈子の反応は早かった。


「そだよー。ちなみに、電波ちゃんで大丈夫だよー」

「そっか。よろしくね電波ちゃん。あたしは萌木野夏奈子。萌ちゃんって呼んで」

「萌ちゃんね、よろしく!」


 というより、すでに意気投合してしまっている。いえーいとハイタッチをして、夏奈子が鼻息荒めに「ちっちゃいなぁ!」と電波ちゃんの頭を撫で回し、電波ちゃんも楽しそうにキャッキャッと笑っている。何と言うか、騒がしさがいつもの二倍になった感じだ。


「あはは……。萌先輩の対応力、凄いよね。僕が電波ちゃんを初めて知った時は、あんなにもビックリしたのにさ」


 光磨が呆れているのを察してか、紫樹が苦笑気味に声をかけてきた。反射的に「そうだな」と返そうとしたが、いや待てよと踏み止まる。


「いや、柚宮も案外興奮が勝ってたと思うぞ」

「そんなことないよ。最初は光磨の妹さんかなって思ったくらいなんだから」

「あぁ、そういえばそうだったな。……穂村さんもそうだけど、ホント……受け入れてくれて良かったよ」


 紫樹と菜帆を見つめながら、光磨は呟く。

 最初は光磨も信じられなかった電波ちゃんの存在を、三人は否定せず受け入れてくれている。それだけでも充分嬉しいのに、今こうして光磨の道に付き添ってくれている、なんて。


「枇々木くん?」

「ああ、いや……その。なんつーか、な」


 不安げに揺れる菜帆の瞳からゆっくりと逃げつつ、光磨は頭を掻く。困ったように視線を彷徨わせた挙句、光磨は諦めて菜帆を見て、紫樹を見て、電波ちゃんと夏奈子を見た。

 騒がしい電波ちゃんと夏奈子の様子は、普段の光磨だったらげんなりしていたことだろう。でも普通に笑ってその様子を見ることができているし、優しすぎる菜帆と紫樹の視線も心地が良い。


「ん、どーしたの?」


 ふいに電波ちゃんと目が合った。不思議そうに小首を傾げる電波ちゃんを見て、光磨は自然と口を開く。


「ありがとうな」


 ――と。

 光磨にしては珍しく、逃げも隠れもせず電波ちゃんを見つめられた気がした。


「…………ほえぇ?」


 少々、素直になりすぎただろうか。電波ちゃんは口を大きく開いて、いつも以上のアホ面になってしまった。菜帆も驚いたようにこちらを見てきて、紫樹と夏奈子に限っては茶化す気満々なニヤニヤ顔を向けている。

 正直、恥ずかしいったらありゃしない。自分だって、いきなり感謝を伝えるなんて馬鹿みたいなことをしてしまったと思う。最初は電波恐怖症だリアリストだと、あんなにも電波ちゃんの存在を認めていなかったはずなのに。今ははっきりとわかってしまう。光磨が温かくて優しい存在に囲まれているのは、電波ちゃんのおかげなのだと。電波ちゃんが現れたから、菜帆や紫樹、夏奈子と出会って、秋鷹とも少しずつアニソンの話ができるようになった。

 自分はたくさんの人の力を借りないと前に進めない大馬鹿者だ。でも、馬鹿は馬鹿でも力を借りるのが当たり前だと思うような馬鹿にはなりたくないと思った。

 だから光磨は、慣れない鼓動の速さに戸惑いながらも電波ちゃんを見つめ続けるのだ。


「えへへ。なんだよもう、照れちゃうじゃん」


 へにゃりと頬を緩めながら、電波ちゃんは言葉通りに照れてしまったのか俯きがちになる。まるで光磨の様子を窺うようにちらちらと見てから、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。

 蜜柑色の髪に咲いたキスミレの髪飾りと、紺碧色の瞳がキラリと輝く。まじまじと電波ちゃんを見ていると、改めて現実離れした容姿をしているのだと感じた。

 でも、違うのだ。自分の心に蓋をするのはもうやめようと、心の内側から騒ぎ出す。何もかも取っ払ってしまいたいと思った。


「ありがとう、


 ――だから、だろうか。

 電波ちゃんの声色が変わった気がした。今まではずっと、電波ちゃんとの間には大きな壁があって、電波ちゃんに名前を呼ばれても「コーマ」と言っているに違いないと思い込んでいた。意味のわからない存在が、馴れ馴れしく名前を呼んでくる訳がない。光磨が電波ちゃんと呼ぶように、電波ちゃんもコーマで良い。どうせ深く接することはないのだから、と。最初はそう思っていた。でも、今ではもう消え失せてしまった感情だ。

 今、電波ちゃんははっきりと「光磨」と言った。そんなのただの匙加減かも知れない。でも、その匙加減が無意識に働いてくれたのだ。「光磨」と聞こえたという事実に、小さな温かみを感じる。


「本当は、その笑顔が見られただけで満足すべきなんだろうね」

「え……?」


 電波ちゃんは光磨を見て、困ったように眉のハの字にさせる。でも、それはほんの一瞬のことだった。


「でも、まだ……もう少しだけ、見守っていたいの」


 思わず、紺碧色の瞳に吸い込まれそうになる。

 無駄にテンションが高かったり、照れたり、困ったり――。電波ちゃんはまるで子供のように表情がころころと変わるけれど、真面目な顔はまだ見慣れない。

 いったい何が足りないのか。やっぱり、光磨にはまだわからない。だけど、自然と動揺する気持ちにはならなかった。今はただ、自分の進みたい道へ進みたい。それだけだ。


「そうか」


 短く頷き、光磨は電波ちゃんから視線を逸らす。

 菜帆がいて、紫樹がいて、夏奈子がいて、電波ちゃんがいて、そこに自分も立っている。今から皆で、アニソンの世界を知りに行く――なんて。

 たったそれだけのことなのに、光磨は自然と笑みを零していた。

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