壊れた彼と彼女達

黒畜

前奏[壊れた彼]

悪夢の楽器

 *悪夢の楽器

 ザ・アプリヘンション・エンジン、直訳すると「不安発動機」どこを弾いても不協和音が奏でられる素敵な楽器。



 ♢♢♢♢♢




 例えるなら深海の底。


 暗い暗い、光通さぬ世界。


 そこには部屋があった。とはいえど、四方の壁は透き通り、プライベート空間として形を成さないものであったけれど。


 部屋には飾り気のないベッドが一つと、黒いリクライニングチェアだけがある。


 ベッドには、死んだように眠っている彼。リクライニングチェアにはゴシックドレスに身を包んだ少女。




 眠っている彼は八坂 裕也。十五歳。


 ベッドに横たわる彼は今や残滓のような存在。度重なる裏切りにより、彼はPTSD心的外傷後ストレスを発症し、無感情症候群アパシーと診断された。

 感情を失くした彼は、ふと思う。




 俺はロボットじゃないか?




 彼はナイフで腕を抉る。痛みを感じながら、骨が見えるほど肉を抉る。OILの代わりに血は流れ、無機質な機械仕掛けの身体で無い事にも落胆はしなかった。




 何だ。違ったのか。




 ただ、それだけだ。だって、彼は壊れているから。悲しむ事も怒る事も希望や恐れも慈しみも愛情すらない。






 前述した部屋を囲むように四枚の扉がある。


 その内の燃ゆるような紅に塗り潰された扉と、冬の寒々とした蒼に染まった扉の前に、人として形に非ず、揺らぐ紫煙のように霧散していくような儚さの具現化が揺蕩う。



 ジジッ ジジッ。



 突然、ホワイトノイズの音がどこからか、断続的に鳴り響いた。


 少女は悲痛そうに顔を歪め、ぐるりと周囲を見渡し、ある一点に目を止めた。暗い暗い世界にあっても尚、暗く、異質そのものの深淵の扉がぐにゃりと歪む。


 だが、扉の向こう側には延々と闇が拡がっているだけ。その闇からは一滴の水が波紋を拡げるかのように、音波として部屋に干渉を挑む。が、部屋の内部には決して届かない。




「泣かないで、愛し子よ」




 少女は深い悲しみを湛えた瞳で、変容する扉を見続ける。




 暗い空間に、幾つもの画面が次から次へと現れた。


 ひとつ、ひとつの画面は彼が壊された場面が映し出されている。


 それも束の間の事。画面にブロックノイズが一斉に走ったかと思うと、かき消える。


 少女の視線の先にあった扉は今や沈黙していた。視線を移す。先程まで、眠っていた彼が目を見開いている。


 頬には一筋の雫が流れていた。




「相変わらず辛気臭い顔ね。ねえ? 前にも言ったけど、その辛気臭い顔は何とかならないのかしら? 世界中の不幸を背負ったと勘違いしている、その顔よ」




 そんな顔をしているつもりはないけど、そうキミが見えるんならそうかもしれないな。




「面白い事を言うわね。まあ、自分の事が見えてない愚鈍の言いそうな事よね。そうね。何も見ようとしない、何も気付こうとしない貴方には辛気臭い顔すら変えられないわね」




 否定はしない。

 どうにもならない事をどうにかしよう、と足掻いた結果は、どうにもならないって事を再確認しただけだ。そこに何ら疑念の余地はないはずだろう? そこから推察出来る答えなんて、ひとつしかない。


 諦めだ。




「何をか言わんや。小賢しい知恵ばかり覚えて、処世述とでも言うつもりかしら?

 だとしたら、それは大きな勘違いよ。貴方のそれはね、単なる逃避よ 。

 はじめに心ありき。いえ、違う。はじめに力ありき。いいえ、違うわ。はじめに行動ありきよ。何時だって何かを変えるのは、行動だけよ。狭い、音の無い部屋に閉じこもって一体何が変わるというのかしら。無様に地を這えばいい。みっともなく泣き喚けばいい。それすら出来ない貴方は些か傲慢過ぎやしないかしら。資格なんて自分勝手に作りだした箱に閉じ込めるのは止めなさい。可能性を否定する事から始めるのは全くの浪費よ。全くの無駄。そんな暇があるなら、今すぐ外に出て大声で歌いなさいな。誰かが聞いて、直ぐにでも通報してくれるわ。そして冷たい床で眠りなさい。その横で子守唄代わりに悪夢の楽器を奏でてあげましょう」




 ファウストの一節だね。

 キミがゲーテを知ってるとは意外だった。

 では、俺からもひとつ引用するとしようか。



『おお 見よ、あの満月のいっぱいの輝きを。

 お前の光がわたしの憂いを照らすのも、この夜が最後であってくれないか。


 泣きたくなる。まだわたしはいるのか、こんな狭い牢獄に!』




「お生憎様。誰が甘言を貴方になんて、囁くというのかしら。貴方は壁になりなさい。安心して私が一日中、思いつくまま気の向くまま、一方的に話してあげるから」



 彼は再び眠りについた。

 日に月に、彼の心に影は落とし続ける。

 累卵の如き危うさは拭えない。

 それでも、少女は言葉を紡ぎ続ける。



「幾星霜を経ても語り続けましょう。手を変え品を変えて、そう、言葉遊びと捉えても結構よ。構わないわ。したり顔で話す評論家気取りに嘲笑されるのが目に浮かぶようだけど、思い上がりも甚だしい。凝り固まった思考は愚考、がらんどうの目で見るな、語るな。疑え、何もかもを。そうして得た愚見を押し付けるのは愚行。私は繰り返す。何度でも何回でも、唯一人にだけ、この言葉は届けばいい」



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