****な***手[中]

 窓枠に足をかけたままの沙那だったが、俺の呆れを含んだ声を切っ掛けとして部屋に転がりこんだ。その勢いのままに飛びついてきた沙那を抱き留める。


「おっと」


 ちょっとふらついたものの、自主トレを欠かさず鍛えた体幹は良い仕事をする。

 胸に顔を押し付けるようにした沙那の髪は風呂上がりなのか、花のような香りともに女の色香が匂い立つようだった。加えて過去の記憶より、たわわに実った双丘が柔らかさを伝えてくる。


 Eか? いやFぐらいはありそうだな。


「ユウ」

「……はい」

「凄くカッコ良くなったね。昔から背は高かったけど、なんて言うか男になった感じがする」


 三年に近い歳月は人を変えるには充分過ぎる時間だろう。あのまま、沙那の元に居てたらどうだっただろうか? それでも俺は壊れていた気がする。いや予想ではなく確信だ。俺は悪意に曝され続けていたのだから。


「ねえ」


 沙那が見上げてくる。

 灯りの屈折で濡れた瞳孔が紫檀色に変わるのを見て、ああ変わってない。ここに居るのは紛れもなく幼馴染の沙那だ。と何故か安堵した。何だ、さっきから思考がままならない。今、俺が考えるのはそんな事じゃないはずだ。


「どうして私の前から居なくなったの?」


 当然だ。幼馴染であり恋人だった沙那には聞く権利がある。何も言わずに消えた俺に対して悲しみ、戸惑い、恨み、ぶつけたい気持ちはあるはずだ。けれど、先ず理由を知りたいと思うのは共に過ごした年月の長さ故だろう。

 逃げて逃げて逃げ続け、何の因果か再び巡り合った縁━━━━これは運命なのか?

 いや、運命などヘマをやらかしたペテン師の言い訳に過ぎない、A・ビアスの言葉だが正鵠といえよう。

 これは贖いだ。心の弱さが犯した罪の代価を払う時が来ただけなのだ。


「そうだな……あの頃、言えなかった事から話そう」


 そう前置きをして、そっと沙那を離す。

 少し残念そうにしながらもベッドへと腰かける沙那を見て、床に座った。

 フローリングがキュッと鳴った。


 …………………

 ………………

 ……………

 ………



 中学生になり、にいにい蝉が鳴く頃。溜め息を吐く事が増えた。それは憂いを帯びたものであり、歓迎すべきものではない。少なくとも、もうじき来るであろう幼馴染にして、最愛の恋人を待つ身上としては相応しくないには違いない。

 女子の成長は早い。二次性徴期になり、彼女は日をめくるに艶やかに。男子共に駆け回っていた平坦な身体は今や道行く男が、欲望のままにチラ見していく。そんな彼女は入学式に一目惚れした、という理由で先輩から告白されるという伝説を作った。無論、即断されていたが前途多難だな、と思った。

 案の定、杞憂には終わらない。

 止まると死ぬ回遊魚のように彼女に好意を伝える輩は後を絶たなかった。

 厄介なのは好きな人が居るから、という断りから、彼氏が居るからと理由が変用しても諦めさせる理由になり得なかった事だ。

 それは彼女の相手として周囲が認知しないという身勝手な価値観の押し付け。

 勿論、彼女は激昂したし、それでも言い寄ってくる相手には冷淡にあしらった。

 そうなってくると矛先が向かうのは彼女の相手である俺になる。

 ただ、幼少の頃よりこの手合いのトラブルを予見していたので実践空手道場に通って鍛えてきた。なまじ上背もあったので、喧嘩となれば上級生相手でも負ける事はなかった。

 正面切って文句が言えなくなると、陰湿な攻勢が始まった。上靴や教科書は学校に置くと失くなるのがデフォになり、スマホには差し出し不明の嫌がらせメールが時間毎に届く。アドレスを変えても同じだった。

 これらの事は彼女には伝えていない。余計な心配を掛けたくなかったのもあるが、弱さを見せたくなかった。ちっぽけなプライドだ。だが、彼女の隣に居る為には負い目なく並び立つには必要なものだ。持たざる身だけど、格好ぐらいつけたい。

 それに回り回って母さんに知られたくもなかった。最近の母さんは体調が悪いようで伏せる事が多い。些事な事で心労をかけたくない。

 後はヒソヒソと陰口。実際のところ、これが一番堪えた。腕っ節にはそこそこ自信はあったが、精神は成熟仕切ってない子供だからな。

 そういう訳で、アドレスは変えるだけ無駄だしブロックもキリがないので何もしていない。見る事も止めた。通知も切った。

 当然ながら、友達と呼べる存在はいない。

 そりゃそうだ。非がないにしろ喧嘩ばかりして、妬み、僻みの中傷の的と誰が仲良くしたいと思うのか。

 それでも近寄る奴は俺というフィルターを通して、沙那と繋がりを持とうとする目的の為だけだ。

 別に寂しい訳ではない。ぼっち体質でもない。仲良くやれるなら、それにこしたことはないとも思うが現状は無理だろう。

 休み時間に一人、窓の外を眺めていると聞こえてくる。


「あんな奴のどこがいいんだ?」

「背が高いだけじゃないか」

「あんな凶暴な奴には天使なあの子には相応しくない」

「女みたいな顔してんなー」


 こんな声はまだ無視出来る。

 そこに追い討ちをかけるように声が続く。


「夏目ぐらいイケメンなら」

「海衣だったら諦めつく」

「あの二人が並んでると、美男美女でお似合いよね」


ギリ。奥歯を噛み締める。

胸の中がどす黒く染まる。

幸いにして、その会話は終わりを告げるチャイムで打ち切られた。

感情が摩耗していく。行き場のない負の念が澱のように深海に降り注ぐマリンスノーのように蓄積していく。それを食らうのは名前の無い怪物か━━━ただただ、無とする為に。


夏目 海衣。

奇跡の双子と称され、姉である夏目 結衣ともに容姿端麗で、成績優秀、生まれも上流と、学年の、いや学校のトップカーストと言っても過言でない。沙那と並び、知らぬ者はいない有名人だ。まあ、悪評に限って言うなら自分もその限りではないのだが。


奴との出会いは小学校四年の時だった。

当時、街には二つの小学校があった。それが少子化の為に統合される事になり、東西地区に住んでいる海衣達が南北小学校に転入という形で来た。

忘れもしない。奴は転入三日後にして取り巻きを引き連れて、出合い頭にこう言ったのだ。


「お前が沙那の幼馴染とかいうヤツか? 女みたいな顔してんな」

「ハッキリ言って不釣り合いだから」

「幼馴染とかそんなんどうでもいいから空気読んで消えてくれよ」


その後、軽く殴ったら鼻血出して倒れた。弱かった。後日談としては表面上は大人しくなり、友好的に接してきた。が、信用はしてない。時折、沙那を見るギラギラした瞳はまだ諦めてないのだ、と口程に語っている。だが沙那は結衣と仲が良い。懸念を伝えて、二人の関係がギクシャクするのは本意ではない。

結衣とは沙那を通して話す事はあったが、それだけだ。多分、仲良くなる事はないだろう、向こうもそのつもりだろう。


「お待たせー」


沙那が破顔しながら駆け寄って来る。

それだけで周囲から舌打ちが聞こえ、刺すような視線は一層、圧を増す。

沙那に笑みを返しながら胸の内で、また嘆息を吐いた。


……

…………

……………………

………………………………


ここまで話し、目をやれば沙那は青醒めた顔を悲痛に歪めていた。


「な、なんで言ってくれなかったの……わ、私……最低だ」

「理由は幾らでも後付け出来る。格好付けたかったとか、心配をかけたくなかったとか。でもそれは所詮、虚空の言葉だ。結局、俺が弱かったんだ」

「そんなことない……私の考えが甘かったんだ。あんなに強いユウがやられる訳がないって」


最後の方は涙声になっていた。

もう終わった事だ。幾ら悔やんだところで、結果は変わらない。


「もっと話し合いをすべきだったかもしれないな。お互いを知り尽くしていたし、何処かで線引きをしていたのかもしれない。けど、今は話しを進めたいんだが、もう聞きたくないか?」

「聞くよ。ちゃんと聞きたい」


真っ赤になった瞳で、真っ直ぐに見つめてくる沙那に首肯を返す。

思い返したくはないが、語らねばならない。

あの日に何を見たのか。







 ━━━━━━━━━━━━━━━


 タイトルは後編にて。

 まだまだ忙殺されてます。

 エタらないように餌下さい。




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