インペリウム・オメガ

明空

第1章:朝陽の戦い

景覇姫、領主に襲われた公孫烈を救う

 どうして、俺が、俺ばかりが、こんな目に。


 見渡す限りの草原。公孫烈は、懸命に馬を走らせる。その大きな目に、みるみる涙がたまった。

 風にふくらんでなびく、長くつややかな黒髪。後方から飛んだ矢が、それをかすめた。わずかに狙いはそれ、地面に突きささる。

 公孫烈は、しかしそれにさえ気づいていない。とにかく前へ、前へ、逃げることに必死なのだ。


「ちっ、外したか!」


 やはり馬を駆り、公孫烈を追うのは2人の男だ。


「もうちょっと下を狙え、生け捕りにせよとの仰せだぞ」

華種オメガの分際で、わが主から逃げ出したんだ。少々痛い目を見ても構うまい」


 男が再び矢を放つ。

 今度は、それは公孫烈の馬の尻に突き刺さった。悲鳴を上げて、馬は体勢を崩す。


「あっ!」


 体が、馬の背から投げ出された。受け身を取る余裕もなく、地面に転がり落ちる。

 まずい、このままでは――痛みに耐えながら身を起こした。が、その下あごに、ひやりとした刃が当たる。追手が突きつけた、槍の穂先だ。


「ご苦労さん。さあて、わが主の元に帰ってもらうぞ」

「この星昌国では、土地をウロウロする華種オメガの身柄をどう扱うかは、領主のお心次第でな。龍生国の旅のお人よ。気の毒とは思うが、まあ諦めることだ」


 背筋がぞわぞわっとする。それは今、目の前に迫った恐怖とともに――昨夜、こいつらの「主」にのしかかられたときの、嫌悪感がよみがえったからだった。

 烈の小柄な体を押さえつけ、無理矢理に組み敷こうとした、あの肥満した龍種アルファ――ヤツのところに、再び俺は引き出されるのか。




 異国の商人として、これから語る「大動乱」の時代を生きたアブー・アタリーフは、その手記の中でこう書いている。


「私たちの国と同じように、この大陸の人々にも2種類の『性』がある。

 男女、そしてアルファ、ベータ、オメガだ。

 この大陸でいう『龍種アルファ』は、社会の支配階級であり、少数派であるにもかかわらず、君主や貴族、武将などの地位をほぼ独占している」


「彼ら/彼女らは男女を問わず、やはり少数派である『華種オメガ』を孕ませることができる。

 龍種と華種の子は、ほとんどが龍種または華種となる。しかし平種ベータの血が混ざると、ほぼ確実に平種となってしまう。また龍種同士、華種同士では、子が生まれにくい。

 つまりこの大陸で、龍種が支配階級としての地位を守るためには、華種が必要不可欠なのだ」


「そのため華種は、龍種の家庭における母、妻、娘としての立場を与えられる一方、その地位は低い。

 官途に就くことはできず、政略結婚の道具とされ、時には略奪の対象として、『モノ』同然に扱われることさえあった」


 今、窮地に立たされている公孫烈は、まさにその華種オメガの男であった。




 どうして、俺が、俺ばかりが。

 殺されるのか? それとも今度こそ、慰み者にされるのか? 故郷からも遠く離れた、この異国の地で?

 そもそも、なぜ、どうしてこんなことに?

 華種オメガだから? 華種だから、こんな目に遭わなければいけないのか?

 なぜ、俺は華種なんかに生まれてきたんだ?!


「待ちなさい」


 烈の自問自答は、不意に打ち切られた。よく通る、女の声で。


「……! これは、鎮軍さま……」


 男たちの顔色が変わった。


 いつの間に現れたのか。そこにいたのは、騎馬の若い女だった。

 馬上にあって、すらりと伸びた背筋。身分の高さを示す、色鮮やかな袍服。透き通るような白い肌。

 そして何より、目。一瞬、まぶしさすら感じるような、力に満ちたとび色の瞳。

 まさに、典型的な龍種アルファの姿だった。


「林州北部鎮軍、景覇姫よ。あなたたちは? 史白敦どのの臣とお見受けするけど」


 景氏といえば、この林州、いや星昌国全体を見ても屈指の名門貴族。しかも鎮軍は、その地方をまとめる軍事司令官だ。

 とても無下にできる相手ではない。男たちは顔を見合わせて槍を引き、馬を下りた。


「いかにも、お見苦しいところを……わが主のものである華種を、連れ帰ろうとしておったまでのことです」

「それにしては、ずいぶん手荒ね?」

「いや……それは、こいつが、華種の分際で、わが主に狼藉を働いた挙句に逃げ出したもので……」


 華種の分際。男の言葉が、烈の胸に重く響く。


「そこのあなた。彼らの言っていることは本当?」


 景覇姫の質問に、烈ははっと我に返った。


「違う、俺はただ旅をしていたら、いきなりこいつらに捕まえられて……! その主とやらに襲われそうになったから、無我夢中で逃げ出してきたんだ。そいつの『もの』になんか、なった覚えもない!」

「きさま、」

「鎮軍さま、わが主の漁色、褒められたことではないことは承知ですが――ご存じのとおり、領内の民をどう扱うかは、領主の自由です。どうか、お見過ごしいただきたい」

「確かに、それがこの国の法ね。でも、気づいてるかしら? ここはすでに、この景氏の所領よ」


 男の顔から、血の気が失せた。


「民をどう扱うかは、領主の自由――。悪いけど、この華種は『私のもの』ということになるわね」


 私のもの、か。知らぬ間に、烈の「所有権」は彼女に移っていたわけだ。多少苦いものがこみ上げるが、今は仕方がない。

 烈は男たちから離れ、覇姫のそばへと駆け寄る。


「……お言葉ですが、わが主は、黙って引き下がるような方ではありませんぞ」

「あとから悔やんでも遅いですからな!」

 そう吐き捨てて、2人はあっという間に去っていった。


 史氏一族を敵に回すかもしれない、か――覇姫はその輝くような目を、わずかに細める。


「あ、あのっ、このたびは、何とお礼を……」

「……ああ、失礼。災難だったわね。でも、もう大丈夫――」


 改めて、烈と覇姫の視線がぶつかる。

 少女のような細い体つき。異国のものらしき、まだ新しい旅装束。西方の胡人を思わせる、浅黒い肌。

 そして、目。さまざまな鬱屈を隠すような、深く暗い、海の底のような黒い瞳。

 今まで魅力を感じたことがなかったが――これが、華種オメガか。


「……名は」

「え?」

「名は何というの」

「……公孫烈。龍生国は寿量の生まれ、公孫烈です」

「烈。烈……。……私は景覇姫。この一帯、朝陽の領主よ」




 景覇姫と公孫烈。2人は出会い、そして歴史は、動き出そうとしていた。

 高徳帝6年の春だった。

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