3話 失恋




しばらくはユリからの電話もたまにはあったし、ユリはその電話で「たまには会って話がしたいね」とも言っていた。でも自然にというか、「この間知り合ったばかりですぐに距離が離れた友人」としては当たり前に疎遠になっていき、ある時からぷっつりと音信不通になった。“無理もないことだ”と僕は思って諦めようとしたし、僕自身からユリに電話を掛けることはしなかった。しかし、僕たちはその数年後に再会することになる。だからここには、その間の僕の生活を書いておこう。


僕は当たり前のように毎晩安酒をたっぷり飲んでは家の中を無我夢中で荒らしたり、「海賊」で泥酔して店長に絡んだりした。「ハーベスト」ではビールを大瓶で三本四本空けてしまっては、マスターに子供の守りかのようになだめられていた。でもそんなある日、マスターがどうにも困ったような顔をして、こう言った。


「まったくどうしたもんかねえ。飲みようが前と今じゃ全然違うじゃないの。昔はもう少しは少なかったよね、何かあったのかい?」


マスターは、椅子と壁の間に落っこちて立ち上がれなくなった僕を引っ張り上げようとして、僕がてんで力が入らなかったもんだから一旦諦めたところだった。僕はただへらへらと笑っていた。“だっていい気持ちなんだ。こんなに素晴らしいことはないじゃないか。マスターは心配のし過ぎだ。”僕は頭まで前後不覚に陥ってしまって、そう思っていた。それから、それまで毎日毎分毎秒に至るまで必死に押さえつけていたものを、放り出してしまいたいような気持ちがした。“ええい、喋っちまえ。別にかまわないだろう。”


「なに、ただの失恋ですよ」


僕はそう言って、なんとかかんとか椅子に戻ろうと、椅子の背に片腕を掛ける。マスターはもう片方の手を取って引っ張ってくれた。


「失恋というと、この間までよく来てた彼女かい」


「ええまあ」


マスターはユリの容姿や大体の年齢を知っていただろうし、それで僕に少し呆れながらも、“まあもちろんどんな失恋であっても辛いことには変わりはないし”と思ったのだろう、同情するような顔をしてくれた。僕は席に就いて煙草を探し、しばらくして目の前に置いてあったことに気づくと、それに火を点ける。「ハーベスト」にはそのとき誰も居なかったし僕もビールを飲んでいるだけだった。マスターは僕の話を聴いてくれようとしたのか、僕の前の席に座った。そのときに僕は、マスターが座った席にユリが座っていたこと、彼女が僕に微笑みかけてくれていたことを思い出した。


「まあそりゃ失恋になるのが当たり前とはいえ、いい子そうだったからねえ。忘れられるまでは時間が掛かるかもしれないが…」


「そうですね、いい子だった。いい子過ぎるんですよ。こっちに慰めさせてもくれやしない」


僕はその晩、何もかもぶちまけるつもりでいた。でも、そのとき僕は、ユリが持っていた悲しみをちょっとだけ見せてくれたときのことを思い出した。そうすると僕の心はふっと黙り込んで、そのまま思い出を追いかけ始めて、止まらなくなってしまった。そこから先は、言葉など出てこなかった。マスターは急に黙り込んでしまった僕を見てそれを察したのか、「今晩はもうやめたら?」とだけ言った。





僕はそれから数年、たまにユリのことを思い出しては、“どうしているだろうか、ちゃんと生きていてくれているだろうか?”と心配をしたり、一度も、指一本触れやしなかったユリに対しての恋心を収めるために酒を飲んだりした。そうでなくても僕は酒浸りではあったけど。


仕事は上手くいかなかった。僕は、寒々しい孤独に心を絞られていっているのだ。そんな状態で仕事に身が入るわけはなかった。だんだんと派遣会社から僕への依頼は減り、それなのに僕が飲む酒の量は大して変わらなかった。そして僕は、一人の女性に出会う。


彼女には、「海賊」で飲んでいるときに出会った。いい女性だった。でも少しだけ寂しそうで、こちらを良く気遣いながら話をしてくれる、誰かを思い出させる面影があった。僕はそれに気づいていたのに、その女性と連絡先を交換して頻繁に会うようになり、男女の仲として交際することにした。


彼女の名前は奥野依子といった。でも僕は彼女の名前にも、顔にも、大して興味もなかったんだろう。ただそこに悲しそうで寂しそうな影があって、それが僕のそばで僕の話を聴いていてくれるなら、依子でなくても良かったのだ。僕はその頃の自分がどんなに卑しい身勝手な男だったかをちゃんと知っていながら、依子がたまに寂しがって泣くのを慰めた。


それから僕と依子は僕の家で酒を酌み交わしたりする夜を何度か過ごした。


僕の家は三つの部屋と風呂や洗面所なんかがある、わりあいに広い部屋だった。でも古い団地なので、夏は暑く冬はひどく寒い。玄関を入ったたたきには砂や泥の痕がたくさんついて隅に埃が溜まり、洗面所にはもう使えそうもない歯ブラシが何本も放置されて、風呂はカビだらけだった。玄関の隣にある洗面所と風呂場を横目に過ぎると台所があり、そこを通り抜けると二間の部屋がある。台所は大きな窓でベランダに出られるようになっていて、花柄のビニールで床が覆われていた。でもそこに食卓はなく、いつもコンロに鍋が放置してあるきりだ。奥の二間の部屋にも窓があり、ベランダのある方の窓は台所と同じく大きくて、床はどちらも畳だった。小さな窓しかない部屋の隅には飲み終わった空の酒瓶が押しやられていて、雑誌がちょっと積まれている。昔読んだ本なんかは、生活費の足しにするために売られて跡形もなかった。それから布団が敷かれていたけど、ほとんど干しもしないので埃とカビの臭いが染みついている。もう片方の部屋は西向きのベランダがあって、何にも使っていない部屋だった。タンスが置いてあったけど、僕は服もあまりたくさん持っていないため、母の遺品のタンスは大して使われずに埃をかぶっていた。


田舎独特の土埃が部屋にどこからか入ってきて、畳の上はざらついて、布団はじめっとしていた。依子はある朝、前の晩に着てきた服をまた着てから、寂しくて帰りたくないのか、その布団の上に座り込んでいた。依子はそわそわとして、ときどき首を振ったりため息を吐いては、僕の方をちらちらと見ていた。僕は畳の上に座って窓枠に寄り掛かり、見たくもない外の景色を見ていた。


「ねえ」


話しかけられて僕は振り向いた。依子はそのとき僕の万年床の上に座り込んで足を折り曲げ、不安そうに両手を胸の前で合わせて、じっと僕を見た。それは何か祈るような、頼み込むような目だった。


「私は…あなたにとって、なんなの…?」


多分、僕からいい返事が返ってこないのを知っていながらも、それを諦められなかったんだろう。でももしここでまた嘘を吐いたとしたら、依子は僕のことを許さないんじゃないかという、どこか抜き差しならない感じがした。僕は、“もう本当のことを言おう。そして謝ろう。”そう思い、「本当に好きな子の、代わり」と言った。




依子は一度だけ僕を平手打ちして帰り、その後僕に依子から電話が掛かってくることはなかった。でも、それで良かったんだ。依子はもう自由だし、僕も自分の心を偽る毎日からは逃れた。初めに僕がそれを選んだことが招いたことだけど、やめにしなきゃならなかったのは確かだ。





日々が過ぎてゆく。ユリと別れ別れになって一年ほど経つと、僕はかつての友達とまた遊び歩くようになっていた。それは僕が二十代の頃、僕が家で倒れていると決まって現れて僕を病院に担ぎ込み、目を覚ますまで待ってくれていた奴だった。名前は東野雄木。僕と同い年で、高校の頃からの仲だった。学生時代は麻雀仲間だったし、僕が大学に進んで東野が車の整備員になってからも連絡を取り合ってたまに僕の家で朝まで話し込んだ。東野は僕を喜ばせようと下手な冗談を言ったりして、僕がそれを笑ってやると東野も嬉しそうにしているのだった。



その日、僕は東野と新宿に繰り出した。僕は給料が入って懐都合が良かったし、東野はやけに浮かれて騒ぎっぱなしだった。「文ちゃん、飲もう!」と僕を急かしては、東野は僕のグラスにどんどんビールを注いだりワインをぶちまけて笑っていた。僕は女みたいなあだ名で呼ばれてついつい「文ちゃんはよせよ」と言ったが、「なんだい、別にいいじゃねえか」とそのたび東野はぷいっと横を向いてしまうのだった。



「あー、気持ちわりぃ…」


「そりゃああれだけ飲めばな…」


僕たちは新宿の裏路地を歩いていた。帰り賃はあるにはあったが、電車がもう無かった。「新宿駅前でどっか座れるところを探そう」と二人で決め、そこまで歩いて行く途中だった。


「そういやあよぉ文ちゃん」


「ああ?」


不意に東野にまた変なあだ名で呼ばれて、僕は少し苛立ちながら返事をすると、東野はそれまで何も言っていなかったのに、突然こう言った。


「俺ぁ知子と別れたんだぜ。だから、これからは一人で自由気ままに生きるんだ」


僕は思わず、後ろをついてくる東野を振り返った。「知子」とは、東野が長い間仲の良かった奥さんだ。東野は僕に向かってにかっと笑ったが、それはどこか恨みがましく見えて、禍々しいとも言えるような、ひん曲がった笑い顔だった。僕は黙って前を向き、しばらく歩く。


「東野…」


「なんだよ」


後ろから返ってくる声はやっぱりのん気な東野の声だった。一体知子さんと東野の間に何があったのか知らないが、僕は東野を慰めたかった。でも、離婚なんてものをした東野からすれば、僕の悲しみなんか小さくてつまらないかもしれない。


「僕もこの間失恋したよ」


僕がそう言うと東野は後ろでぷっと吹き出して、立ち止まって大声で笑い始めた。よほど酔っ払っていたのか、東野はしばらく笑うのをやめなかった。僕は、東野が僕を馬鹿にするはずなどないと知っていた。だから東野が“手痛い目に遭った男二人がつるんでいる”のが滑稽で笑っているだけだと、分かっていた。それからやがて笑うのをやめたときも、東野は落ち込んだ顔など見せなかった。


「あー、こらぁおっかしいや。じゃあよ!もう一軒行くか!」


そう言う東野に「もう金がない」と言うと、「じゃあおごるぜ、これからは嫁に渡す分もねえからよ!」と、東野はまた笑った。“どいつもこいつも、悲しいくせによく笑うな”と思って、僕はまたユリのことを思い出した。





それから一時、東野と僕はよくつるんで飲んで歩いたが、ある頃から僕は東野を避けるようになっていった。


東野は奥さんだった知子さんを忘れることが出来ずに、酔っ払ってタガが外れると「知子…知子…」と名前ばかり呼んで、いつも酔いつぶれるまで飲むようになった。それから、「飲み代を立て替えてくれ」と何度か言われ、最後に断ったときには気に入らなそうに「なんでぃ、けちん坊」と言い、店を出ると東野は僕を置いて、ずんずん歩いて行ってしまった。


僕は東野の暮らしや人柄が荒れていっているのが分かったし、付き合い切れないと思ったのだ。でも、僕が死にかけると必ず救ってくれた東野を見捨てるなんて、容易に出来ることじゃなかった。“このままじゃダメだ。それに、僕には無理だろう。”誰か聞いてやる人が居るなら、東野は知子さんの名前を呼び続けるに違いないし、どちらにしろ、僕に今の東野を支え切ることなど不可能だった。


僕は東野の電話番号を着信拒否リストに設定して、“家に押しかけてきてもドアは開けないでおこう”と思った。でも、東野は家には来なかった。何もないまま五カ月ほどが過ぎ、僕はそのまま東野のことを忘れてしまった。僕は自分の苦しみにも気を取られていたからだ。






夜、寝る前になると、いまだに友達登録だけはされたまま、なんの連絡もなくなったユリとのメッセージ画面を見る。それが僕の日課だった。もうそらんじることが出来るほど、僕は一つ一つを噛みしめた。ただの「おやすみ」や「今日ヒマ?」を、何度も何度も読み返し、そして“今にまた同じようにユリから連絡がありやしないか”と望む心、そして、“そんなことが起きようはずがない”と冷めた頭に僕は真っ二つにされ、ときたま涙を流した。でも、いつまでそんなことをするのも、体力の限界だった。その頃僕はもう四十七になっていて、ユリと出会ってから四年が経っていた。


僕はその晩もそんなことをしてから、ビートルズが演奏するロックのスタンダードナンバーをスマートフォンで聴いた。それは、ユリから電話が掛かってきたときの着信音に設定してある曲だった。“ギター小僧だった頃にはよくビートルズを演奏したもんだ。”そう思い、ユリとの話を思い出す。ユリはビートルズも聴いたことがあると言って、僕がジョン・レノンについて語ったとき、興味深げに耳を傾けてくれていた。


スマートフォンをパーカーのポケットに放ってビートルズをイヤホンで聴いたまま、僕は立ち上がって台所へ行った。空腹だったのだ。シンクの上にある戸棚の中から袋麺を取り出して、コンロの上にほったらかしの鍋に水を汲み、湯を沸かそうとした。そのとき、イヤホンから流れていた曲が急に初めに戻って、僕はびっくりした。


「なんだ?」


思わず独り言を言ってスマートフォンをポケットから取り出すと、画面には「藤田 百合 着信」とあった。


「ええっ!?」


また独り言で叫ぶと、僕は慌ててイヤホンを外し、画面を上へとスワイプさせて電話を取る。恐怖に近いほどの喜びが襲い、僕の手は震え、声だって抑えが利かないかもしれなかった。でも、スマートフォンからはまだ何も聴こえてこなかった。


「…もしもし?」


「久しぶり!元気?」


それはやっぱり、間違いなくユリの声だった。僕は涙が込み上げて大泣きしたり声が震えてしまうのを抑えて、「本当に久しぶりだね。どうしたの?」とだけ返した。電話の向こうのユリが一瞬ためらっているように、ちょっとの間があった。


「いやー、こっち来ていろいろあってね、高校とか忙しかったから連絡しなかったけど、どうしてるかなーって思って」


“どうしてるもこうしてるも、毎日君のことを考えてたよ。”よっぽどそう言いたかったけど、言えなかったから、「なんとかやってるよ、高校はどう?」と聞いた。


「うんー、そろそろ卒業!だーれも友達出来なかった!」


そう言ってユリは電話の向こうで笑っている。僕は、ユリがどんなに美しくなったかを想像した。


「まあそういうこともあるけど、残念だったね」


「そうでもないよ。いじめられなくてよかったくらいにしか思ってない」


「うーん、まあね」


僕はそんな話をしながら湯を沸かして袋麺を茹で、しばらくユリと話せる喜びに浸った。ユリの声は少し大人びて、前よりもずっと快活に響いた。彼女が笑顔で居るのが分かる。それは喜ばしいことのはずなのに、僕は電話を切ったとき、ユリと別れた直後よりもさらにユリを遠くに感じた。



“ユリは新しい生活をすんなりと受け入れて、そこで愛され、そして以前のように悲しんでばかりだった日々を抜け出した。もう僕とは違う世界に生きているんだ。なおさら僕はユリに近づくべきじゃなくなった。僕みたいな奴がユリに近寄ったところで、ユリはなんとも思いやしないかもしれないし、もうユリに慰めは必要ない。僕はユリにとって、なんの意味もなくなった。”、僕はそう思って、具も何もないラーメンをすすってから、酒を飲むのも忘れて布団に包まった。


ユリは「また遊ぼうよ!」と言ってくれたし、「そうだね、暇なときにでもおいでよ」と僕も言ったのに、僕は“またあの地獄のような苦しみがやってくるかもしれない。彼女に対して自分を偽らないといけない時間がやってくるのかもしれない。恋など打ち明けられる立場ではないし、僕はもう必要ですらないんだから、僕はユリに触れられないまま彼女の美しさを見せつけられて、自分を抑え込むだけの日々がやってくるのかも…。”と、ぐるりぐるりと布団の中で迷っていた。その晩はなかなか寝付かれなかった。






明けて翌朝、またユリから電話があった。


「はいはい…おはよう…」


僕はまだいくらか眠っているような頭を起こしてスマートフォンを充電コードから外し、電話を取る。電話の向こうのユリはもうしゃっきりと起きているようで、「今日が暇なら会わないか」と持ち掛けてきた。僕はその朝は少し体調が悪かったし、でも仕事はなかった。明日からは四日連続で生徒の家を回って勉強を教えなくちゃいけないけど、今日はちょうど空いていた。


「うん、じゃあ、ペンギンの前ね。ごめんね、遠くまで来させちゃって。うん、じゃあまた」


そう言って電話を切り、僕はもう一度眠りに戻ろうとしたけど、結局ユリと決めた夕方までそわそわと落ち着かず、食事すらしなかった。






駅前のペンギン像は相変わらずにこにこと笑顔で立っていて、この雑然とした街の中で子供のように無邪気に見えた。僕はジャケットの前を閉めて、寒い北風が吹く中でユリを待っていた。寒いはずなのに体がポカポカと温かく、それなのにすでに痛み始めている胸を抑えて、僕は何度も改札を振り返った。でもしばらくまた前を向いて立っていたとき、後ろから「とたたたっ」と軽い足音が駆けてきて、僕が驚いて振り向くと、ユリがこちらに走って来るところだった。僕はそのユリの姿にびっくりして、彼女が目の前に立ったときも、しばらく何も言えなかった。


ユリはあの頃と変わらず髪は短かったけどそれは艶やかになびいて、おそらく学校の制服なのだろうスカート姿でしなやかな足を晒し、前とは全然違う軽やかな足取りと、心底喜んでいるような表情でこちらへ来た。それは元々美しいユリが、ちょうど一番美しく見えるようにと誰かが気を遣ったように見えた。


「どうしたの?」


何も言えないでいた僕にユリはちょっとそう言ったけど、「いやいや、あんまり美人になったからびっくりしたんだよ」と、僕はわざと本当のことを冗談めかして言って、その場を凌いだ。


「じゃあ「ハーベスト」に行く?あ!それと、今日は割り勘ね!私、バイト始めたから!」


そう言って得意げに胸を張ってみせるユリは可愛らしかったけど、僕は「ダメだよ。ここまで来るのに結構お金掛かるでしょ、東京からだもの」と言って聞かせた。






つづく

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