第二章 「片翼の少女達 白峯千都流」
1 続々・鉄砲塚さんと私
「ミヤには見えるよ。ユカリの背中にはね、おっきな白い翼が一枚だけ付いてるの」
部屋の隅に膝を抱えて踞るユカリの横にぺたんと座ると、ミヤは妙な事を言い出した。―――彼女は昔から、時折突拍子のない事を言い出してユカリを驚かせる。
ユカリと同じ年とは思えない、成長を止めてしまったかのような、白くて華奢で、小さなミヤの身体。同じように、彼女の心もまた、あの頃から成長を止めてしまっているのだろうか。
ここは何もない、白いガランとした部屋。まるで今のわたしの心のようだ、とユカリは思った。何もない、空虚な世界。
「―――何それ、変な慰め方」
「ううん、ミヤ、慰めてるんじゃないよ?本当の事言ってるだけ」
「仮に本当だとしても、一枚だけじゃ何の役にも立たないでしょう?」
バカバカしい、と吐き捨てるように言うユカリの右手が、そっとミヤの両手で包まれる。小さくても、暖かな手で。
そのユカリの手を、まるで大事な宝物のように胸元に抱えると、ミヤは目を閉じ、そっと微笑んだ。
「……役に立たない事ないよ?ユカリには見えない?ミヤの背中にもおっきな翼が一枚だけ生えてるのが」
「お生憎だけど、わたしには何も見えないわ」
「ちゃんと見て……きっとね、ユカリとミヤは元々一人だったんだよ。でも、空から落っこちる時に分かれちゃって、別々に生まれたの」
右手を握っているミヤの体温が心地よい。冷たく凍りつき、固まってしまってる自分の身体までも溶かすようだ、とユカリは思う。
ミヤが膝を立て、ユカリの頬に自分の額を押し当てる。
「……ね、この部屋から出よう?こんな何も無い所じゃなくて、色んなものが、色んな事が待ってる外の世界に行こう?」
「けど、わたしは……」
「大丈夫だよ。もちろん、楽しい事ばかりじゃないし、時にはやな事だってあるかも知れないけど。でもね、ユカリだけじゃないから」
「わたしだけじゃないって……」
「ミヤ、何も出来ないけど、ユカリが泣いてたら、一緒に泣いてあげられるよ?傷ついてたら、一緒になって傷ついてあげられる。でね、楽しい時には一緒にいっぱいいっぱい笑ったりするの」
「………」
「だって元々は一人だったんだもん。今は二人だけどね、ずっとずっとユカリの傍にミヤはいるから」
つ、とユカリの頬を涙が流れる。そうだ、忘れていた。自分はもう何もかも失ってしまったと思ったけれど。この部屋のように、空虚な存在だと思っていたけれど。
でも、この部屋にも、自分の心の中にも、彼女が、ミヤがいる。ずっと傍に寄り添ってくれている。
頬を伝う感触に気がつき、ユカリは涙を拭う。どうやらミヤの額までも濡らしてしまったようだ。
「ごめん、拭かなきゃ」
「いいよ。あったかいね、ユカリの涙って」
ミヤの手程じゃないよ、と軽く笑って、ユカリは立ち上がる。同じように、彼女の右手を抱えたまま、ミヤも。
ミヤに手を引かれるような形で、二人はこの部屋に一つしかないドアへと向かう。
ノブが回され、ゆっくりと開くドア。その隙間から漏れる外の光に、ユカリは少し眩しそうに手を顔へと翳した。
「!」
光の見せた幻だったのだろうか。
ミヤの背に、白くて美しい一枚の――――。
「行こう、ミヤとユカリの二人なら、きっと空だって飛べるから」
白峯先輩の原稿を閉じ、眼鏡を外すと、私は溜息をついた。
でもこれは、いつも先輩の作品を読んだ後についてしまう感動の嘆息ではなくて……どうしても字を追うばかりで、作品に没頭することが出来ないからつい出てしまったもの。
今日は四月十九日、木曜日。本来なら学校で、今頃は部室にいる時間なんだけど、パジャマ姿の私がいるのは自分の部屋のベッドの中。
特に具合いが悪い訳でもないのに、学校を休んでしまった。季刊誌の為にする事は山ほど残されているというのに……何やってるんだろう……。
原稿をベッドの下に置いて、憂鬱な気分で隣に寝ている大きなクマの縫いぐるみを抱きしめ、私は壁際へと寝返りを打った。
昨日の放課後―――あの後、私が目を覚ましたのはベッドの中でだった。
意識が戻って暫く、朦朧として自分が何故ここにいるのかという事が理解できなかったけれど、徐々に戻り始める記憶と……く、唇の感触に……ベッドからガバっと跳ね起きる。
微かに漂う消毒液の臭いと、ベッドを囲む白いカーテンからここが保健室だとは分かるけど……私あれからどうなって……。
まさか変な事されてないでしょうね!?と着てる制服を確認……大丈夫……寝乱れてるくらいで問題はないわ……。て、鉄砲塚さんの事だから、あのまま一気に―――と思ったけど。
鉄砲塚さんに気を失った女の子にイタズラする趣味が無くて本当に良かった、と心の底からホッとしてベッドから降りる。あれ?そういえばその鉄砲塚さんは?
「あら、目が覚めた?……駄目よ、ダイエットのし過ぎは。貧血の元なんだから」
ガサゴソやってるのを聞きつけたのか、カーテンが開いて、養護教諭の先生が顔を出す。
だ、ダイエットって……私そんなの必要ないですから!!むしろもっとこう身長と……む、胸が欲しいくらいで。どうやったら成長出来ますか!?やっぱり揉んだら大きくなるものなんですか!?
という必死な質問は飲み込んで、私は養護教諭の先生に問い掛けた。
「あ、あの、私どうしてここに?」
「ああ、何かあなた、部室でいきなり倒れたんですって?後輩だっていう女の子があなたを背負って飛んできたのよ?……とても後輩だとは思えなかったけど」
「う……そ、それはともかく、その、鉄砲づ……後輩の子は?」
「あなたをベッドに寝かせて出て行ったけど……何かあったの?何だか落ち込だような、暗い顔してたけど……」
落ち込んだ……!?あ、あのいつも天真淫乱な鉄砲塚さんが!?
その絵が頭に浮かばず、思わず首を捻る。うーん、どうしても沈欝な表情を浮かべてる鉄砲塚さんが想像出来ない……気を失ってる私に変なことする鉄砲塚さんなら起きてすぐに思い浮かんだのに。
待って……そ、そういえばその、わ、私は彼女とのき、キスの時にショックで気を失ったわけで。その事で彼女が傷付いたと考えればそれ程不思議でも……ないのかなあ?
それもあって、流石の鉄砲塚さんとはいえ、我に帰って後悔してるのかもしれない。そうよね……それで目を覚ました私に会うのが気まずくて……。
軽く指先で唇を撫でる……私だって今彼女と顔を合わせるのは気まずいもんね……。
そうして、鉄砲塚さんが部室から持ってきてくれてた鞄を持ち、先生にお礼を言って保健室を出ると、私はすっかり日も暮れて暗くなった自宅への道を急いだのだった。
一夜明けて今日。普段通りに目を覚ましたものの、やはりまだキスの衝撃が残っていた私は、昨日の貧血を言い訳に学校を休む事にした。
未だにどんな顔して鉄砲塚さんに会えばいいか分からないし、それに彼女だって、きっと私と同じ気持ちでいるはず。
そう考えた私は、副部長である葵に携帯から連絡し、文芸部を頼む旨を伝えた。
どんな罵詈雑言を浴びせられるかと怯えていたんだけど、携帯から聞こえる葵の声は意外にも(と言うのも葵のイメージダウンだけど)心配そうで。
「全くもう……小さい体で徹夜なんかしてるからだよ……」
「……ごめん……そういう事だから、今日一日よろしくお願いね」
「お願いはいいけどさあ、大丈夫なの、史緒?授業終わったらお見舞いにでも行こうか?」
「ううん、そこまでする程の事じゃないから……それより季刊誌の方が心配で。追い込み中だし……」
「まあ、そっちは果恵とあたしがなんとかしとくよ。本文はともかく、表紙の手配とレイアウトや目次くらいならね。原稿も大分揃って、大体の目安もついてきたし」
「ありがと……」
昨日果恵と二人で部活を休んだ引け目もあるのか、電話での葵は親切で優しかった。普段からこうなら葵はいい子なんだけど、そんなのは葵ではなく、何か別の生命体なのでそれはいい。
それから私はベッドに戻り、この状況では自分の原稿も手につかないし、せめて皆の作品に目を通すくらいは……と読み続けていたんだけど……、そこで冒頭に戻る訳で。
クマの縫いぐるみを抱いてベッドの上をゴロゴロと転がる。部長として考えなきゃいけないことは山積みなのに、どうしても私の頭に浮かぶのは昨日の事ばかり。
――――初めての、き、キスがあれかあ……。
思い出すと顔が熱くなるのが分かる……うーん、もっとこうロマンチックなの期待してたんだけど……い、いきなりししし、舌はないよね……。
そ、そうじゃなくて!!最優先の問題は、この後鉄砲塚さんとどう接して行けば良いか、という事だった。
なし崩し的に彼女の本心が分かってしまったけど……私はどんな態度を取ればいいんだろう……。
実際のところ、私にはそういった気持ちは無い訳だから、それを説明しなければいけないんだけど、鉄砲塚さんだって、昨日私が倒れちゃった事からそれくらいは分かってるよね。
となると、今度は私が、失恋した彼女の心のケアをしなければいけない、ということになるのか……振った方が振られた方の傷心を慰めるっていうのもなんか変だけど、まあ私の方が年上だし、部長だし。
「鉄砲塚さん……あなたの気持ちは嬉しいのだけれど、私はその想いには応えられないの……」
「ブチョー……いいえ、お姉様……」
「あなたはとても素敵な子よ。きっと私なんかより、もっと釣り合う相手が現れるわ……」
「そ、そんな!さ、沙弥、お姉さまじゃなきゃ嫌!!スタイル抜群で、地味じゃない可愛さであらせられる、史緒お姉様じゃなきゃ嫌なんです!!」
「まあ、鉄砲塚さんたらお上手なんだから。おほほほ」
「ああ、お姉さま……そのふくよかな胸に沙弥を抱いて……この悲しみを慰めて……」
「仕方の無い子……いらっしゃい……」
「史緒お姉様……」
「沙弥……」
あれ?慰めるというか、なんかくっついてるよね、コレ。むむ……自分の百合好きの血が憎い。困ったなあ……とはいえ私の貧困な発想力ではもうこれ以上は……ぶ、文章書きだというのに……!!
それにしても……なんか若干ピンクがかった想像になってしまったのは鉄砲塚さんの影響だろうか……毒されてきてるのかな?うう、嫌だ……。
―――やっぱり、ショックだろうな、鉄砲塚さん。
あれだけ私の事を思って作品に想いを込めてたのに、彼女の気持ちにやっと私が気付いたと思ったら失恋しちゃったんだもの。
けど、何でよりによって好きになったのが私なんだろう?彼女ほど美人で人気もあるなら、他に幾らでも選択肢はある筈なのに。まあ恋愛感情ってそうコントロールできるものでもないだろうけど。
別に自分を卑下する訳じゃないけど……でも、そんな事鉄砲塚さん本人に聞くのも躊躇われるよね。ましてや……今の彼女には。
―――失恋、か。
別にそんなに失恋した経験がある訳でもないけど、でも、もし自分の想いが相手に……白峯先輩に届かなかったら、私だって……。
そう思ったら胸が苦しくなり、ぎゅうっと縫いぐるみを抱きしめる……ごめんね、鉄砲塚さん……あなたの気持ち、私にも少しは分かるよ。
……今頃彼女も、私と同じように悩んで、苦しんでるんだろうか……。
「おねーちゃーん、起きてるー?お客さんなんだけどー」
ドアの向こう、階下、おそらくは玄関の辺りから聞こえる早苗の声。あ、もう帰って来てたんだ。小学生はいいわね……。ん?お客さん??
誰だろう?と首を傾げた。葵がやっぱり来てくれたのかな?それとも果恵でも―――……。
と、勢い良く階段を駆け上がる足音が聞こえ、ノックも無く私の部屋のドアがバン!と開かれる。
ダークグリーンの襟とスカートのセーラー服。胸元に結ばれた純白のリボン。
そしてその上には、赤みがかった茶色いロングヘアと、頭の両脇に揺れる猫の耳のようなツーサイドアップ。大きくて、これまた猫を思わせる二重の目。
「ブチョー!!お身体ダイジョーブですかー!?」
「てててて、鉄砲塚さん!!??」
現れたのは、私の想像とは違い、いつも通り―――違うな、何かいつもの数倍も元気溌剌としてる……お肌の色ツヤもいいし……ま、まあとにかく制服姿の鉄砲塚さんだった。
突然の彼女の来訪に驚いた私は、ガバっとベッドに上体を起こし、身を守るように毛布で鼻先まで覆い隠す。
「ななな、なんであなたが私の部屋に!?」
「なんだ、やっぱりここがブチョーの部屋なんですかー。つか、壁紙は花柄だし、ヌイグルミやカワイー小物が山積みだしで、何で妹さんの部屋で寝てるのかな?と思いましたケド。……チラッと見えたそのパンダ模様のピンクのパジャマもブチョーのですか?」
「うううう、うるさい!いきなり来て私の趣味にケチを付けないで!!」
こんなのがスキなんだー、へー、とキョロキョロと物珍しそうに部屋を見回す鉄砲塚さん。
……うう、せ、先輩の威厳がどんどん失われていっている気が……このままではSP(先輩ポイント)ゲージが0に……!!
私は彼女を睨みつけ、恥ずかしさを紛らわす意味も込めて、殊更大きな声を出した。
「わ、私の部屋やパジャマの事はどうでもいいのよ!!それより、なんであなたがここに来たのか、って聞いてるんです!!」
私の考えでは、今頃あなたは悲嘆の涙にくれて、失意のどん底にいるはずでしょ!?なんで香坂家建物探訪みたいな感じになってるの!?
鉄砲塚さんは私の問いかけに、悲嘆の涙や失意どころか、掌で口元を押さえ、明るくやらしくニパニパと笑い出した。
「やだなー、もーブチョーってば!自分のカノジョの為に駆けつけるのは、恋人のギムじゃないですか~」
「か、彼女!?こ、恋人おおおおお!!??」
な、何を言ってるの鉄砲塚さん!!??
彼女にそう問いただしたいものの、私の口はあまりの意味不明さから来る衝撃の為か、ただパクパク開閉するだけで声も出す事が出来ない。
そんな私の様子にはお構いなしで、彼女はデレデレしながら言葉を続ける。
「苦労したんですよ?ブチョーが休んだって聞いたから、家を探してトーホンセイソーして。まー住所は元々部員名簿に書いてあったんですケド」
それって東奔西走じゃなくて、単に道に迷っただけじゃないの?く……ツッコミたいけど言葉が出ない……。
「ブチョー昨日いきなり倒れるし、保健室からは消えるし、休むしで、もーあたしシンパイでシンパイで、ガッコ終わって飛んできたんです」
そ、そうよ!だ、だってあなたに顔合せづらいし!あ、あなただってそうなんじゃないの!?なんでそんなに笑顔なの!?
「ホントビックリしましたよー、キスの最中に倒れちゃうんですモン。ブチョーがオクテだってのは分かってましたけどー……」
そこで言葉を区切り、彼女は淫靡な瞳で私を見つめた。人差し指を口元に当て、ピンクの舌で、上唇をペロッと舐め上げて。
「……あたしのキスだけでイッちゃうなんて―――」
「あ―――――――」
鉄砲塚さんの発言に、私の口からやっと声が漏れた。衝撃を打ち消す程に呆れ返ったせいで、なんだけど。
そうだった………鉄砲塚沙弥とはこういう子だったんだ。とても私の理解の範疇に収まるようなタイプではなかった……少しでも同情したのがバカバカバカバカしい……。
再び貧血を起こすのではないか、というほどの眩暈を感じ、私はベッドへと倒れ込んだ。驚いた鉄砲塚さんが枕元へと駆け寄る。
「ブチョー!!ダイジョーブですか!?また具合いが!?」
「あは、あははは!あなたが来てから、おかげさまですっかり悪化しちゃったみたいだわ!……ひ、一つだけ聞きたいんだけど、昨日暗い顔で保健室を出てったっていうのは……」
「?ああ、あれはブチョーが倒れたんで、何か栄養ある物買ってこなきゃって悩んじゃって。で、よくあるセーリョクゾーキョー剤みたいの買ってきたんですケド、もうブチョーいないし」
「………精力増強剤の事考えてて、沈欝な面持ちだったんだ……」
「だってホラ、キスの度に倒れられたら困っちゃうじゃないですかー。その先にだってススメないし。だから常に買っておいた方がいいのかなーなんて事も考えて。そりゃ暗くもなりますって!ケッコー高価いんですよ、アレ!」
進むも何も永遠に通行止めでお願いしたいわ……。
一気に疲労感に襲われた私は、鉄砲塚さんにこれ以上構うのをやめ、頭から布団を被って固く目を閉じる。
さっきまでのは悪い夢よ……、わ、私が鉄砲塚さんの事を少しでも思いやったりしたなんて……も、もう忘れよう……忘れ去ってしまおう……。
「あの、ブチョー?」
「ごめんね、鉄砲塚さん。少しだけ静かにしておいて。あなたの声聞くと、とても哀しい思い出を、忘却の彼方へ追いやれないから………」
横になって身を屈め、忘れよう忘れよう……と呪文を詠唱するように繰り返す。
……それにしても静かね……静かにしてって言ったのは私だけど……発情期の野良猫と張り合っても打ち勝つような騒々しい子が……。
鉄砲塚さんの様子が気になり、布団を少し捲ってこっそり覗いてみる。私の目に飛び込んできた彼女はというと、部屋の隅に何やらしゃがみこんでて。
「!!!て、鉄砲塚さん!!な、なんで勝手にクローゼット開けて私の下着漁ってるの!!??」
「えー、だってカノジョの下着のチェックするのも恋人のギムじゃないですかー」
「ど、どこの世界の恋人の義務よ!!何!?ベランダでかち合っちゃった梯子に登った下着泥棒と被害者は、ロミオとジュリエットだとでもいうの!?」
「ブチョー上手いこと言いますねー。あ、苺ぱんつハッケーン!」
「人の話を聞きなさい!!」
足を通す穴にあやとりのように指を差し入れ、顔の前で、みょんみょん、とパンツを伸び縮みさせて遊ぶ鉄砲塚さん。
私はベッドから飛び降り、その手からお気に入りの一枚を救い出すと、彼女の前に回り込んで、開かれていたクローゼットの扉を背中で閉める。
ゼェハァと息を切らし、頬を紅潮させた私を見て、鉄砲塚さんが慌てた口調で言った。
「ブチョー!寝てなきゃ!!」
「寝てられないわよ!!!と、とりあえずもうクローゼット開けるのは禁止です!!」
「それじゃ恋人のギムが果たせないじゃないですかー。つかブチョー、お子様ぱんつしか持ってないんですね」
「おこ……と、とにかく、そんな義務は果たさなくて結構です!!頼みますから大人しくしてて!!!」
きつく言い放ち、ヨロヨロとベッドへと戻る。……やだ……何か本当に具合いが悪くなってきたわ……。
壁を向く形で横になり、再び布団に潜り込んだ私の耳に、スル……シュル……という衣擦れの音が入ってくる。もう……何よ今度は……お願いだからソッとしておいて……。
もう後ろは振り向くまい、と決意したというのに、背後から布団を捲る気配と、ギシ……とベッドのマットが軽くきしむ感触。それに続いて温かい物が押し付けられて……。
「な、何!?」
心に決めた誓いを早くも破り、ギョッとして振り返った先には、超至近距離……ううん、ほぼ零距離で鉄砲塚さんの顔があった。
わ!!と驚いてベッドに肘を付き、上半身を起こす。その視界の端に映る部屋の床には、ぬ、脱ぎ捨てられた制服とスカートが……こ、これって……まさか……だよね……。
私は恐る恐る、布団に首まで入った鉄砲塚さんに質問する。せ、背中を伝う汗が冷たい……。
「……て、てて鉄砲塚さん……こ、この状況は……ど、どういう事かな?」
「どうって……恋人として、具合の悪いブチョーにしてあげられる事は添い寝くらいかな、って思ったんですケド?」
「そ、そうなんだ……、ひゃ、百、ううん、億歩譲ってそれはいいわ……で、そ、その……なんで服を……その……」
「……だって……あたしがギムを果たしちゃダメ、ってブチョーが言うから……」
「か…ら……?」
「ブチョーに果たしてもらおうと思って……」
そっと自ら掛けられた布団を捲る鉄砲塚さん。
羞恥の為か、いつも健康的な色の肌はうっすらと赤く染まり、汗で濡れ光って、少女とは思えない色香を放っている。
豊かで柔らかそうな乳房は、仰向けになっているというのに、尚重力に逆らうかのように形を保ってて。
ちょん、と筆先でつけたような、可愛らしいお臍を中央に置いた、細くくびれたウェスト。
そこから続く、緩やかなカーブを描いた太ももは、太くもない細くもない、程よい肉付き。けれど足先に向かうにつれ、絞って行くかのように細く、しなやかなものへと変化していく。
お、同じ女の子の私が見ても、嫉妬するどころか、余りにも扇情的すぎてクラクラしそう。心臓もバクバクという高鳴りを隠せないでいるし……。
そして、鉄砲塚さんの、身に纏ったただ二枚の衣類であるところの、そ、その……ブラとショーツは……。
「て、鉄砲塚さん……いつも、こ、こんなやらしいの制服の下に付けてたんだ……」
「……ブチョーに見せようと思って……今日はトクベツです」
可愛らしいフリルの付いた真紅の下着。だ、だけど、ブラもショーツも、一番大事な部分とサイドなどの繋ぎ目以外はほぼ透けてて……。
こ、これってもしかして、う、噂で聞くところの……と、都市伝説と思っていたあ、あの……。
しょ、しょ、勝負下着様!!
思わずゴクリ、と喉を鳴らしてしまう。
まるでその音が聞こえたかのように、私から少しだけ顔を逸らす鉄砲塚さん。そこには、いつも大胆な彼女とは思えないほどに初々しく、恥ずかしそうな表情が浮かんでいる。
チラッと私に視線を走らせ、彼女は甘えた子猫のような声で呟いた。
「―――ここからは、ブチョーが脱がしてくれても……いいんですケド……?」
その言葉にまるで魅入られたかのように、私の両手が震えながらも彼女のブラジャーのフロントホックに―――。
ん?わ、私何やってるのよ!!!
ハッと我に帰ると、すんでの所で思いとどまり、その両手で彼女をベッドから突き落とす!
「ぬぬぬ脱がさないわよ!!むしろ着なさい!!」
ドスン、と床へ尻餅をついた彼女を見ないようにしながら(多分その……え、M字開脚になってるだろうから)、私は煩悩を打ち払うように、大声で言った。
その私の声に、煩悩の塊であるところの、否、むしろ煩悩そのものである鉄砲塚さんの、不満そうな声が返ってくる。
「イタタタタ……ひ、ヒドイじゃないですか、ブチョー」
「う、うるさい!いいから早く服を着なさいって言ってるの!!」
「あたしが自分で脱いでも良かった所を、一番美味しいとこ残しといてあげたのに……」
「なんかもう、下着を見るのが恋人の義務とか関係ないよね、それ!?しかもその義務に関してもまだ釈然としないし!!」
「つか、その先に進むのはもっと大事な恋人のギムですよ。昨日買っておいたセーリョク剤もある事だし、ちょい待ってて下さいね、今ブラ外し―――」
「お願いだからやめなさいってば!!」
ベッドを降りて、制服を着せようとする私と、下着を脱ごうとする鉄砲塚さん。
ギャーギャー騒ぎながらもつれ合ううちに、いつの間にか、お、おかしな体勢に……。ちょ……ちょっと、こ、これじゃなんだか私が――――!!
その刹那、コンコン、と部屋のドアがノックされ、返事を待たずに開かれた。
「おねーちゃん、お母さんが、お友達に紅茶とコーヒーどっちがいいか聞いて……って………」
おそらく、だ―――こんな状況でありながらも、私の明晰な頭脳は冷静に分析する。
早苗の目には、下着姿で仰向けになっている鉄砲塚さんと、彼女に馬乗りになって、パジャマをはだけさせ、汗まみれで制服を着せようとしている私の姿は、決して真実通りには映らないだろう。
悲しいけれど、真実とは常にそういうものなのだ。第三者の目によって、いとも容易く捻じ曲げられてしまうもの。そう、それが真実。
それでも―――と私はわずかな期待を込めて妹を見る。それでも早苗なら、早苗だったらお姉ちゃんを信じてくれるよね……?二人っきりの姉妹だもん―――!!
私の悲痛な思いを知ってか知らずか、一瞬の間をおいて、早苗が大きく息を吸い込んだ。
「お母さーん!!おねーちゃんが女の子に変な事してる――――――!!!」
その声は無情にも、我が家のみならず、近所中に響き渡ったのだった。
「―――という訳で、香坂部長は、あたしが疲れているという事をお話したら、ご自身の体調が優れないにも関わらず、マッサージを申し出て下さったのです」
お茶の間で、ちゃぶ台を挟んだ私の母の前にきちんと正座して話している少女。だ、誰よあなた……。
「どうやら部長の妹さんにはおかしな誤解を与えてしまったようなのですが……それに関しては、頭を下げるより他はありません。ですが、決してやましい事など一切無かったということだけは信じていただけないでしょうか?」
「あなたみたいなしっかりした子がそう言うなら、間違いなさそうね」
うんうん、としきりに頷くお母さん。く……騙されてるって今にも叫び出したい……や、やましい事しようとしてたのは、お母さんの前に座る、その品行方正ぶってる女の子なのよ!?
かと言って、まさかそんな事を言う訳にも行かず、私はただ、苦虫を噛み潰したような顔を隠すように俯いているだけ。
鉄砲塚さんは床に手を付いてお母さんに深々とお辞儀をした後、頭を上げると隣に正座する私を見た。
「良かったですね、香坂部長。お母様の誤解も解けたようです。あたしも心からホッとしました。こんなつまらない事で、お母様の部長への評価に傷が付いては偲びないですから」
「う……そ、そうね……ほ、本当に良かった……」
元はといえば鉄砲塚さんのせいなのに―――!!
しかもこんな時ばっかりスラスラと流暢に喋っちゃって……!!いつもの片言っぽい喋りは何だったのよ!!
「ほら、史緒からも沙弥さんにお礼を言いなさい。まったく、こんな立派な後輩の子がいて、先輩のあんたがお礼の一つも言えなくてどうするの?」
「くく……あ、ありがとうね……て、鉄砲塚さん……」
「お礼なんて……あたしは当然の事をしたまでですから」
引きつった笑顔でお礼を言う私に、ニッコリ微笑み返す鉄砲塚さん。いつも猫っぽいけど、この子が本気で猫を被るとこうなるの?……ううん、猫を被るとかもうそういう次元じゃないわ……なんというか、これは彼女自身が―――。
私達を見ていたお母さんは、鉄砲塚さんにお辞儀を返すと、恐ろしい事を口にする。
「沙弥さん、これからも史緒を宜しくね?いつでも遊びに来てちょうだい」
「ありがとう御座います、お母様。図々しいようですが、お言葉に甘えさせていただいて、ちょくちょく顔を出させていただきます。こちらこそ香坂部長とは――――」
鉄砲塚さんの横顔、その口元に、ちょっとだけ、いつものやらしい笑みが浮かんだ……気がした。
「――――いつまでもいつまでも、末永く『お付き合い』して、『イタダキマス』ので」
鉄砲塚さん言うところの『お付き合い』は、多分その……違う意味の『お付き合い』だよね?……あ、あと、私の嫌な予想が当たってるなら、い、『イタダキマス』のニュアンスも……。
またしてもクラクラと眩暈を感じながら、私は心の中で、思い切り叫んでいた。
こ、こ、こここここ……!!!
この化け猫おおおおおおお―――――!!!
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