娼婦でハーフエルフのあたしが貴族のメイドなんて出来るわけがない。
レフトハンザ
第1話
「ほんとにこんな所からオサラバできるのかよ!」
薄汚れた服をまとった女が男に食って掛かる。
カビの匂いがするベッドと湿った空気がこの宿のランクを物語っている。間違いなく最底辺の宿だ。もっとも宿と言っていいかどうかも分からない。
ここは連れ込み宿と言われる、男と女が肌を併せる場所。しかも大抵はお互いの名前すらも知らない。男と女のあいだに取り交わされるのは数枚の銀貨だけだ。
男は身なりは貴族のそれだ。本来であればこのような場所に現れるはずもない血筋の人間。
そして女は娼婦。この連れ込み宿に似合いの最底辺の娼婦。下級労働者が一日に稼ぐ金がこの女の値段だ。たった銀貨2枚で見も知らぬ男に体を売っている。
それは仕方がないことだ。女はそれ以外に金を稼ぐ術を知らないのだから。
しかも彼女は、ハーフエルフと呼ばれる亜人だった。
「それはおまえ次第だな」
もちろん努力と時間が必要だと男は言う。
「相当な努力と忍耐が必要だが不可能ではないはずだ。それに、駄目だったとしても今の生活に戻るだけ。何をやってもこれ以上落ちることはあるまい?」
女の名前はレイラ。生まれた時から父親はいない。母親は病に倒れ若くしてこの世を去った。 ひとりで生きることを強いられた彼女は、他の貧民窟の少女たちが歩む道を当然のように選んだ。いや、それしか選択肢などない。
さいわいというべきか、人間の血が濃く出たのか、レイラの耳は人間に近く言われなければハーフエルフだとは外見では分からない。彼女は自分がハーフエルフの血を引いていることを隠し、街の中で男に身体を売ることを決めた。
「なにをバカなことを言ってるんだい」
その日、いつものようにできるだけ身なりの良い男に目星をつけて声をかけた。
自分の身体を売り始めてから2年ほどが経つ。最初は勝手が分からなかったレイラだったが、今では男の身なりを見ただけで貰えるチップの量すら予想できるようになっていた。そんなレイラから見た男は、間違いなく上物の客のはずだった。
上手くすれば普通の男の何倍ものチップが貰えるかもしれない。そう判断したレイラにとって、男の口から出た言葉は理解不能なものだった。
「そのままの意味だ。俺の言うことを聞けば、こんな場所から出て行くことができるかもしれない」
「あたしを専属の性奴隷にしたいってわけかい?」
「そんなつもりはない。そういうつもりならとっくに君を抱いてるさ」
たしかに男は出会ってからレイラにまだ指一本触れていない。
男はレイラに言われるまま安宿に入り、湿気の残るベッドに腰かけて、レイラに触れようともせず言ったのだ。「今の暮らしに満足か?」と。
見知らぬ男に身体を売り始めてから、何度も甘い言葉をかけられた。慣れない頃はそんな男の言葉を信じようとしたこともあった。しかし、その度に裏切られた。男たちは金を払わずレイラの身体を楽しむことしか考えていなかった。本気でレイラを救おうなどという男など、ただのひとりもいなかったのだ。そんなレイラからすれば、目の前の男の言葉などただの戯言に過ぎない。
「あたしに何をさせようって言うのさ。言っとくけど、あたしは文字も読めないし書けないんだ。この身体を使って男を喜ばせることしかできないんだ!」
どうしようもない感情がレイラに声をあげさせる。
「できもしないことを言うんじゃないよ!」
こんな自分が普通の暮らしなど出来るわけがない。心の中で泣きながらレイラは叫んだ。
「分かったら、さっさと抱きやがれ!」
「まずは文字を読めるようにする。それから言葉使い。さらに行儀作法や色々な知識を詰め込んでいく。もちろん女としても磨き込む」
「はあ? 今さらあたしに勉強しろだって? 言っとくけど、あたしにはハーフエルフの薄汚い血が流れてるんだよ! 半端な種族の低能のハーフエルフの血がね。あんたも知ってるだろ? 文字の読めるハーフエルフなんざ聞いたことがないね。無駄なんだよ!」
「それは違う」男は続ける。「ハーフエルフが文字を読めないのは能力が低いからじゃない。勉強する機会を与えられなかっただけだ。少なくとも俺はそう思っている」
「じゃあ、勉強すればあたしにだって文字が読めるようになるって言うのかよ?」
「そのはずだ」
文字が読める。それは貧民窟で育ったレイラにとって夢のような話だ。
ハーフエルフの母親はレイラと同じく文字が読めなかった。もし文字が読めたらと想像したことはある。そう、何度もだ。
もし文字が読めたら?
レイラの体を弄んだあげく、金をごまかそうとする男に騙されなくなるかもしれない。
もし文字が読めたら?
金を借りる時の証文を書き換えられたりしないかもしれない。
もし文字が読めたら?
好きになった男に恋文を書くことができるようになるかもしれない。
「読めるようになるまで、ど、どれくらいかかるんだ?」
「それはおまえ次第だな。とにかく俺はおまえにチャンスを与えてやろうと思った。もしかすると貴族の気まぐれかもしれない。だから待つつもりはない。決めるなら今すぐだ。クソ溜めのようなこの暮らしで人生を終わらせたいのなら勝手にするがいい。だが、人生を変えたいなら、俺に付いて来い」
男はそう言って立ち上がった。レイラの顔をじっと見ると、そのまま背を向けて部屋を出ていく。そして、黙って扉を閉めた。
閉められた扉を前にしてレイラは立ち尽くした。まだ男の言葉をすべて理解はできていない。しかし、このままの生活を続けていきたいとも思わない。男の言葉をすべて信用するわけではない。だが、何かが、何かが変わるかもしれない。そう思うと、レイラは扉に手をかけた。
そして、レイラは、初めて自分の人生の扉をあけた。
男の姿を追ってレイラは走った。レイラが付いてきていることは分かっているだろうに、男は自分の歩みを止めることはなかった。それどころか、大きな屋敷の前に来るまで、一度として振り返りもしなかった。
屋敷の前に立つと、ようやく振り返った男は肩で息をするレイラに言った。
「この屋敷に一歩でも踏み込んだら、もうおまえは娼婦じゃない。ジルバール侯爵家のメイドだ」
「メイド?」
「そうだ。ラザリア王国でも有数の貴族のひとつであるジルバール家のメイドだ。それが意味することは今のおまえでは理解できんだろうし、理解する必要もない。だが、何もできない役立たずでもメイドはメイド。この屋敷の中では主の俺に絶対服従だ。口答えは許さん」
「あたしにメイドをやらせようっていうのかよ」
「ああ、そのとおりだ。おまえにはメイドに必要なものをすべて叩き込む」
「メイドで稼げるのかよ?」
「おまえの今の価値はいくらだ?」
「価値?」
「そうだ。価値だ。おまえを抱くにはいくら払えばいいんだ?」
「あ、あたしは人間の女と同じだから……銀貨2枚だ」
銀貨2枚。この世界では銀貨1枚が約千円に相当する。だからレイラを抱くには2千円。それが、今のレイラの価値だった。ちなみに金貨1枚は銀貨100枚に相当する。
「たったそれだけか。この王都の娼館にいる上級娼婦なら一晩で金貨2枚は稼ぐ。おまえの100倍だな」
「し、しかたねえだろ! あたしが相手にしてんのは金のない平民の男なんだ。あいつらが一日に稼げる分がそれなんだよ! 貴族を相手にしてる高級娼婦と一緒にするな!」
「つまり今のおまえはひと月働いてようやく金貨1枚ていどの稼ぎしかない。しかし、俺の屋敷に勤めるメイドたちは少なくともひと月に金貨3枚は稼いでいる。経験を積んだメイドならさらに倍だ。見知らぬ男に毎晩のように体を汚されながら稼いでいるおまえより多いな?」
金貨3枚。その言葉を聞いてレイラは身体を硬直させた。実際に金貨などほとんど目にしたことはないし、金貨3枚を見る機会などあるわけもない。
「あ、あたしも、金貨3枚もらえんのか?」
「言っただろ。この屋敷に入ればおまえもメイドだ。俺もそのつもりで扱う。だからメイドとして最低限の給金も払ってやる。どうだ。いい条件だろう」
「ほ、ほんとうだな?」
「ジルバール侯爵家の名にかけて嘘は言わん。もっとも、おまえがひと月も持たずに逃げ出したりしたら別だがな」
「逃げたりするわけねえだろ! 金貨3枚もらえるなら何だってやってやるよ!」
「この女は? アルト様」
メイドの鋭い目がレイラの全身を刺す。その目はまるで汚物を見るようだ。
年の頃なら40歳くらいだろうか。口ぶりからしても、このメイドがジルバール家で長く勤めていることが分かる。
「今日からジルバール家のメイドだ。すまんが面倒を見てやってほしい。この女性はメイド長のサラだ。分からないことがあれば彼女に聞くといい」
「とてもジルバール家に仕える資格があるようには思えませんが?」
「貧民窟で拾ってきた女だからな。洗えば何とかなるだろう」
「アルト様のご趣味に異を唱えるつもりはありませんが、あまりに……」
「そういえば名前を聞いてなかった。おまえ、名はなんという?」
「レイラだ」
「いい名前だな。俺はアルト。アルト・ジルバールだ」
「アルトって言うのかよ。顔に似合わず可愛い名前だな」
「さすがは娼婦だ。男を褒めるのが上手いな」
「はあ!!」アルトの言葉に反応したメイドが声を上げた。「娼婦? 娼婦と言いましたか!」
「ああ言った。この女は貧民窟で娼婦をやりながら暮らしていたんだ」
メイドの女は信じられないという顔でレイラを睨みつける。
「も、もちろん人それぞれ事情がおありでしょう。しかし、そのような者をジルバール家で召し抱えるとなると……」
「他のメイドが嫌がるか?」
「それもありますが、それよりもジルバール家の名に傷がつくのではと」
「だったら黙っててくれればいい。この事を知っているのは俺とサラだけだ」
「わかりました。アルト様が望むのであればそういたしましょう」
「あと、この女はハーフエルフだけど、それも黙っててくれるかな?」
「はああ!! ハーフ、ハーフエルフ!!」
過呼吸になりそうなメイド長のサラを見てアルトは笑いを堪えていた。
「ここに脱いだ服を入れなさい。そして、湯浴みが終わったら、ここに用意したメイド服に着替えるように」
「わかった」
「わかったではありません。わかりましたです」
「わ、わかりました」
「よろしい。着替えたら先ほど案内した部屋に来なさい」
レイラは服を脱ぎ浴室に入った。浴室に入るなど生まれて初めての経験になる。貧民窟の家では浴室どころか湯浴みすらできなかった。近くの川から汲んできた水で体を拭くのが精一杯だった。
大きな浴槽にたっぷりと水が入っている。手をつけてレイラは驚いた。水ではない暖かい感触がレイラの手を包んだ。「お湯……」と思わず呟いてしまう。水を火で暖めればお湯になる。口に出せば簡単なことだが、貧民窟の住民にとってはそもそも火を焚くことが簡単なことではない。外に広がる荒野で薪を集めることは困難であり、さりとて都に住む住人のように金を出して油を買うことはもっと困難だ。だから、体を綺麗にするためだけに、お湯を用意するなど夢物語に過ぎなかった。
「レイラ。体を洗ったらお湯に浸かりなさい。そうすると翌日に疲れが残りません」
浴室の外からサラと呼ばれていたメイド長の声が聞こえた。レイラの育った環境を聞いて心配になったのか、サラは浴室の外で様子を伺っていたようだ。
言われるままに体を洗う。最初は手で体をさすっていたが、目の前に白い塊があることに気が付いて手に取った。
白い塊を顔に近づけると花のような良い匂いがした。石鹸だ。母親が生きている頃はレイラの家にも石鹸はあった。ただそれは、粗悪な油で作られた茶色い酷い匂いの代物だった。石鹸がこんなに良い匂いのするものだとレイラは知らなかった。
これを体に付ければ男が喜んでくれるかもとレイラは思った。そして、こんな時でも男を喜ばせることを考えてしまう自分は、もうすっかり娼婦なのだと思い知らされた。
湯に体の半分を付ける。熱くもなく温くもない。どうやったらこんな加減ができるのか。それに、お湯には何枚かの花びらが浮いていた。花びらの匂いが鼻腔をくすぐる。
花びらの匂いがレイラの体に染み渡るころ。寝たきりで体を拭いてやることしかできなかった母親を思い出した。母親にも入らせてあげたかったと思った。
浴室を出たレイラは用意されたメイド服を手に取った。ただのメイド服だが、レイラから見れば上等の服にしか見えない。これに比べればレイラがまとっていた服など、ただのボロ布だ。しかし、そのボロ布が見当たらなかった。たしかにボロ布のような服だったが、母がようやく貯めたお金で粗末な布を買い、夜なべをして作ってくれた大切な服だ。
「どうしました?」
浴室に入ってきたサラがレイラに言う。
「あ、あたしの服が……」
そう言ってから恥ずかしくなったレイラは下を向いてしまった。貴族の屋敷に勤めるメイドから見ればあんなものは服ではないだろう。もしかしたら捨てられてしまったのかもしれない。
「心配しなくても捨てたりしません。服は洗濯しています」
サラはそう言ってレイラを見た。捨てられると思っていたのかレイラは驚いた顔をしている。
「何を不思議そうな顔をしているのです。たしかに上等な服ではありません。ジルバール家のメイドには相応しくないのかもしれません。しかし、あの服は手作りでしょう? あなたにとっては大事な服でしょうからね」
「あ、ありがとう……」
「明日からは厳しいメイド修行が始まります。悲しい時はその服を見て母親を思い出しなさい。そして、どんな厳しい修行にも耐えて立派なメイドになることです。なによりもあなた自身のために」
メイド修行と言っても一言では語れない。ましてやジルバール侯爵家のように名門と呼ばれる貴族であればなおさらである。メイドは雑役、洗濯、食堂、客間の部門ごとに分かれており、それぞれに責任者が置かれている。そして、そのすべての部門を束ねているのがメイド長のサラである。
もっとも位の低いのは雑役メイドであり下級メイドとも呼ばれる。そこから洗濯メイド、食堂メイドと位が上がっていき、お客様をもてなす客間メイドがもっとも上級のメイドとされる。
ジルバール家では家令や家政婦といった上級使用人は置かれていないため、男であれば執事、女であればメイド長がもっとも位の高い使用人と言える。
その日からレイラの地獄のような日々が始まった。
「なんですか! その歩き方は! 優雅に歩く必要はありませんが、品のある歩き方をしなさい!」
「体が曲がってます! それでは美しいお辞儀はできません!」
「メイド服にしわが付いてます! 姿勢が悪いからしわができるのです!」
「主の身体の動きから目を離してはいけません。何を求めているのか。何を求められているのか。命じられた時に瞬時に動けるよう常に準備を怠らないように」
気が付けば、レイラは雑役メイドから洗濯メイド、そして食堂メイドに昇格していた。
「服を洗うのはジルバール家のメイドの中ではレイラが一番ですね」
「ありがとうございます」
家では、母親が倒れてから洗濯はレイラがひとりでやっていた。行儀作法はともかく、洗濯なら自信があったのだ。なぜなら、もっとも服が傷むのは洗濯の時であり、一枚の服を大切に大切に着ていたレイラは洗濯にとても気を使っていたのだから。
「あなたほど丁寧に服を洗濯するメイドは見たことがありません。洗濯メイド長があなたの昇格を残念がってましたよ」
「そんな……わたしは洗濯メイドでも一向に構いません。洗濯メイドに戻していただいても……」
「あなたの気持ちは分からないでもないですが……アルト様からはあなたにメイドの全てを叩き込むように命じられています。どこに出しても恥ずかしくないメイドにするようにと。そうなれば、アルト様が立派な人物証明書を書いてくださるでしょう。人物証明書さえあれば、どこに行っても職に困ることはなくなりますよ」
人物証明書。
それは貴族の屋敷で働く者にとってはもっとも大切なものだ。格式の高い屋敷で職を得るには、それなりの貴族が書いた人物証明書がなければ職を得ることは難しい。現在のイギリスでも、この人物証明書は重要視されているほどなのだ。
「人物証明書があればハーフエルフのわたしでも……」
「はい。ハーフエルフでも恥ずかしがることはありません。このジルバール家のお墨付きなのですから」
人物証明書はある意味そのメイドの保証人になるということでもある。万が一、そのメイドが新しい職場で何か問題を起こした時には、人物証明書を書いた人間の名に傷がつく。
だからこそ、人物証明書は信頼できる優秀なメイドでないと発行してもらえないのだ。
数年が過ぎ、王都の貴族のあいだではある噂が飛び交っていた。
それは、ジルバール家に仕えるひとりのメイドに関する噂。
「ジルバール家のレイラというメイドを見ましたか?」
「もちろん。あの優雅で凛とした雰囲気はとてもメイドとは思えませんよ」
「彼女の入れた紅茶の味を私は忘れることができない」
「客間に彼女が現れただけで雰囲気が柔らかくなる。でも華美ではない。彼女はあくまでも自分がメイドであるとわきまえている。頭の良いメイドだ」
「彼女が代筆した手紙を見たことがありますが、それは美しい筆跡でした」
「彼女はハーフエルフだという噂もありますが?」
「そんなもの、どうでもいい話だ。彼女が素晴らしいメイドであることに間違いはないのだから」
「そうですな。できれば引き抜きたいと思っている者がどれほどいることやら」
今やレイラはジルバール家を代表するメイドとなっていた。
毎日のようにレイラを譲り受けようとする貴族からの申し込みが後を絶たない。
中には王族からの申し込みすらあるのだ。
「アルト様」
「サラか。ちょうど今、レイラの人物証明書を書いているところだ」
「よろしいのですか?」
「何がだ?」
「レイラを送り出して」
アルトは言葉に詰まった。本当のことを言えば、レイラに出て行ってほしくなどない。
「よろしくは……ないな。だが、レイラは、あの最底辺の暮らしから、自分の努力だけでここまでやってきたんだ。僕の気まぐれな提案を真に受けてだ。この数年の彼女の努力を認めない者などいない。文字を読めなかった彼女が、今では王都でもっとも美しい文字を書く。下品な言葉使いも今では柔らかな鳥のさえずりのようだ。彼女はやり遂げた。やり遂げたんだ! だったら、俺には約束通りに彼女の人物証明書を書く義務がある!」
サラは額に手を当て、小さなため息をついてこう言った。
「まったく……、何のために彼女が努力してきたのか分からないんですか? それとも、彼女の過去が気になりますか?」
「彼女の過去? 彼女が娼婦だったことか? そんなもの気になるわけがない! だったら最初から彼女に声などかけはしない! ああ、サラの思ったとおりだ。俺は最初から、レイラの事が好きなんだよ!」
「その言葉を、どうかレイラに聞かせてあげてください。そうすれば、わたしは諦めることができますわ」
サラの言葉にアルトは不思議そうな顔をした。
「なにを諦めるんだ?」
「わたしの後継者にレイラを推薦することですよ。まさか侯爵家の奥様にメイド長をさせるわけにはいきませんから」
レイラは自分の部屋でこの数年間のことを思い返していた。
ハーフエルフとして生まれ、娼婦として暮らしていた自分に声をかけてくれたアルト。
たしかに努力した。文字も読めず、口の利き方すら知らない女が、今では一流のメイドとして他の屋敷からも声がかかる存在となっている。
だが。
その辛い修行に耐えられたのは。
アルトの存在があったからこそだ。
最初は恨んだこともあった。
しかし、いつしか、自分の努力はアルトに尽くすためにあるのだと気づいた。
もちろん、元娼婦の自分にアルトを愛する資格など無いことは分かっている。
傍でお仕えするだけでいい。
アルトの傍で、アルトが気持ちよく暮らせるようにお仕えする。
それが今の自分の最大の望みなのだ。
「レイラ」
「アルト様、どうされました?」
自分の部屋を訪ねてくれたアルトをレイラは迎え入れた。
アルトの手には一枚の紙が握られている。
「これなんだが……」
そう言ってアルトは紙を差し出した。
「人物証明書……ですか?」
「ああ。約束だからな。レイラは俺が人物証明書を書くに値するメイドだ。もう、どこに出しても恥ずかしくない」
差し出された人物証明書を受け取ろうとするレイラ。だが、どうしても手を出すことができない。
もし、これを受け取れば、何かが壊れるような気がしたからだ。
「……受け取れません」
「レイラ……」
「受け取れません。……アルト様。人物証明書なんか必要ないんです! わたしの望みはこれからもアルト様にお仕えすることなんです! どうか……このままお傍に置いてください……」
レイラはアルトの手にすがるように泣き崩れた。
アルトは膝をつき、レイラの手を握りしめる。
「レイラ……君は本当に素晴らしい女性だよ。俺の目に狂いはなかった。信じてもらえないかもしれないけど、本当のことを言えば、俺は初めて見た時に君にひとめ惚れしたんだ」
「うそ……」
「サラに怒られたよ。人物証明書なんか書いてる場合か!ってね。だから、この人物証明書は……持っていても何の役にも立たない代物なんだ」
アルトは傍らの人物証明書を拡げて見せた。
そこには、レイラの履歴や人柄などには一切触れず、ただ一言こう書いてあった。
- 君が好きだ
涙が溢れたレイラをアルトが抱きしめる。レイラもアルトを抱きしめた。
お互いがお互いを求めている。
なのに、それからどうしたらいいのか分からない。
「ふふ、まるで何も知らない子供のようですね」
「ああ、そうだな。でも、困っているのは事実だよ」
「はい。わたしも困っています」
レイラは愛おしさで胸がいっぱいになりアルトを抱きしめた。思えばアルトにはずいぶんと無茶を言われた。
最初の出会いは貴族と娼婦。そして主人とメイドになり、今では愛する恋人同士になろうとしている。信じられないとレイラは思う。そして、自分の選んだ道に間違いはなかったとも。
その道を照らしてくれたアルトに心から感謝し、心から愛していると確信する。それはこれからも一生変わらない。
レイラは潤んだ瞳でアルトを見た。
「こういう時に相応しい言葉を、ようやく思い出しました」
「言ってくれ」
レイラはアルトの言葉ににっこりと頷き、ほんの少しの妖艶さを漂わせながらこう言った。
「さっさと抱きやがれ」
娼婦でハーフエルフのあたしが貴族のメイドなんて出来るわけがない。 レフトハンザ @ryomoon0418
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