第6話


 何度も鳴るインターホンで目を覚ました。時計を見ると、深夜1時だ。何事かと起き上がった時、インターホンが止んだ。そのまま寝てしまおうとすると、次はドアを何度も殴られた。まるで、ドアを壊そうとしているかのようなノックのしかたである。玄関へ向かったものの、あまりの激しさに固まってしまったほどだ。


 身の危険を感じ、どうしようか考える。これは、通報した方が良いのでは? そう思った時、ドアの外から女性の声がした。


「開けなさい! この誘拐犯!」

 それは間違いなく、一週間前に聞いた声、悟くんのお母さんの声だった。だが、声の荒げ方など、もはや別人のように聞こえる。


 とにかく、僕はドアチェーンをかけたまま鍵を開けた。ドアが勢いよく引かれ、チェーンが軋む。


「この卑怯者! よくも悟を誘拐しようとしたわね!」

 そう目の前で叫ばれた。息が少し酒臭い。

 こういう時は、冷静に、自分に非がないことを伝えるべきだ。

「誤解ですって! 嘘だと思うなら、悟くんに聞いてください!」

「聞くまでもない! 未成年を連れ回した時点で、犯罪者だわ! もう、警察呼んだから!」


 そう言い捨てると、彼女は部屋に戻ろうとする。警察? 僕は焦る余り、つい口走ってしまった。──やめておけば良かったものを。


「悟くんの痣、あれはお母さんが?」

 彼女の足が止まる。やはり。僕は確信に乗じて、さらに畳みかける。


「痣の位置、色、そして悟くんの反応。明らかに虐待ですよね。警察に捕まるべきは、あなたなのでは?」


 遠くでパトカーのサイレンが聞こえ始めた。どうやら彼女は、本当に警察を呼んだらしい。音が近づいてくる。


 それにつれて、彼女が歩き出した。ドアチェーン越しに見えていた彼女の足が、ゆっくりと狭い視界から消える。そして、自分の部屋のドアを開ける音と共に、彼女がぼそりと呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。


「なら、証拠を消せば良い」


 どういうことだろう。そう思ったが、答えはすぐに出た。


 彼女は乱暴にドアを開けると、嫌がる悟くんを引きずりながら出てきたのだ。まさか、連れ去る気か……!


 考えるよりも先に、僕の手はドアチェーンを外そうとしていた。だがその時、彼女が叫んだのだ。

「動くな!」


 何かを僕に向けて構える。その手には、鋭利な光沢を放つ、一本の包丁。その直後、彼女は刃先を悟くんに向けた。

「お前が妙なマネをしたら、こいつの喉を掻っ切る。そこにいなさい」

 彼女の目は狂気に見開かれている。もし刺激したら、本当にやりかねない。僕は、ドアチェーンに手を掛けたままの状態で固まってしまった。


「そう、それで良いの。そのままそこで、大人しく警察に逮捕されることね」

 彼女はそう言って笑うと、また歩き始める。


 このまま見送るしか無いのか……。そう考えていた時、悟くんが一瞬、こちらを振り向いた。視線が交わる。その瞬間、僕の体の内で、何かが動き始めた。それは腹の底から身体中に沁み渡って、恐怖で固まった筋肉を、怖気づく心を、ほぐしていった。


 そっと、素早く、音を立てないようにドアチェーンを外す。直後、彼女が階段に差し掛かり、バランスを取るために包丁を下ろした。それを確認するや否や、僕は玄関から飛び出して、電光石火の如き早業で悟くんの腕を掴んだ。唖然としている彼女から悟くんを引き離すと、僕の後ろへ回す。だが、相手も黙ってはいなかった。僕が戦闘態勢を取ろうと彼女の方を見た時には、既に目の前に、その狂気に満ちた顔があったのだ。とっさにかわそうとしたが、できない。彼女が体当たりしてくると同時に、右足に、焼かれたような熱さを感じた。そのまま倒れ込む。足を動かそうとしたが、今度は鋭い痛みが動きを阻んだ。


 僕が動けない間に、彼女は悟くんを捕まえて脇に抱えると、僕を飛び越えて階段を駆け降りて行く。どうにか起き上がり、右足を見ると、太ももの外側に包丁が突き立てられていた。幸い、引き抜かれなかったことによって出血は少ない。法医学をかじっていた頃の記憶からして、刺された部分に大きな血管はなさそうだと判断した。


 Tシャツを細長く裂いて、包帯を作る。包丁をゆっくり引き抜くと、急いで傷口を縛った。刺された直後は痛かったものの、今はどうにか立ち上がれる。アドレナリンのおかげだろう。僕は、足を押さえながらも、階段へ向かった。


 警察は近くまで来ている。だが、それを待っていれば、悟くんは母親に殺されてしまうかもしれない。急いで追わなければ。


 その時、階下からエンジン音が響いた。下を覗き込むと、黒い軽自動車がエンジンをふかしていた。車の後部座席の窓から、白く小さな手が見える。見間違えるわけがない。あれは、悟くんの手だ。ドアを開けようと、窓を必死に叩いている。それも束の間、彼は奥から伸びてきた母親の手に引きずり倒されてしまった。


 直後、車が発進した。急いで、家の前にある自転車を階下まで運ぶ。怪我のせいでうまくバランスが取れない。最後の数段を踏み外して盛大に転んだ。エンジン音が遠ざかっていく。


 己を鼓舞するような呻き声をあげて、僕は立ち上がった。幸い、自転車は壊れていない。サドルにまたがると、ペダルに全体重をかけた。


 アパート前の路地に出る。車が逃げていった方向を見ると、街頭に照らされた車体が遠くに見えた。よかった。まだ見失っていない。急ハンドルを切ってそれを追いかける。ペダルを踏み込むごとに、耳に当たる空気の音が大きくなっていく。


 もはや、僕は追いつくことしか考えていなかった。足の傷の痛み。ペダルの重さ。それら全てが消え去り、僕の視界は、車を中心に狭まってゆく。


 大幅に遅れをとりながら、車を追って大通りに出た。車はさらに速度を上げる。向かっている方角からして、高速道路を使って逃げるつもりらしい。そうはさせるものか。


 足に力を込める。自転車のタイヤがアスファルトを掴み、砂利を巻き上げた。


 だが、車と自転車では、流石に馬力の差が大きい。苦労も虚しく、車との差は徐々に広がりつつあった。体力は既に尽きかけて、息が上がってきた。いくら空気を吸っても、酸素が足りない。夏の湿気た空気は鉛のように重く、肺を痛めつけた。


 だんだんと、意識が薄れてくる。速度を落とさないようにするのが精一杯だ。何も考えられなくなり、抑えていた不安だけが、脳内を飛び交い始めた。


 ──追いかけて、何になる? もう追いつかないかもしれない。既に殺されているかもしれない。

 

 ──彼に……悟くんに、拒絶されるかもしれない。


 心臓にナイフを突き立てられたような気がした。無視したかった、可能性という刃を。


 もし、彼がお母さんを選んだら。生みの親との関係を続けたいのなら。僕は、ただの邪魔者だ。彼が嫌がっているように見えたのは僕の錯覚で、虐待も、彼の笑顔も、僕の空想だとしたら……。


 その時だった。僕の腕が、何かに掠ったのだ。その方向を見ると、街路樹がものすごい速さで通り過ぎて行った。それが、その感触が、僕の思考を覚まし、現実に引き戻した。


 何を考えていたんだ、僕は。可能性なんて、考え出したらキリがない。だったら、自分の信じたい可能性を、一つだけ信じればいいじゃないか。


 また足に力を込めて、目の前を見据える。そうして、自分に問いかけた。


『お前は、あの子の何になりたいんだ』と。


 父親でも、母親でもない。先生でも、お兄ちゃんでもない。形ではない、もっと根本的なもの。


 僕は……


 そんなことを考えていたからだろうか。僕は、落ちていたコンクリートブロックに気づかなかった。


 何かに乗り上げるような大きな衝撃と共に、僕は自転車ごと一回転した。気づけば、真っ黒な夜空が視界を占めていた。車軸からひしゃげた前輪が外れて、空高く飛んでいく。ハンドルが手から離れて、自転車は景色の中に置いてけぼりとなった。一連の出来事が、全て、もどかしいほどゆっくりと動いた。事故にあった時にスローモーションに見えると聞いたことがあるが、こういうことだったのか。


 ゆっくりと感じている間に、僕は考える。このまま地面にぶつかれば、軽い怪我では済まない。頭を打って死ぬかもしれない。だが、ここでくたばるわけにはいかないのだ。


 仰向けの体を思いっきり捻り、地面に向き直る。足裏でアスファルトを蹴って減速し、膝と手を使ってブレーキをかけた。爪が割れ、小石が掌を切り裂いた。勢い余って額をぶつけた後、腕立て伏せのような格好でやっと止まった。


 さっきまで進んでいた方向を見ると、車はお構いなしに進み続けていた。僕は血だらけの拳を地面に打ちつけ、唸るような咆哮と共に立ち上がる。


──僕は、弱虫だ。大切な人を守れなかった、クズだ。もう、大切な人を失いたくない。だからこそ、僕はこの命をかけてでも彼を守る。どうせ無駄遣いする命だ。燃え尽きても後悔はしない。だから、神様。あなたがいるのであれば、僕にありったけの力をください。人のために生きる、最後のチャンスをください。


 ボロボロになった体を半ば引きずりながら、駆け出した。刺された傷が開き、血がどくどくと流れ出す。体のあちこちが擦り切れ、血が出て、痛い。だが、悟くんの今までの苦しみに比べたら、ちっぽけなものだ。


 走って、走って、走って。どれだけ車が遠くなっても、僕は風を切って進み続けた。絶対に追いつけると信じて。


 どれだけ走っただろうか。もはや車は、暗闇にのまれ、どこにいるのかわからなかった。ただ、いるであろう場所を見据えて走るだけだった。


 その時、遠くで赤い光が煌めいた。まさか。僕は、その光に向かって一心不乱に走った。近くまで行った時、僕は確信した。あれは、ブレーキランプの光だと。悟くんを乗せた車が、確かに停まっていた。


 突然、後部座席のドアが開き、彼が駆け出して来た。僕が膝をつくと、彼は迷わずにとびこんで来る。僕の血みどろの胸に、顔を埋めた。そこのシャツに、じわりと温かいものが染みた。


 直後、ブレーキランプの光が消え、車が走り去って行く。悟くんは、動揺したような、納得したような、不思議な目で、それを見送っていた。


 彼が振り返るのを待ってから、言った。


「さあ、もう一つの人生を始めよう」


 彼は、僕と目を合わせると、コクリと頷いて、そして笑った。彼の細められた目から、涙が一粒だけ溢れた。


 真夏の夜明けのことだった。

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