1-3 情けない視線
あれから菜帆は教室に戻り、光磨は二限目が終わるまで保健室で休んでいた。菜帆と話ができたことでだいぶ心は落ち着いていたが、若干吐き気は残っていたのだ。
光磨が教室に戻ると、いつもと変わらない日常が始まる。
菜帆が「もう大丈夫?」と声をかけてはくれたが、他のクラスメイトは特に光磨を気にしてはいなかった。いや、チラ見くらいはされていると思う。でも、話しかけられることは決してなかった。まぁ、光磨自身がコミュニケーションを取ろうとしていないのだから、当然のことである。
午前の授業が終わり、購買のパンを買って昼食を済ませ、午後の授業もあっという間に終わってしまう。電波ちゃんと過ごした時間はあんなにも長く感じたのに、時間とは不思議なものだと思った。
「あっ枇々木くん、また明日ね」
辺りを見渡す素振りを見せてから、菜帆は光磨に手を振る。きっと電波ちゃんの姿を探していたのだろう。確かに、菜帆との会話の途中で姿を消して以降、電波ちゃんの姿を見ていない。でも、電波ちゃんが言っていた「アニソンになりたい」は、まだ全然解決していないはずだ。だからこのまま永遠に現れないなんてことがあるはずがないと思った。
「ああ、じゃあな」
力なく手を振り返してから、光磨は教室を出る。
向かう先は所属する文芸部の部室だ。教室よりかは居心地が良いと感じているはずの部室――なのだが、今日ばっかりは足取りが重い。
(謝れば済む話、なんだろうか)
気まずい雰囲気の部員の顔を思い出しながら、光磨はわりと大きめのため息を吐く。ぶっちゃけてしまうと、今日はもう疲れているのだ。電波ちゃんという訳のわからない物体と接して、ずっと話せていなかった菜帆ともたくさん会話をした。普段の自分では考えられないくらい頑張ったのだ。だから、本当は逃げたくて仕方がない。
でも、駄目だ。今日逃げたら、きっと一生部室には行けなくなる。少しではあるが、文芸部では人と会話ができているのだ。ここで逃げて帰宅部になってしまったら、光磨は心の底から駄目人間になってしまう。そんな気がするのだ。
「もう、駄目だよ。ため息ばっかり吐いちゃ!」
「…………」
ずっしりと重すぎる足取りではあったが、確実に部室へと進んでいた。なのに、それがピタリと止まってしまう。
もしかして、ため息を吐かなればこいつは現れなかったのではないだろうか。そんな深読みをしてしまう程、光磨は絶望的な気持ちになった。
「お前、何でまだいるんだよ」
「アニメソングになりたいからだよっ」
「ああ、そうかよ」
明るすぎる声と、眩しすぎる笑顔。
さも当然のように立ち塞がってくる電波ちゃんに、光磨は思い切り顔をしかめる。
小さなため息とともに再び歩みを進めると、「だからため息は駄目だってー」と不服そうな声を上げた。
でも、無視をする。
これは決して現実逃避ではない。確かに電波ちゃんは鬱陶しいし、いずれはどうにかしなければいけないのだろう。だけど、今優先すべきは電波ちゃんではないのだ。
「コーマ、顔怖いよ? 大丈夫?」
「…………」
本当に、誰のせいだと思っているのだろう。もはや煽られているようにしか思えない電波ちゃんの声を聞きながら、光磨はまっすぐ部室へ向かう。
今は電波ちゃんに怒りをぶつけている場合ではない。
顔が強張ってしまう原因は、他にもたくさんあるのだから。
部室棟の一角にある文芸部は、まだ人がいないのではないかと思うくらいに静かだった。思わず扉の前で佇み、聞き耳を立ててしまう。元々騒がしい部ではないが、いくら何でも物音がなさすぎる。
だから光磨は、きっと自分が一番乗りだろうと決め付けてしまった。
しかし、一番乗りだった人物はすでにいたのだ。
「あっ」
思い切り、目が合ってしまう。
光磨と同じく一年生で、文芸部に所属する
「や、やあ、光磨。……ええと」
明らかに動揺した様子の紫樹は、困ったように俯いてしまう。
光磨と比べると背が低い紫樹が、ますます縮こまって見えた。薄墨色の長めの髪をゆるくサイドテールにしていて、まつ毛が長くて肌も白め。中性的ではあるがれっきとした男性である紫樹の姿が、いつにも増して弱々しい。
自分から何かを言わなくてはいけないのかも知れない。
そんなことはわかっていた。なのに声も身体も動かない。なんて情けない話だと、光磨は心の中で苦笑した。
「あの、さ。昨日はごめんね。もう大丈夫だから」
すると、紫樹に頭を下げられてしまった。先を越されてしまったと後悔するも時すでに遅し。顔を上げる紫樹は多分笑っているつもりなのだろう。でも全然笑えていなくて、ぎこちない表情になってしまっている。
昨日はごめんね。もう大丈夫。
紫樹の言葉が、するりと頭を通りすぎていく。いったい、何がごめんねで何が大丈夫なのか、光磨にはわからない。
もやっとした感情が、光磨の心に芽生える。
ことの発端は、昨日の部活中のことだった。
***
光磨が唯一好きだと思えるものが読書で、自分で小説を書いたりもする。
昨日は初めて応募したライトノベルの新人賞の一次選考が発表された日だった。光磨の出した作品は見事に一次選考を突破。紫樹を始めとする部員全員で喜び、光磨の作品を分析する。
正直、この時点で光磨の心は置いてきぼりになっていた。自分よりも喜びを露わにしている皆の姿――というよりも、思った以上に喜びが湧き上がらない自分に対して、といった方が良いだろう。
「……柚宮はどう思うんだ?」
あのシーンが良かった。あのキャラクターが良い。皆が皆、様々な意見を言う中、紫樹だけがだんまりとしていた。ついつい光磨が訊ねると、紫樹は困ったように眉根を寄せてから、ゆっくりと口を開く。
「うん、悪くないと思うよ。むしろ、凄く面白い。……でも、この話って本当に光磨が楽しいって思って書いてるのかな、と思って。もちろん文章力はあるんだよ。羨ましいって思うくらいに。でも、さ」
小さく息を吸うような仕草をしてから、紫樹はじっと光磨を見据える。
「流行りに乗ってるだけで自分らしさがないと思う。今だって、そんなに喜んでないみたいだし。光磨は……本当に小説が好きなの?」
透き通った胡桃色の瞳から逃げ出すことなどできなかった。
無意識に口が開き、わかりやすく身体が震えてしまう。
紫樹の言葉を否定したいという反射的な気持ちは一瞬で消え失せてしまった。いや、本当に小説が好きなのか? という問いには迷いなく頷ける。本を読む以外の娯楽が自分の中にはない。でも、書くことに関してはどうだろうか。
わからない。わからないから、光磨は逃げ出してしまった。
「どうだろうな」
そう、笑って誤魔化した時。
最終下校時間を告げるチャイムが鳴り響き、部長がパチンッと手を鳴らす。微妙な空気が中途半端なタイミングで打ち切られてしまった。でも、きっとこのまま話を続けていても空気が悪くなる一方だったのだろう。
だから、あの時はあれで良かった。
再び紫樹と向き合っている今は、やっぱりどうしたら良いのかわからないのだが。
――パチンッ、と。
また、手を鳴らすような音が響いた。あの時、部長は二回も手を叩いただろうか? ……なんて、現実逃避をするのはもうやめた方が良いだろう。
過去を振り返るのは終わりだ。
光磨は意を決して、手を鳴らした人物を見つめた。
「二人とも、いつまでも突っ立ってないで席に座る!」
腕組みをしながら言い放つのは、二年生の
鎖骨辺りまで伸びた菜の花色のセミロングの髪に、白いカチューシャ。身長は紫樹より若干低いくらいで、女子高生にしては高い方だろう。
つり目ではあるが怖い印象はなく、頼れるお姉さんという印象がある。容姿端麗というやつだろう。可愛いよりも美人系だと光磨は思っている。
しかし、
「ほーらー、二人して死んだような顔しないの! 早く生き返って、ほらほら」
ぶっちゃけ、光磨は夏奈子が苦手だ。
今だって、まるで動物をあやすかのようにパチパチと手を鳴らす夏奈子を見て、心が冷え切ってしまって仕方がない。
いや、もちろんわかっているのだ。夏奈子は自分と紫樹を心配してくれている。だから明るく振舞ってくれているのだと。それは理解しているつもりなのだが、如何せん言動が電波じみているのだ。電波恐怖症が疼く程ではないが、夏奈子と接すると疲れてしまう。
(まぁ、それでも電波ちゃんよりはマシだけどな)
電波ちゃんに皮肉めいた視線を向けると、電波ちゃんは大きく首を傾げてみせる。かんに障るが、いちいち気にしていてはキリがない。
だいたい、この場で電波ちゃんに反応する訳にはいかないのだ。誰も、電波ちゃんに気付いていないのだから。
(誰も気付かない、か……)
菜帆は光磨の光になる存在だから電波ちゃんが見える。
でも、紫樹も夏奈子も他の部員も、電波ちゃんが見えていないようだった。もちろん、光になる存在の意味がなんなのか、光磨にはまだわからない。わからないけれど、光磨の胸はチクチクと痛んだ。
夏奈子や他の部員達はともかくとして。
紫樹だけは、少なからず心を開ける相手だと思っていた。もしかしたら紫樹も電波ちゃんの姿が見えるのではないかと、そんな淡い期待を抱いてしまっていた程だ。
そう思うくらいだったら早く紫樹と向き合えば良いのに、口が上手く動いてくれない。きっと、紫樹とは友人と呼べる間柄にはなれない――なんて、マイナスな思考ばかりがよぎってしまう。
「ゆ、柚宮。俺……」
必死に言葉を紡ごうとするも、続かない。
焦った挙句に俯いた。ああもう駄目だと思っていると、そっと肩を叩かれる。相手は紫樹でも夏奈子でもなく、電波ちゃんだった。
「コーマ」
優しく微笑み、アイコンタクトを向けてくる電波ちゃん。
光磨は、ほとんど無意識のうちに小さく頷いていた。
本当に、情けない話だ。電波ちゃんという訳のわからない存在に頭を抱えつつも、心のどこかでは助けを求めていた、なんて。
さっきみたいに背中を押してくれと。
そしたら話せるかも知れないと。
――そんな非日常的な現実を、電波ちゃんに求めていたのだ。
馬鹿だ。馬鹿で馬鹿でたまらない。何がリアリストだよと自分を嘲りたい気分だ。
でも、菜帆のことがあって、紫樹のことを諦めたくないという気持ちが芽生えた証拠なのかも知れない。
そう思いながら、光磨は小さな覚悟を固めていた。
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