不思議の里
あるままに身を重ね合い落ち葉かな
いよいよ2月も終りです。3月が近づくと、心がひとりでに春を迎える準備を始めます。今日は天気も良いし、ひと冬のあいだ放ったらかしだった庭の片づけでもしておきましょう。まずは落ち葉を掃いてと … 。足もとに積む一面の落ち葉たち。生い立ちは違っても、それぞれの形で、大きさで、色で、種類で、今は静かに身を重ね合っています。尖った葉も、広い葉も、朽ちた葉も固い葉も、皆、あるがままの自分の姿に辿り着いて重なり合っているのを見ていると、切ないような、それでいてほっと救われるような愛しいもの寂しさが過<よ>ぎって行きました。
「不思議の里」へのご参加、有難うございました。今回は38名プラス途中退場3~4名、マイナス1名(お一人で二作:悪意はないので今回に限り両方拝読しました)の皆様の作品をお寄せ頂く事ができました。→https://kakuyomu.jp/user_events/16817330652642791048?order=published_at
あらためてお礼申し上げます。
自主企画を開く度に毎回不安に思っていることがあります。「本当に大好きな作品がひとつもなかったらどうしよう?」 … なかなか面白かった、とか、普通に楽しかった、程度ではこの場でうまく紹介できる自信がないのです。幸いにも、これまでのところ、この心配が現実になったことは一度もありませんでした。新しい企画を開けば、必ず一つや二つは抱きしめたくなる作品に不思議に出遭えてしまうのです。今回も、これだけは紹介しておかなければ絶対に気が済まないという作品が少なくとも四つはありました。ところが、今回はどうご紹介したものかと大苦戦の予感です。「少年と僕、猫と僕、僕とおじさん」はストーリー的ではありませんし、「冬ごもり」は荒筋をお話しても実際に一文一文味わって頂かないと意味がないタイプの作品ですし、「マリオネットと海」はシュールですし、「ある力学」はそもそも、詩ですし、その他の幾つかの作品も、大好きなのに不思議じゃなかったり、短かかったり、凄く気に入っても納得し切れない部分があったり … と、申し合わせたように(本当に事前に参加者全員で談合されていたのならホラーですが)コメンテーター泣かせの作品だらけという印象でした。
∮
晴れた日はおじさんと買い物です。行きなれたスーパーのお菓子コーナーの、あの日と同じような場所で僕の足が止ります。キャッキャッとはしゃぐ子どもの声にハッとして、「お父さん、コレがほしい!」と、別に欲しくもない物を取って言います。おじさんは嘘だと気付いていますが、ご褒美に頭をなでて買ってくれました。家に帰ります。おじさんがいつもの様に手を離して先に階段を上って行き、遅れて入った僕が鍵を閉めます。荷物を置いた僕は、老衰した猫のもとに駆け寄って行きますが、「生き物ってのは、死ぬんだぜ?」とヘラヘラ言うおじさん。「じゃあ、おじさんも……いつかは死ぬんだね」。ですが、コップを洗う水の音に紛れて、おじさんが「今、なんじゃね?」とよくわからないことを言った時には、猫はもう死んでいました。頭が真っ白になります。(以下、【】内、呂兎来 弥欷助さま原文)
【 僕は、何を夢だったらいいと思っているのだろう。
猫の死か。
少年の姿か。
それとも、おじさんの手をつかんだ日のことか。
猫が死んで、僕が生きている。
おじさんがいる。
それだけなのに、どうして僕は、こんなにも不安でいっぱいなんだろう。】
この物語にデジタル・フィルターをかけて強引に「誘拐」の二文字を絞り出せばかなり視界が晴れて構図は見やすくなるはずです。ですが、これを「
極めて独創的で、驚異的な作品ですが、友未はごく最近、この作品とは天と地ほども異なる性格でありながら、ある点ではこの作品に似た魅力を持つ二つの傑作を読んでいたことを思い出しました。共に前回、「児童文学の里 第二回」の折にご紹介した作品で、一つは「カラスの砂遊び」、もう一つは「迷子の国」です。前者は徹頭徹尾主人公目線で語られたヒューマン・ドラマでしたが、この「少年と僕、猫と僕、僕とおじさん」では、その態度が極限まで押し進められ、物理的現実が主人公の意識世界の奥へと遠ざけられてしまいます。一つ一つの台詞や出来事が、夢の中にでもあるかの如く、時には予期できない鋭さで、また時には奇妙に歪んだ心許なさで我々を戸惑わせるのはその為でしょう。「僕」自身の姿さえもが「少年」として客体化されてしまっています。また、この作品全体に流れる足場のない不安で不確かな生理感覚は、「迷子の国」で父親がデパートを彷徨う場面同様、肉体と意識の乖離を強烈に印象づけられるものでした。
呂兎来さま、これこそお待ちしていた作品です。「僕」の不安と混乱が全篇に宿された、「不思議」とはまさにこれだと魅入られてしまったトラウマな深層風景でした。誰かはやく保護してあげなければ …
∮ 一転、@sakamonoさまの「冬ごもり」はごく普通に追って行ける作品で、切り口や視点にも別段胡乱なところのない和風味の幻想ホラーではありました。にもかかわらず、というか、だからこそ、と言うべきなのか、「少年と僕、猫と僕、僕とおじさん」以上に、その魅力をお伝えすることが難しいタイプの佳品です。その、緻密な文章の美しい味わい深さを感じ取って頂くには、実際にお読み頂くしかありません。
行くべき場所とてなく列車に乗り合わせた男が、雪のために停車する事になった駅に降りて改札を出る。降りしきる黄昏の小暗い小道を二、三十メートル下の峡谷の川辺に降りて行く。見上げると薄暗い空一面に、羽毛のような雪が舞っている。なぜ今、自分がここに立っているのか、判然としない。岩の上を渡ってゆっくり流れに近づくと、十匹を越える数のマスが腹の部分を食いちぎられて、降りしきる雪を薄くかぶっていた。峡谷の斜面の中ほどにぽつんと一つ朱が差し、赤い明かりが点る。下りて来た道とは別の小道が杉木立の奥へと続いている。道を辿ると赤いトタン屋根の粗末な小屋の軒下に、赤提灯が下げられていた … 、以下、この薄明るく心地よい居酒屋のぬくもりと静けさを背景に、ワラビの煮物とイノシシのモツ煮で二合の酒を飲む間の男と女将の対話が綴られて行くのですが、やがてほんの少しずつ、正体のわからない薄気味悪さが忍び入って来て(その前兆のような、杉の実が落ちてこつ、こつと屋根にあたるらしい描写が印象的です)、最後は民話風の妖しい眠りへと誘われて行く展開です。友未は、この居酒屋のシーンを描く丁寧な言葉たちの趣の深さに圧倒されました。ただ緻密というだけではなく、自分がその場に居合わせているかのような臨場感が鮮やかに醸し出されていて、酒も飲めないくせに、この鍋で一杯つついてみたくなったほどです。饐えたような芳しい温もりが、薄明るく心地よく匂ってきました。「小さな電灯とストーブの光は、小屋の四隅にまでは届かず、壁際に雑然と置かれたものは闇の底に沈んでいた。」といった
∮ 守宮 靄さま作「マリオネットと海」は、一言で言うならシュールです。不思議、というよりは、奇妙な作品で、線描画のようにはっきりと背後空間を感じさせる文章です。謎はありますが、物事の輪郭は「少年と僕、猫と僕、僕とおじさん」よりずっと明瞭です。明瞭なのですが、何が起きているかはわかっても、なぜそうあるのかはわかりません。それは、ちょうどキリコの絵のように、個々のオブジェは建物であり、人であり、彫像であることが明らかでも、それらがなぜそう配置されているのか、そこに何の意味があるのかは分らず、よく見るとオブジェ自体も互いに焦点がずれていたり、現実にはありえないような仕方で存在している、といった具合です。キリコに限らずシュール派の絵画が好んだ手法が連想されます。
目が覚めると、自分の部屋に四肢のない胴体と頭部だけの人形があった。『わたし、自由になりたかったの。自由になって、お外に行きたかったの』手足に糸がついていてどこにも行けなかったが、糸が切れず、仕方がないから手足ごと外したのだという。『おかしいわねえ。自由になるために手足をとったのに、そのせいでもっと不自由になっちゃったわ』同じ話を何度も繰り返す人形に、思わず「よかったら、外に連れていこうか? 」と尋ねると、人形が言う。『海に行くわ』(海に行きたい、でも海に連れて行って、でもないのが憎い!)赤子を抱くようにして細い腹のひんやりとした皮膚に触れたとき、えも言われぬほどの背徳的な快感を覚える俺。『わたしの右手をとってくれたの、あなただった気がするわ』砂浜に辿り着く。『海に入りたいわ。ここまではあなたが運んでくれたけれど、それは自由じゃないわ。あなたの足に頼るのをやめて、あなたの手を離れて、わたし、初めて自由になるのよ』俺は人形をきつく抱き締め、海に入って歩き続ける。『ねえ、はなして、はなしてよ。わたし、自由になるのよ。糸からも人からも離れて、どこへでも行くの、だからはなしてよ』さらにきつく人形を抱きしめて俺は沖へ向う。ふと人形を見ると、輝く瞳がこちらを見ていた。初めて本当の意味で『目が合った』ような気がする。が、少し大きな波が脚を掬い、俺は人形を失う。行きは独りではなかった道を帰って泥のように眠る。翌朝、冗談のようにすっきりと目を覚まし、磯の匂う服と靴を洗い、昨晩の出来事をすべて夢に返してモップで床を拭いていると、ベッドの下から小さな右腕がカランと飛び出した。「何もつかめない小さな手の甲から伸びた糸はどこにも繋がっていなかった。」胸を鷲掴みにされる喪失感です。このラスト、友未の「別の詩」や「ニ短調のカルテ」の「証拠」という詩や掌編とも少し似ていませんか?
愛の
∮ さて、クマのプーさんは人形のくせに人の言葉を話します。これは現実にはあり得ないとても不思議なことですが、プーさんを読んでも、誰も不思議ばなしだとは思いません。同様に、お岩さんが化けて出て来ても、スーパーマンが空を飛んでも、ハリーポッターが魔法を使っても、それは当り前です。どんなにあり得ない奇譚を書いても、それが読者に単なる「読み物」として許容され、日常意識の中に取り込まれてしまったら驚きは削がれてしまうでしょう。不思議な(はずの)ことを書いたからといって、読者が不思議さを感じるとは限らないという訳です。逆に、ごく普通のことを書いても、当り前でない視点で書かれた言葉は本当に不思議です。「リンゴが上から下に落ちた」とか「女性も人間だ」とか … KIKI-TAさまの「ある力学」はまさにそういう詩集でした。
ドアをノックするとあなたはいなかった
もういちど気をとりなおしてドアをノックす
るとあなたは机にすわっていた
あのときあなたは部屋にいなかったではない
かとあなたに問うとわたしはなにも間違っ
たことはしていないとあなたはこたえる
わたしはドアを閉め
言い忘れたことがあったことに気がついて
再びドアをノックすると
あなたいなかった
わずかなあいだにあなたはどこに行ってしま
ったのか
そういえばあのときあなたと話したのは一瞬
だったような気もするし気のせいだったか
もしれない
ここでいつまでも待っていてもあなたには会
えない気がしたのでわたしはドアを閉めた
わたしに会いたければドアを開けるタイミン
グを限りなく少なくするそうすれば会える
確率が上がるはずだとあなたは言っていた
ような気がする
どのようにすればあなたに会えるのかますま
すわからなくなった
しかしドアを開けないことにはあなたに会え
ないことは真実らしかった
わたしはいまにもドアに手をかけようとして
いる
(以上、 KIKI-TAさま「ある力学」より「決まらない(原理)」全文)
おわかりですか?「シュレーディンガーの猫」です。
もう一つ。
おかしいなこの塗装ここにこの色あそこにあ
の色塗ってくれと頼んだはずなんだが
タシカに色は塗っている塗るそばから透明に
なっていくなぜなんだか同じ色ならば塗れ
るのだけれど。
違う色を塗る
塗るそばから透明になる
違う色を塗ると透明にじゃあね言うけれど
いまこうしてあっちの彼方もこっちの彼方も
虹の彼方までみえているそれは色を塗り足
し透明になったからみえているんでしょう
か
・・・・・・。
そうかそうですかあなたもわたしもこうして
塗り残っているということは
なにか足りなくてなにか色が足りなくて
なに色かが塗り足りないっていうことか
塗り足りなくて透明になれずに残っている
なに色なの?その色は
わからないねわからないよね
それを探しているんだろうねずっと探してい
るんだろうねたどりつけるのかね彼方にな
んてたどりつけるのか
透明になれる日はどんな日なんだろう
(以上、 KIKI-TAさま「ある力学」より「虹の彼方」全文)
ちょっぴり散文的な気もしますが( ´艸`)笑。
「ある力学」は科学の目線で書かれた科学詩です。それも、単なる科学知識の受け売りではなく、自分や日常を科学して、しっかり詩の言葉にしてしまっているのが流石だと思いました。 —— 全部が全部、とは申しませんが( ´艸`)ゴメンナサイ!
科学を愛する同じ詩を書く者として、壮絶に
∮ 他にも楽しませて頂いたたくさんの作品の中からも最後にいくつか、気の赴くままにほんの一言ずつご紹介させて頂きましょう。横禍負うか桜花追うか逢花謳歌/十余一さまは、不思議ではなくても
ただの創り事や絵空事では本当の不思議さは捕まらないのかもしれません。日々の実生活のふとした瞬間、不安にされたい、当り前から離されたいと怖れながら憧れる思い、謂わば精神の切なる不安定さの宿された言葉たちに、友未は連れ去られて行きたい気持ちで今も一杯です。
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