ACT 3
しばらくの間、壁としゃべり、窓の笑う声を聞いた。
ときに体はそんな部屋の底へ沈んでゆき、放り出された暗闇で燃える黒い炎と対峙する。
逃れるべく振上げた腕で炎を薙ぎ払ったなら、 焦げて両手は炭へと変わり、ようやく射した光に木端微塵と砕かれて失せた。舞い上がったススは みるみる別の生き物へ姿を変えて、体中を這いまわる。まといつかれて体は再び燃え上がり、炭となって上げた声に吐き出されたのは、小刻みに跳ねる赤黒い臓器だった。元の場所へおさめなければと食らいついくが飲み込みきれず、力尽きる。
見上げた空は、食い切れず口からはみ出したままのそれと同じ赤だ。
眺めてワケなど他愛もないと思う。
観察しうる限りその赤味が変化することはなく、色は大気の組成分子、その光の屈折のせいだと考える。かつ、こちらの生命活動にも支障なく、裸眼で赤く見える分子はといえば限られており、 おそらくはハルドイドラジウム辺りが妥当だろうと見当をつけた。
なら何の前触れもなく焦点はぴたり、合う。
グロテスクだった幻は彼方へ吹き飛び、現実だけを捕えてクリアな意識はそこに広げた。失っていた前に後ろの時間に空間はやおらつながると、引き換えにして迷惑なほどの痛みを背に蘇らせる。
それきり安眠どころか仰向けと横たわってさえおれなくなった。
痛みが再び幻覚を呼び寄せ、中途半端に覚醒した意識へ悪夢を悪夢と刷り込んでゆく。しこうして繋がったハズの前に後ろは蹴散らされて、つながったハズの時間に空間は再び黒い炎に焼き尽くされていった。
時間を経ている。
感覚はあった。
しかしその間、黙っていたのか呻いていたのかが定かでない。
何を食べ、何を飲み、出したものをどう処理し、されたのかも不明だ。
様子をうかがって『デフ6』は現れていたように記憶しているが、それが一体だったか二体だったか区別できていない。
全ては体内時計で何日の出来事であり、惑星時間で何日の間のことだったのか分け隔てのしようもなく、一部始終は複雑怪奇に癒着した一つの塊と記憶の中でのさばった。ほどけて時間と言う一本の線が己の中から紡ぎ出され始めたのは、工面してくれている食事が『ヒト』のミールパックであると気付いた辺りからだ。
いつしか壁は話さなくなり、窓もまた卑猥な笑いをやめて、代わりに聞こえてくるのが自分の声だと、 他の誰かのものだと区別できるようになった。
窓は、最初、目にした時よりはるかに明るい光を投げ、おかげで鮮明になったクリーム色の壁紙に、刺し込まれていたピンの跡を幾つも見つけ出す。眺めて指を引っかけ、刺した誰かはこの場所を占拠されたせいで追い出されてしまったのかと思えばその時、 思考が自分の外へ及んでゆく感覚を不思議な動きだと感じ取りもした。その動きはここに「自分」という領域が或るらしいことを肌でなく、やがてうすら寒さでこの身へ教え始める。
まだ「生きている」という実感はなかった。
世界はただ正しい速度でコマを落とし続ける現象にすぎない。
その正確無比も極限の、寒々しくも無機質極まりない感覚があるだけだった。
『今日はおとなしいの』
起き上がることができるようになった体は、背中の痛みも許容範囲だ。少しばかりひねったところで動作の邪魔になるようなことはもうなく、声へ体を向ける。いつからか「知っている」と言う感覚がこびりついたその顔をとらえた。
そこでドア横、チェストの上へ食事の乗ったトレーを置いた『デフ6』は、腕まくりしている。
顔を、まるで開いたもう一つの窓のようだとただ眺めた。そしてこの窓もまた「明るい」と感じてみる。
『なんじゃの、お前さんと格闘しとると、わしも、もう若返るしかないの』
その明るさの中に「暖かい」という刺激が混じっていることに気づいたのは、この時が初めてだろう。だからしてその暖かさに引きずり出された「親しみ」という記憶と経験が、やおら体中へばら撒かれたのを感じ取ったのもその時が初めてとなる。
傍らに投げ出されていた丸椅子をそばに引き寄せ、『デフ6』は準備万端、トレーを片手に戻ってきていた。
同じ足だったが、自分のそれはまだ歩くためにあるものである、という認識には至っていない。ただばら撒かれたものに驚かされて、扱い切れない互いの関係に膝を引き寄せ小さくなる。
今日も空は赤く、差し込む光もまた壁を、部屋中を、甘いラズベリー色に染め上げていた。
丸椅子に腰かけた『デフ6』に落ち着きをなくし、逃げるようにその色を、ずっと以前から確信していたハイドロラジウムという言葉を、胸のうちで何度も繰り返す。のみならず、含む大気層を持った惑星がそう多くないことも、 その中から『デフ6』という種族の住まう惑星を見つけ出すことも、 すべからくここがどこであるかを推し量ることも、かなり以前に済まされた考察の全てを思考の中で懸命にループさせ続けた。
そうして寝床の隅へトレーを預けた『デフ6』は、両手をヒザにこちらをじっとのぞき込む。
何が始まるのだろうと、こちらもしばし相手をうかがった。
集中力が続かず視線を落とす。
置かれたトレーの上には、この体と同じたんぱく質で構成された生暖かげな塊と、 フリーズドライを戻しただけの繊維質が乗っていた。
『そうか、何も言わんか』
『デフ6』は残念そうに言ってひとつ、息を吐き出している。
『いい加減、同じ物ばかりで飽きたとでも言わんかの』
そうだったろうか。記憶を辿った。そうしてすでに出ていた考察の結果を報告するまで一体どれほど時間をかけてしまったのだろうか、とも振り返る。
口元へ運ばれて来るものに不満など持てはしない。ただ「親しみ」を感じる相手であるなら、 「情報は共有しておかなければならないはずだ」と義務感に襲われていた。
『……アーツェだ』
ずいぶん前から用意していた考察結果を口にする。
タンパク質の塊をさじですくい上げたところで『デフ6』の手は、止まっていた。
いや、弾き出した答えに間違いないハズだと確かめる。念を押して繰り返す。
『ここは、アーツェだ』
ただし、なぜそう結論付けることができたのか、やってくる知識の在り処だけが分からない。
『ヒト』語が話せた。
混合造語も知っている。
目が見え、耳が聞こえ、味が分かり、背中の痛みが癒えた。
これが自分かと見回してみる。
ずいぶん痩せた体の持ち主だと思った。
その足で部屋を歩く。
もう部屋は部屋でしかなく、代わりに喋る医者がリンデロンだと名乗り、この家の主はサスだと鼻溜を振った。
そして、お前は死にかけていたのだと教えられる。
さらにお前は誰だと、問われた。 なぜ、あの場所にいたのかを質問され、どうしてここが『アーツェ』だと分かったのかの説明を求められる。
答えられたのは最後の質問だけだった。それは大気層のハルロイドラジウムの赤い空と、『デフ6』がヒントだと伝える。すると今度は、その知識をどこで覚えたと追求され、惑星の大気組成などいちいち具体的に知っている輩は少ない と言われていた。
返答は他の二つ同様、そこで行き詰まる。ただ目の前に厳しい顔つきだけが残された。怪しまれている、ということが感じ取れないわけでもない。だからこそそんなふたりへ一括して答えようと思えば用意はあった。それが、ここに或ると感じた時のうすら寒さであり、 最も解せない今であることにもようやく気付く。くわえて口にすればあのうすら寒さが増すこともまた、感じていた。だが納得できる答えを待つふたりにはかえられない。言ってコトを明らかにとする。
『覚えて、いない』
それ見た事かとリンデロンが鼻溜を打っていた。話したくないことを無理に聞くつもりはないと付け加えて踵を返す。
その後、サスとリンデロンが交わした会話は、いかにも厄介事を扱うかのように不穏を極めていた。リンデロンをなだめすかすサスは何事かに懸命な様子だ。
時刻は夜。
『アーツェ』独特の白く煙った外の様子は、窓からも染みこんでくる。
リンデロンを見送ったサスは部屋へ戻り、しかしながら軽い調子で鼻溜を振ると、おかげで漂うこととなったこの雰囲気を吹き飛ばしてみせた。
『リンデロンの事は気にせんでいい。あやつはあやつで面倒見がいいだけじゃ』
チェストへ寄りかかって組んだ短い腕は、それでも深刻げと体の前にある。
目にしたなら、何か言わなければならないとは感じていた。だが拾えない電波を手繰るように、うまく言葉が出てこない。
迷う間にもサスは鼻溜を揺らしていた。
『これは今、答えんでもいい質問じゃ』
断りを入れて続ける。
『お前さんは、これからどうしたいと思うとる?』
意見を求められるなどと、ついぞ思ってもいなかった。 生まれて初めてだとさえ感じて、以前はどうだったのかと思い及び、あったハズの確信を見失う。様子に、それが答えと受け取ったのだろう。サスは入っていた力を肩から抜くと代わりに、こちらの返事さえもはぐらかしてくれる。
『まぁ、お前さんが慌てるつもりもないなら、わしも慌てたりはせん』
ならこれは慌てなければならないことだったのだろうかと、新たな疑念は生まれ、 投げられた言葉のままを自分へ再度、問い返した。
もちろん返事はない。
ただ誰かがこちらを見つめる気配だけを感じてみる。
そして同時に、なら、あなたは何を選ぶのか、と囁く声を聞いた。
壁だ。
また喋ったのだと、咄嗟に振り返る。
『おかげで店は順調じゃしの。ヒトひとりくらい食わせてやるに事欠かん。それにデミも無事、学校の寮じゃ。ちと狭かろうが、この部屋も気にすることはない』
だが鼻溜を振るサスの声に、その声はかき消されてもう聞こえない。
いや、と思いなおす。
壁は話したりしない。
窓も笑いはしないのだ。
自らの不具合を思い起こし、ただ前へ向きなおった。
ひどく世話になっている。
それだけを自覚する。
『覚えていないと言うのなら、名前も聞かんことにしておくとしようか。じゃが、少々不便じゃな』
ひたすら話し続けるサスが解いた腕の指先でとぼけたように額を掻いた。
『ここにいる間は……』
鼻溜を振ってためらい、宙へ視線を投げる。
『タミフルとでも呼んでおくか。もうおらんがタミーはわしの娘の名での』
投げた視線で両肩を跳ね上げた。
『怒るな。冗談じゃ』
よほど険悪な顔をしていたに違いないと思う。
『何しろお前さんには。立派とモノがついとる。ま、さしずめお前さんは、お前さんとでも呼ぶことにするかの』
などと誰より不便なのは自分だと思っていた。そしてその不便さを強いているのもまた自分なら、閉口するしかなくなる。
『すまない』
『ほ、まともなことを言うようになりおったか』
驚くサスが逆にこちらを驚かせていた。そうしてサスは柔らかく頬を潰してゆく。
『なによりじゃ』
豪快な笑いはそこに続き、ノブを握ると振り返った。
『なら、明日からここは開けておくぞ。思い出したと言うなら戻る必要もない。引き換えに、ここを忘れるくらいがちょうどじゃろうて。好きなようにせい』
去りかけて、一瞥する。
『じゃが、その前に身につける物をみつくろわんといかんの。いくらアーツェが田舎じゃというても、素っ裸で表をうろつけるほど未開の地ではないからの』
笑いは再び愉快と放たれていた。
サスは自分についてを合法非合法を問わず、この世に存在するありとあらゆる品の売買を引き受ける『ギルド』、その流通組織に加盟したギルド商人だと説明した。 駆使して生活用品や着衣を店でみつくろってやる、とも言ってくれる。
だが選ぶ、と言う行為がうまくこなせない。そもそも何を排除し、どれを抽出し、どう構成するのか。色が赤だろうが青だろが黄色だろうが、ミント味だろうがキャラメル味だろうが、ともかく「好み」というものが判然としなかった。
サスは遠慮はするなと付け足していたがそういうワケでもなく、自分で選べたのは全体の半分ほどに過ぎない。残りの半分は埒があかないと、サスが選んで締めくくった。
しかし裏腹に、明確と見て取れる事柄もある。店で取り扱われている取引商品についてだ。この店の中枢とも言える半円卓のカウンター、その後方に並べられた持ち込み品の数々や、天井や壁に吊られた過去の遺物、仮想ショールームのピックアップ映像等。そのほとんどが何であるかを知っていた。使用目的に使用方法、時には価値の有無や構造に原理についてを、気味悪いほどそらんじることができた。知識はまるで、それこそが長い長い己の名ではないかと思うほど揺るぎなく、自信にも満ちていた。
このことをサスに話すべきかどうかを迷ったが、結局のところ話せていない。言えばどこで得たのか追究されるに違いな、しかしながら肝心要は霧の向こうと埋もれて見えない。出せぬ答えに不快感が残ることは想像すに容易く、歓迎できる道理にないと結論付けた。手堅い店だと、ひとりごちるに止めおく。
そしてこれもまた同様に彼方からやってくる知識のひとつに過ぎない。永住するなら話は別だが、『アーツェ』独特の砂塵は『ヒト』の肺にそれほど深刻なダメージを与えはしない、というものだ。だからして翌日にも届いたものを身に着け、ダウンロードした電子地図を片手に表へ出ることにする。
店は町の目抜き通りに面していた。
見回して、文字通り目を回す。
積もる砂塵をかき分けビオモービルが行き交い、ホログラムが色とりどりと広告を流し、様々な背格好の『デフ6』たちが好き勝手と歩いていた。トライクルが砂塵を巻き上げたかと思えば、店の扉は唐突なまでに開いて訪れていた客を吐き出し、その動きはどれも目が眩むほどに早い。
全てへ対応しきれず翻弄され、しばらくも行かないうちに砂塵につま先をひっかけ、あっけなくも転んでいた。
しばし唖然としたことは言うまでもない。
こんなはずではなかった、と思う。
そうして初めて自分の体に感覚が、ひどくなまっていることに気付かされていた。その心もとなさに、すぐにも当面の目的を定める。行く当てなどなく、呼び出せる迎えにも心当たりがないのだ。体の自由を取り戻すべく、ひたすら憑りつかれたように日が暮れるまで歩くことに専念した。
体力はおかげで徐々に取り戻されてゆき、ついた筋肉があるべき姿へ己を膨らませてゆく。そうして得る、かつてはこうだったと言う感覚に、自信さえもを取り戻していった。
同時に、続けていればなくした記憶も取り戻すことができるのではないか、という言う思いに憑りつかれ始める。だがそれはまったくもっての幻想で、求めるあまり繰り出す前進は逃げた過去への追跡にすり変わると、時に徘徊は体力の限界を超えて小さな町で何度となく遭難した。挙句、くたばった道端で見知らぬ誰かに声をかけられ、罪悪感と情けなさにまみれながら、 連絡を受けたサスに迎えにきてもらうを繰り返す。
だがサスはそのことを一度たりとも咎めて干渉するようなことはなかった。おかげでビオモービルの中、安堵すると眠ってしまったこともあったほどだ。
懲りずに繰り返し、やがて行軍の日々も過去となったそれはある日のことだった。 サスは取引についてくるかと誘って鼻溜を振った。確かに持ちうる知識のせいもあって興味がないわけでもなく、サスの仕事ぶりを眺めるうちに敬意さえ抱き始めていた。
体は万全とは言えなかったが、もう足手まといになる心配こそなさそうだと思える。
聞けば行き先は地球だと教えられていた。
それが連れ出された場所だったなら必然性さえ感じて、初めての遠出も悪くないと答えて返す。
できる事があれば手伝いたい。
答えて返せばサスは、素人には無理だと鼻溜を揺らし、いつも通りと笑ってみせた。
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