4-5 知りたい
光磨はずっと、色んなものから逃げてきた。
自分の夢についてちゃんと考えることもそう。アニソンのこともそう。電波ちゃんのことだって、最初は早くいなくなって欲しいと思っていた。でも、今は違う。一緒にいて居心地が良いと感じる人が近くにいて、自分はもう一人ではないのだと実感できている。
だから光磨も、紫樹が見せてくれたように動いてみようと思った。
「穂村さん、ごめん」
しっかりと菜帆を見つめてから、光磨は頭を下げる。
「え……?」
突然のことに驚いたのか、菜帆は困ったような声を漏らす。変な誤解をされないうちに、光磨は続きの言葉を振り絞った。
「俺……この四人でアニソンフェスに行けたら楽しそうだと思っちまって」
顔を上げて、光磨は何とか笑顔を作った。でもきっと、苦い表情になってしまっているのだろう。菜帆は自分をアニソンフェスに誘ってくれたのだ。今日初めて会ったばかりの紫樹と夏奈子とも一緒に行きたいなんて言ったら、菜帆を困らせてしまうかも知れないと思った。
「枇々木くん!」
「…………悪い。変な提案だったよな」
苦笑が止まらない光磨の手を、菜帆は優しく握ってくる。
「そうじゃないよ」
じっと琥珀色の瞳を向けてくる菜帆を見て、光磨は密かに「また積極的モードに入ったのか」と思った。恥ずかしさはもちろんあるが、逸らしたくはない。不思議な気持ちに包まれながら、光磨は菜帆の言葉を待った。
「枇々木くんも、前に進んでるんだね」
菜帆の口から放たれた言葉が、静かに光磨の心に溶けていく。
一瞬だけ、呼吸が止まりそうになった。電波ちゃんと出会って、迷いながらもアニソンと向き合って、それでもまだ電波ちゃんは消えなくて。自分はちゃんと前に進めているのか。本当は、それが不安で仕方がなかったのかも知れない。
こんなにも嬉しいと感じる心の震えは初めてだった。
「な、何だよそれ。穂村さんは俺の親か何かかよ」
「アニソンを教えてるって意味では、私は枇々木くんのお母さんかもよ?」
「母さん……は、やめてくれ。せめて先生にしてくれないか」
「ふふっ。強くなったんだね、枇々木くん」
嬉しいけど恥ずかしい。恥ずかしいけど嬉しい。色んな感情がぐるぐる回って、光磨はようやく温かい笑みを向けてくる菜帆から視線を逸らす。
自分はちゃんと前に進めている。強くなった。口に出して言ってもらえるだけで、こんなにも力が湧いてくるなんて。菜帆は光磨の光になる存在――の意味が、また少しだけわかった気がした。電波ちゃんが見えるようになった紫樹もそうだし、もしかしたら夏奈子にも電波ちゃんが見えるようになっているのかも知れない。
そんな人達と向き合わないでどうする、と光磨は思った。
「萌先輩。実は、穂村さんがアニソンフェスに誘ってくれて……。柚宮と二人でデートをする前に、皆で行ってみるのはどうか……という提案なんですが」
「だ、ダブルデートってこと?」
「あの、萌先輩。全然話が進まないんでスルーして良いですか」
「うん、ごめんね。私もちょっとまだ混乱中で……」
夏奈子は弱々しい笑みを浮かべながら平謝りをし、「でも」と言葉を続けた。
「あたし、妹が二人いるんだけどね。妹達の影響で、あたしも最近アニソンに興味があるの。だからあたしは賛成……なんだけど、柚ちゃんは……」
夏奈子にしては珍しく、恐る恐るといった様子で紫樹を見る。結局のところ、デート自体は先延ばしにしてしまったことを悪びれているのだろう。
「大丈夫ですよ、萌先輩。萌先輩とプライベートで会えるってだけで飛び跳ねるくらい嬉しいですから。それに、光磨が皆で行きたいって言ってくれたことが何より嬉しいんです」
言いながら、紫樹は照れ笑いを浮かべる。
「私ももちろん賛成だよ。柚宮くんと萌木野先輩とも、仲良くなれたら嬉しいし……よろしくお願いします」
菜帆も何の迷いもなく、二人にお辞儀をしてみせた。それから、ちらりと光磨を見て笑う。心の底から嬉しそうで、楽しそうで、電波ちゃんでもないのに眩しい光を纏っているように見えた。思わず逸らしたくなるのをなんとか堪えて、光磨はぎこちなく笑みを返す。すると菜帆は、紫樹と夏奈子がいるのも気にせず前のめりになった。
「ねぇ、枇々木くん。前に言ってたよね。アニソンのこと……知りたいんじゃなくて、知らなきゃいけないって」
菜帆の透き通った瞳が、じっと光磨を捉える。訊かなくとも光磨の答えはわかっているはずなのに、菜帆は「どうなの?」と光磨を試すような強い視線を向けてきた。
「……そうだったな。なのに今は知りたいって思えるんだから、不思議だよ」
「そっか、良かった。これでこれからもビシバシ枇々木くんにアニソンを叩き込めるよ」
えへへ、とまた楽しそうに微笑みながら、菜帆は光磨から離れる。夏奈子を見ると興味津々に「ほほう」と漏らしていて、紫樹は純粋に菜帆の積極性に驚いたように目を丸くさせていた。光磨はわざとらしく咳払いをする。
「と、とにかく、この四人で行くってことでよろしく。それじゃ」
早口で言い放ち、光磨はそそくさと部室から抜け出す。菜帆まで残して出ていってしまったのは悪かったと思ったが、足は止められなかった。
波打つ鼓動に耐えられず、光磨は思わず口元を押える。悩んで悩んで悩みまくって、ようやくたどり着いた場所は優しさの塊だった、なんて。本当に、意味がわからない。でも、だからと言って頭を抱える訳ではないのだ。光磨はふと、電波ちゃんの顔を思い浮かべる。
なんとなく。
本当になんとなくではあるが、光磨は思った。
もう少しで電波ちゃんが満足する理由がわかるかも知れない、と。
***
アニソンフェスに行くと決まってからの約一ヶ月間は、思った以上にあっという間に過ぎていった。きっと、夢中になれている証拠なのだろう。菜帆が教えてくれたアニソンの中から気になった曲のアニメを観て、アニソンの詩やメロディーの奥深さを知る。
そこからアーティストやクリエイターにも興味を持って、様々な作品に手を出して――そして、奥野原浩美の曲も少しずつ聴くようになった。
母親の曲だけは、何故かまだ聴くのに勇気がいる。キスミレの光を初めて聴いた時程ではないが、母親の歌声を聴くと心が苦しくなってしまうのだ。でも、奥野原浩美の曲を知る度に光磨は妙な満足感に包まれる。
次はどんな曲を聴こう。どんな作品を観よう。
そんな思考になっている時点で、光磨はとっくにアニメオタクの道に足を踏み入れているし、前にも進めている気がする。
ただ一つ、変わらないことと言えば、
「なぁ、キスミレ」
「もー、電波ちゃんで良いってばー」
「……そうか」
電波ちゃんと顔を合わせると、いつも同じ会話をしてしまうことだった。
焦って前に進みたいと思っている訳でも、電波ちゃんと呼ぶことに罪悪感を覚えている訳でもない。
キスミレの花言葉は「つつましい幸福」だ。彼女は光磨の元に、本来感じるべきだった小さな幸福をたくさん運んでくれた。まぁ、つまるところは感謝をしている訳なのだが――如何せん、電波ちゃんはいつだって電波ちゃんだ。口を開けばこちらの調子が狂うし、お礼の一言も伝えられない。だから妥協してキスミレと呼ぼうと何度も試みているのだが、へらへらと笑い飛ばしてかわされてしまう。
――と、思っていたのだが。
最近になって、電波ちゃんの反応が少しだけ変わった。
「私のことを名前で呼ぶのは、コーマがちゃんと気付いてからが良いかなって」
相変わらず、電波ちゃんの言葉ははっきりしない。こんなにも前向きな気持ちになっているというのに、いったい何が足りないというのだろう。わからなくて、光磨は首を捻る。
「まだ駄目なのか? 自分で言うのも何だが、驚く程にのめり込んでいるつもりなんだが」
「確かにそれはそうだね。コーマのお父さんも最近嬉しそうにしてるし」
「お前、人の親を勝手に観察してんじゃねぇよ」
電波ちゃんに毒づきながらも、光磨は自分の表情が緩むのを感じる。
少しずつ、光磨は秋鷹に自分の本音を伝えていた。もちろん電波ちゃんのことではなく、アニソンに興味が出てきたという話だ。友達と呼べる人もできて、フェスに行くことも話した。
「そうか! ……そう、なんだな」
――というのが、最初の秋鷹の反応だ。
珍しく前のめりになったと思ったら、すぐに身を引いてぼそりと呟く。まるで嬉しさと困惑が同時にきたような、よくわからない反応だった。でも、それはほんの一瞬の出来事。
「訊きたいことがあれば、訊いても良いんだぞ」
言いながら、秋鷹はまっすぐ光磨を見つめてくる。迷いのない、鋭い視線だった。秋鷹の言葉は、母親のことなのかアニソンのことなのか、詳しくはわからない。
ただ、嬉しい気持ちが溢れるのと同時に、やはり電波ちゃんが見えていないという悲しい気持ちが混ざっていた。
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