3-6 高鳴る鼓動

 耳に流れ込んでくるのは、ヴァイオリンが主体のシンフォニックなメロディーだった。スピード感がありながらも美しいそのイントロは、まるで光磨の心を焦らすかのように長めに感じられた。

 やがて、そわそわと波打つ鼓動に溶け込むように、優しい歌声が響き渡る。



 君は私の太陽で

 眩しすぎる光に夢中で

 近付きたいって思った だから 進むんだよ


 キスミレの花が咲いてた

 そっと包むよ優しい光が

 だから小さな別れを誓うよ

 弱い自分の気持ちと


 さよならだよ この涙は

 進むための 証だから

 どうか傍にいて欲しい 揺れる想いは

 いつか 君に届くかな いつか 伝えられるかな


 私は恵まれているよ

 君に出会えたことがすべてだよ

 後悔なんてないって思った だから 笑うんだよ


 私も君も一緒だよ

 キスミレの花が咲いているよ

 決して枯れない幸せがほら

 私達を包むから


 さよならだよ この涙は

 進むための 証だから

 どうか君は笑って欲しい 溢れる感情

 十年後も二十年後も ずっと


 私が歩いた道だって 君と出会った奇跡だって

 胸を張って言えるんだよ 幸せだったって

 これから引き継ぐ世界は きっともっともっと幸せで

 そしたら私は思うんだよ 幸せなんだって


 大好きだよ だから君は

 進む道へ 進めば良い

 何度だって背中押す 私がいるから

 いつも キスミレの光 君を 包んでいるから



「……枇々木くん?」


 きっと、隣に菜帆がいなければ、声をかけてくれなければ、光磨はいつまで経っても身動きが取れなかったのだろう。

 とっくに曲は終わっている。放心状態とはまさにこのことなんだろうな、と心のどこかで思った。恐る恐る、菜帆を見る。すると、菜帆は唇をきゅっと結んで潤んだ瞳を向けていた。

 そんなに自分は酷い表情をしているのだろうか、と思った。

 確かに今、光磨は後悔している。いや、決してキスミレの光を聴いたこと自体に後悔している訳ではない。それに関してはちゃんと一歩を踏み出せたのだと思っている。ただ、少々急ぎすぎたような気がするのだ。まずはキスミレの光が主題歌になったアニメのことを調べることから始めるべきだった。そうじゃないと、いったい歌詞のどの部分がアニメに寄り添っているのかがわからない。わからないから、光磨は勘違いをしてしまうのだ。


 キスミレの光は、自分に向けられた曲なのではないかと。


 どういう部分が? と具体的に訊ねられると困ってしまう。でも、だったら、雫が頬を伝っていく理由はいったい何なのだろうと思う。メロディーが、歌詞が、ぐるぐると頭の中を回って離れてくれない。嬉しいのか、悲しいのか、そんな極端な感情すら自分でもよくわからなくなっていた。


「悪い。情けないよな」


 やがて光磨は、付き添ってくれた菜帆に無理矢理な笑みを向ける。


「ううん、そんなことないよ。初めて聴いたんだもん」

「ああ……そう、だよな」


 菜帆はただ、優しい瞳で光磨を見てくれていた。でも、徐々に溢れていくのは不安な感情で、光磨の心はますます情けない気持ちで満ちていく。


「……電波ちゃん……」


 不意に呟いた言葉は、電波ちゃんの名前だった。

 本当はキスミレの光と言うべきなのかも知れないが、すっかり電波ちゃん呼びが定着してしまった。光磨が勝手に電波な存在だと決め付けて呼び始めた名前が、今になってちくりと胸に突き刺さる。

 光磨は今、電波ちゃんがキスミレの光であることを知った。

 キスミレの光だと認識した今、電波ちゃんはどうなるのだろうか? 私、キスミレの光だったんだ! とか言って満足して、あっさりと消えてしまうのだろうか。


「そんな、の…………」


 ――嫌だ。


 しっかりと、はっきりと、光磨は心の中で叫ぶ。


 もう少しで、何かが掴めそうな気がするのだ。

 電波ちゃんが現れたのは紫樹と微妙な雰囲気になった時だった。でも、それとは少し違うもやもやが光磨の中には渦巻き続けている。電波ちゃんと出会って、キスミレの光だと知って、これからどうしたいのか。

 あと少しで、わかるような気がするのに。


「あっ」


 菜帆の声に、光磨は慌てて顔を上げる。いつまでも俯き続けていてはいけない。とにかくまずは、電波ちゃんを探すことから始めないと。そう思った、はずなのに。


「…………え?」


 光磨は動きを止めてしまった。瞬間的に浮かんだ言葉は「何で」だったが、驚きが勝ってしまい、何も言うことができない。


「コーマ、どうしたの?」


 蜜柑色の外ハネショートヘアーに、キスミレの髪飾り。瞳は大きな紺碧色で、小柄な身体を真っ白いワンピースで包んでいる。

 辺りはそろそろ暗くなってきたはずなのに、彼女の周りだけ妙に明るく感じる。そんな現実味のない一人の少女は、いつものように突然現れて小首を傾げていた。


「お前……どう、して……」


 やっとの思いで呟いた声は震えてしまい、光磨は思わず目を逸らす。どうしてここにいるのかなんて、今訊くべきことではないのだ。訊かなくてはいけないことは、他にある。


「コーマ、泣いてたの? 何か嫌なことでもあった?」

「違う。……違わないけど、違う」

「えー、何それー。変なコーマ」


 目の前にいる電波ちゃんは、幻でも何でもなくそこに存在していた。聞いていると力が抜けるようなおちゃらけた声。声色も容姿も子供じみている、いつも通りの電波ちゃん……だと一瞬思った。でも、違うのだ。表情だけは違和感を覚えてしまう。

 まるで、光磨の悩みよりももっと遠い場所にいるような、微妙な笑みを浮かべている。


「枇々木くん」

「ああ、わかってる。電波ちゃん、ちょっと良いか。訊きたいことがある」


 不安げに揺れる菜帆の瞳に頷いてから、光磨は電波ちゃんを見つめた。

 怖くないと言ったらやっぱり嘘になる。でも光磨も菜帆も勘付いてしまっているのだ。電波ちゃんはキスミレの光なんじゃないかと。もし電波ちゃんの言う「アニメソングになりたい」がキスミレの光だと自覚することだとしたら、本当に電波ちゃんは消えてしまうかも知れない。自分はもやもやを残したまま、電波ちゃんは満足して消えるのだ。

 そんなのは嫌だし、「電波ちゃんって結局何で現れたんだ?」という謎も残るし意味がわからない。でも、だからと言ってここで電波ちゃんに訊ねないのも嫌なのだ。

 もう逃げたくない。前に進みたい。


「電波ちゃん。お前は…………」


 だから、光磨は電波ちゃんに問いかける。


「キスミレの光、なのか……?」


 ――と。

 反射的に俯きたくなるのを何とか堪えて、光磨は電波ちゃんの反応を待つ。

 電波ちゃんは大きな瞳をますます見開いて、じっとこちらを見つめていた。いつもみたいに誤魔化すということはしないようで、なかなか返事をしてこない。


「ま、的外れなら的外れだって……」


 痺れを切らした光磨は、焦ったように言葉を零そうとする。しかし、光磨の言葉を遮ったのは電波ちゃんの優しさと苦さが混じったような笑みだった。


「ううん。確かに私はキスミレの光だよ。でも……まだ駄目みたい」


 電波ちゃんはさらりと言い放ち、光磨と菜帆を交互に見つめる。光磨も菜帆も、すぐには言葉を発することができなかった。

 やがて、ポカンと口を開いて唖然としている菜帆と目を合わす。きっと光磨も同じような表情になっていることだろう。

 まったくもって頭は追い付かないけれど、確かに「キスミレの光だよ」と言い放った電波ちゃんは消えずにここにいる。結局はそこなのだ。

 まだ電波ちゃんと接していられるのが、嬉しいと思ってしまう自分がいる……なんて。


「は、はは……何だよ、それ」


 出会った直後はあんなにも関わりたくないと思ったのに、今は消えないとわかって安堵している。光磨は自分を自虐するように乾いた笑みを零した。


「意味わかんねぇよ」


 まだ駄目みたいとは、いったい何なのか。ちゃんと説明して欲しいところだが、電波ちゃんに聞いても無駄だということはもうわかっていた。

 だから、光磨は笑うのだ。


「仕方ないから、もう少し協力してやる。……穂村さんも、頼めるか?」


 訊ねると、電波ちゃんも菜帆も笑顔で頷いた。

 ただそれだけで、胸の内から小さな力が湧いてくる。比喩かも知れない。気のせいかも知れない。でも、高鳴る胸の鼓動は決して苦しいものではない、と。迷いなく断言出来てしまうのが不思議だった。

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