レイル・ロレットの伝記
はぬろ〜
第1話
ごちゃごちゃしていた。
奥に小さな窓があり、そこから射し込む陽が、辺りを舞う埃を照らし、光の当たるところだけ煙って見える。
その窓でさえ、積み上げられた古書で半分ほど塞がれていた。
分厚い合板でできた机は、もうあちこち傷だらけで、角は丸くなり、手垢やらインクやらなにやらで最初の色が何色だったのかわからない。ツヤのある風合いは、ちょうど、いろいろの種類のチョコレートを塗ったくったようだ。
その机も、積みに積まれた書籍のせいで本来の役割を果たす隙間がなかった。
僅かに左の手前にあるスペエスには、なにやらダビンチが作ったような小さな機械が置かれてあったが、それは木製だからか目立ちはしなかった。あとは、竹制の定規とかルウペとか万年筆とか小さなものがいくつか転がっている。
両側の壁は一面ぎっしりと書物のつまった棚になっていて、入り切らない本が黒い床板に何段も積まれている。
椅子を引く間もない。
部屋が暗いせいか、窓から入る明かりがやたらと眩しく感じた。
薄茶色い乾いた白衣をきた博士は古びた椅子に腰をおろし、右肘をようやく机の隙間にひっかけて、窓の外を眺めた。
「のんびりはできませんよ」
レイル・ロレットは、中には一歩も入らずに扉の側から小さく云った。それでも、狭い室内には声がよく通っていた。
窓の外には、背の高いビルが建ち並び、その隙間を縫うように自家用の小型艇が引っ切り無しに飛んでいる。
向こうでは、渋滞が起こっていた。
「そもそも空間道の階層化を急がんから渋滞が起こるのだよ」
カラシニコブ博士は、自らが提唱した案がなかなか実現しないことに苛立ちながら、人差し指でトントンと机をうった。
ロレットも、話をそらす博士に僅かな不快を感じていた。彼には時間がなかった。
「もしベエタの連中が短気を起こしたら、もうおさまりません」
今度は語気を強めて云った。やはりその声はよく通った。
「困ったことになっとるな」
博士は、ため息をついて古いパイプを胸のポケットから取り出すと、机の引き出しからマッチと煙草の葉を捜し、パイプに火を付けた。
ふうと煙りを吐き出してからやっとレイルを見て答えた。
「ロレットさん、君が出張したらどうかね? 」
レイルは驚いて眼をむいた。
「そんなことができるんですか? 」
カラシニコブはクックックと肩を揺らして笑う。
「できるもなにもないもんだ」
博士はそう云って辺りの書の山をまさぐった。やがて一冊の伝記を見つけると、扉でまつロレットに手を延ばして渡した。
『レイル・ロレットの伝記』と表紙にかかれ、中を開くと、そこにはロレットがこれからしようとしていることが全て書かれていた。
それはレイルの伝記だった。
「これは……」
レイルはびっくりして言葉を失った。
「ここではなんだな」
博士はキョロキョロと室内を見渡し、足の踏み場もないことに気付いた。
博士は立ち上がると、ようやっと古本のタワァを避けながら扉まできて、ロレットを隣の部屋へ促した。
廊下は、ロレットの肩くらいまで黒い板ばりになっていて、そこから上は白い壁が天井のアァチを作っている。
すぐ隣の部屋の扉があり、博士がノブを回して奥へ押すと、ギィィィといかにも重たい扉の音がして、その中は応接室になっていた。
やはり彫刻の施された重厚な本棚が並び、たくさんの事典などがぎっしりと入っていた。右手奥にソファが置かれ、小さなテェブルを挟んで手前に椅子が二つ配置されていた。いずれもかなり高級な家具だ。頭に擦れそうな位置にシャンデリアがさがっている。
正面はガラス張りの扉になっている。立派な刺繍がされた分厚いカアテンが両脇に括られ、外はバルコニィになっていて非常に明るい。小さいが立派な部屋だった。
カラシニコブは、扉の左の壁にある大理石のカウンタで紅茶を用意した。
「かけたまえ」
ロレットは云われるままに奥のソファに座った。
「これはインドから取り寄せた茶葉でね」
博士はアンテイクな器の取っ手をつまんで小指を立ててまわすと、香を楽しんで満足そうに頷いた。
ロレットは博士の言葉などまったく耳に入らない様子で、熱心に自分の伝記を読んでいた。
ちょうど、ロレットが博士を訪ねるシインを読んでいると『ロレットは博士の話を熱心に聞いていた』という一文から後がすぃっと消え、『ロレットは博士の話など耳に入らない様子で』と新しく文章が現れた。
ロレットは眼を丸くして博士を見た。
「あぁ、先に起こることは次々変化するので気をつけてな」
カラシニコブは紅茶の入った器を一つテエブルに置いた。もう一つを口に運びながら、手前の椅子にかけた。
紅茶の味に満足したようだ。しきりになにか頷いている。
ロレットは困惑した。先を読みたいが、それで未来が変わってはなんにもならない。レイルは博士に伝記を突き出すと、どうしたらいいのか読んでくれと頼んだ。
「あぁ、そうくるだろうと書いてあった」
博士は笑って伝記を受け取った。
博士は胸のポケット、パイプが入っていない方の左のポケットから、丸い小さな老眼鏡を取り出してしばらくは文字を追っていた。
レイルは、博士のこういう人間じみた習慣が好きではなかった。
カラシニコブはロレットをもったいつけるように黙ったまま伝記をじっと眺めた。
ロレットが勘忍ならん様子で何か云おうとした時、博士は重い口を開いた。
「ウォオクインという言葉を知っているかね? 」
博士は聞きながらまたクックックと身体を揺すった。ロレットがなんと答えるか、そこに書いてあるのが可笑しかったのだ。
「なんですか? 」
レイルはやはり文面通りの言葉を放った。
「うむ」
パタンと伝記を閉じ、博士は少し難しい顔をして両手を白衣のポケットに突っ込むと、立ち上がってバルコニィの前にたった。
向こうにはやはり渋滞する小型艇が見える。
「そもそも肉体という器に心という紅茶が注がれて人間は成り立っとるわけじゃが」
レイルは紅茶に揺れる自分の顔を見つめた。
「ウォオクインとは、紅茶である我々が他人の器に入り込むことなんじゃ」
博士は振り返り、またパイプを取り出した。チッとマッチをすると、頭を屈めてパイプに火を付け、上を向いてふぉっと煙をはいた。
「これには法則があっての。紅茶と紅茶なら飲めんこともないが、紅茶にコーヒーを入れる馬鹿はおるまい? 」
ロレットはじっとカラシニコブの一挙一動を観察していた。さっき見えたペイジにそう書かれていたからもあった。
「ようは、縁があるか、気が合うかしないと入り込むことはできんのじゃ。そもそもは、他の惑星から来た者がその惑星の生活を経験するためにはじめられたものらしいがの」
博士はバルコニィとは反対のたくさんの図書が並んだ棚の前へ足をすすめ、一つずつ背表紙に指を宛て目当てのものを捜した。
「ジパングじゃったかな? 」
捜しながらロレットに尋ねる。
「はい。急がないともう間に合いません」
レイルは焦る気持ちからつい余計なことを付け加えた。
「今はなんと云ったかな」
カラシニコブは目当ての書が見つからないので、もう一度聞いた。
「日本です」
博士は回答を得てすぐに捜していたものを見つけた。背表紙をトンと押して浮いた書を取り出した。
「これじゃこれじゃ」
それは現在日本に生まれている人間のリストだった。
「ここから好きなのを選べばよい」
ロレットが重たい表紙を開くと、そこには顔写真の入った人の説明が書かれている。名前、性別、生年月日、性格からその人が現在までなにをなしたか事細かにかかれ、さらに年齢の欄は何歳と何ヶ月何日何時間何分何秒まで表記されている。秒の欄はリアルタイムに変化している。
また、しばらくすると経歴が増えていくものや、亡くなったのか抹消されていくものもあった。もちろん新しく転生したものが現れることもあった。
ロレットは迷った。
それはそうだろう。そこには一億二千万の人々の人生がつまっていた。
「あなたは地球ははじめてかな? 」
カラシニコブ博士は、また椅子に座って、パラパラとペイジをめくるレイルに尋ねた。
ロレットは顔をあげて「ええ」とだけ云って博士の次の言葉を待った。
「地球はいい。かつてのプレアデスのようだ。まだ何もなかったころの真っ白なままの」
博士は眼を細めて懐かしそうに話した。
ロレットもその言葉に依存はなかった。ロレットがプレアデスを離れてもう一億年がたつ。その頃すでに、芸術の美しい星としてプレアデスのロレットのいた星は完成されていた。
それから思えば、地球はまだまだ未開の惑星と云えた。
ベエタの連中を追って地球に来るまで、地球なんて星の存在さえ知らなかった。
それでも、元来プレアデスの魂は、みな心やさしく、みすみすレプタリアンに食い尽くされる人々を見過ごすことはできなかったし、また、それを止めるためにこんな辺境の星までわざわざやって来たのだ。
ロレットは、ふと疑問を抱いた。
「博士はプレアデスをご存知なんですか? 」
カラシニコブはニヤニヤと含みのある笑みを浮かべロレットを見た。
「ああもちろん。わしが若い頃、何度か転生したことがある」
レイルは、背もたれにドスともたれた。これほどのお方ならさもありなんと納得したふうだった。
「そのときからプレアデスの女子は美しかった! 宇宙一じゃな」
博士の話がそれていくのを感じ、ロレットは話を変えた。
「それにしても、博士はぜんたいなぜ実相六次なんかにいるんです? 」
レイルは、博士の人間臭い行動に見兼ねていた。
博士なら八次の住人でもおかしくはない。
「七次や八次はいかん。あそこはもう人間の棲むところではないな」
カラシニコブは端的に答えたが逆にレイルには理解できなかった。
「人間と生きるには人間の生活を知っておらねばな。幸いここはまだあなたの嫌いな人間らしい習慣がたくさん残っておる」
ロレットが人間の習慣をよく思っていないことは、手をつけられていない紅茶からも明らかだった。
「それにしてもプレアデスの女子は……」
レイルは、博士が話を戻したのを知らないふりで伝記と名簿を持って立ち上がった。
「なんじゃいもう行くのか? 」
カラシニコブはこれから若りし日のロマンスを語ろうと思っていたところだった。
「ありがとうございます。今から転生していてはとても間に合わないと思っていましたが、よい方法を教えていただきました」
ロレットは、これ以上博士のおしゃべりに付き合ってはいられないとばかりに大きな扉を開けるとバルコニィにでた。いっぺんに外の雑音がザアザアと入り込む。
「これ、しばらくお借りします。昔話はまたの機会に! 」
レイルはそういってバルコニィから飛び降りた。
「根っからのせっかちじゃな。プレアデスのもんとも思えん」
博士は飲みかけの紅茶を持ったまま、残念そうに応接室をあとにした。
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