田中祐樹の非日常

古月湖

第一章

大事な大事な第一話

 ある日のことだ。


「ほい、田中」

「うわあ......」


 俺は返却された数学の答案用紙にでかでかと書かれた数字を見て、思わず声をこぼした。


 一度席に戻り、何度か瞬きをしてからもう一度見てみる。

 ......おかしい、変わらない。

 目をこすってみても、やっぱり変わらない。

 先に渡された模範解答と見比べてみても、うん、間違ってるわこれ。


 記号問題をことごとく間違え、まず二十点。

 証明の穴埋め問題も初めのほうで間違い、ドミノ式に不正解。これは二十三点。

 三問ある文章問題はすべて途中式の計算がずれ、ほんの少しの部分点のみ。三十点。

 そして最後は証明問題。二つあるうち、ともに部分点のみ。


 すべての減点を足して八十三点。

 これを百から引いて残った差が俺の点というわけだ。

 ......。

 勉強したはずなんだけどなあ......。


「いやー今回のは平均低そうだなー。祐樹は何点だった――って、あれ」


 シャーペンを分解して現実逃避していると、上から爽やかな男の声が降ってきた。

 顔を上げれば、いつもより数段まぶしい友人のイケメンフェイスが待っている。


京介きょうすけ、そっとしといてくれ......」

「めずらしい。そんな低かったの?」


 それはもう、進級が危ういくらいだったとも。


「数学けっこう勉強してなかったっけ?」

「した」

「それで、結局何点?」

「ん」

「えっと......うわあ」

「えーなになに? って、うわあ......」


 京介に覆いかぶさるようにして、毛先が柔らかくカールした、ミディアムロングで茶髪の女子も答案を覗いてきた。


「見せもんじゃねえ。返せ」

「あっ。もうちょっと見してよ」

「やだね」

「小学校からの仲じゃーん!」

「それとこれとは関係ないだろ」

「ケチ」


 茶髪の女はプクっとほほを膨らませた。


「結衣ちゃん、今はそっとしといてやってよ。祐樹、結構キてるみたいだし」

「あ。まあ頑張ってたしねー」

「うん。ほら、席戻って。解説始まるよ」

「はーい」


 茶髪の女、斎藤結衣さいとうゆいが席に戻ると同時に、教壇に立つヅラの教師が解説を始めた。

 問題用紙を出せとか何とか言ってるが、あいにく今日は忘れた。どうせ持ってても、解説を受ける気力なんて残っていなかった。


「(まじかあ......)」


 わたくし田中祐樹たなかゆうき、留年の危機である。


 ***


 およそ四十分後、ようやくチャイムが鳴り、数学教師と入れ替わるように担任の山崎が入ってきた。


「連絡事項は以上だ。ハイじゃ、日直号令」


 山崎が声をかけると日直が間延びした号令をかける。

 それが終わると、すぐさま隣の席の京介と目が合った。


「祐樹、部活は?」

「......行くよ。もう期末頑張ればいいだけだし」

「そっか。じゃ、オレは先行ってるから、結衣ちゃんとゆっくり来なよ」

「はあ?」


 おい、と声をかける暇もなく、京介は教室を出ていった。そしてその代わりのように茶髪の女がやってくる。


「ゆうき行こー」

「......」

「? 今日休むの?」

「いや行くけど」

「なんだ。じゃあ、早くー」


 腕を引かれ、無理やり歩かされる。


「もー、テストの点一つでこんななっちゃってー。メンタル弱い男はモテないよ?」

「モテんでいい、別に」

「そこに『あたし以外には』って注意書きが入るの、あたしは知ってるんだからねー」

「......」

「あれ、図星だった?」

「うっせ」


 立ち止まった結衣の腕を振り払い、早歩きでパソコン部の部室に向かう。

 後ろから声が飛んでくるが、知ったこっちゃない。なーにが『夕飯抜きだよ』だ。お前料理できないだろ。

 一つ階段を上り五階にたどり着く。そこから部室まではすぐだ。


「まってよー。図星つかれて恥ずかしいのはわかるけどさー」

「つかれとらんわ!」

「うわ、逆ギレ。鉄分足りてないんじゃない?」


 昨日の夕飯はレバニラ。昼にはホウレンソウのおひたしが入っていた。

 つまりこの怒りは鉄分を貫通していることになる。

 マジかよ俺。ホウレンソウ食ってなかったらどうなってたんだ......。

 怒り狂って椅子とか投げたりしていたかもしれない。


 と、冗談はさておき、俺は走って廊下の角を曲がり、部室である『パソコン準備室』の札のかけられた教室のドアを開けた。

するとそこでは先に行くと言っていた京介と、もう一人、黒髪ショートの女子生徒がべったりくっついていた。


「あ、よかった、祐樹。助かった」

「チッ」

「......」

「ほら京香きょうか、離れて」

「......京介が言うなら、しかたない」

「ふう......。いやー、グッドタイミングだったよー。もう少しで押し倒されるところだったー。さすがに学校ではまずいって言ったんだけどね」

「そ、そうか」


 その言い方ではまるで『学外でなら全然オッケー』ともとれるが、いや、多分本当にオッケーなのだろう。

何を隠そう京介とこの京香と呼ばれた女子は付き合っていたりする。

学内でこのカップルは有名で、ともに美男美女ということもあり、文化祭裏企画である『校内ベストカップル賞』を獲得していた。

 とはいえ、昨日まではべつにこんなにべっとりではなかったはずだが、なにかあったのだろうか。


「まあ、入りなよ――あれ、結衣ちゃんは?」

「あー、もう来るはず」


 廊下のほうを見てみると、ちょうど結衣がげっそりした顔でやってくるところだった。


「廊下は走るな......だって」

「運悪いな、おまえ」

「ゆうきのせいだ! バカ! 十七点!」

「おい!」


 結衣は怒った顔で俺を押しのけ部室に入っていった。

 ......ちくしょう。

 十七点とかはっきり言ってほしくなかった。こちとらまだ引きずってるんだよ。


「祐樹も、ほら」


 京介にうながされ俺も部室に入る。そしていつもの席、先に座っている結衣の隣の席に腰かけた。


 パソコンの電源を入れ起動まで少し待つ。

 ふと見てみれば、前の列に並んで座る京介と京香の間には楽し気な会話が繰り広げられている。

 対してこっちは。


「ふん」

「はあ」


 吐息で会話するレベルに二人の仲が熟達しているわけではない。普通に険悪なのだ。


 パソコンに、勝手に決められたパスワード、結衣の誕生日を打ち込む。

 しばし待機。

 と、ふいに前列の会話が途切れ、京香が後ろを振り向いた。


「どした」

「田中、これ、忘れ物」

「ん? あ、これ」

「数学の問題用紙」

「おお、ありがと。どこにあった?」

「部室におきっぱだった」


 家じゅう探してもないわけだ。


「それだけ」

「ん。どうも」


 この後はネットサーフィンでもして時間をつぶそうかと思っていたが、さすがにこれは復習せんとまずかろう。

 プラン変更。俺は数学の答案用紙を取り出した。


「十七点......」

「おい」

「べつに」

「......なんだよ」


 結衣はまたプクっとほおを膨らませながらパソコンの画面に目を戻した。

 なんなんだ。構いきれない。

 さて復習だ復習だ。

 と、思ったその時だった。


「ん?」

「祐樹、どうかした?」

「ああ、いや」

「......オレ的にはどうかしてたほうがいいんだけどな。――京香、ここでは、ちょっと」

「ねえ、昨日の、ちょうだい......」

「わー! 祐樹、どうかした!? どうかしたよね!? いまいく!」

「京介、いくの?」

「京香、その話は今晩家に帰ってからにして! ほんと!」

「......わかった」

「はあ、はあ......。何とかなった......。――それでどうかした?」


 京介は乱れた服装を整えることなく肩で息をしている。

 京香が椅子に座りなおすと、京介の肩がびくっと反応した。

 ......。


「まあ、なんだ。そっちにもそっちの事情があるんだな」

「うん、まあ、ね。あんまり突っ込んでもらえないでくれると嬉しいな」

「お、おう......」


 京介は疲れた顔で俺の後ろに回ってくる。

 いま一度俺の点数を目の当たりにし、ほんの少し息をつめたのが分かった。

 うーん。きついなあ。


「それで、なにかあった?」

「えっと、それなんだけど、この問題見てくれ」


 俺は大問一の四択問題を指し示す。公式の穴埋めや、ちょっとした語彙テストなどの小さな問題の集まった、いわば点を取るための問題だ。


 しかし俺はそこで一点も取れていなかった。はじめは普通に間違って暗記しているものと思っていたのだが、


「ほらここ、問題用紙には『一』に印がつけてあるのに、答案用紙にはなんでか『二』って書いてあるんだよ」

「あ、ほんとだ。見直ししなかったの?」


 いや、くまなくした。時間も五分くらい余ったので入念にチェックしたはずだ。


「あれ、ここの大問、全部それで間違えてるんじゃない?」

「は?」

「ほら、二番も問題用紙には『四』に印がついてるのに答案には『一』、三番も、四番も」

「ほ、ほんとだ......」

「ゆうき、全然集中してなかったんじゃないのー?」


 となりの結衣もさすがに気になったのか答案と問題用紙を見て口をはさんできた。京香も京介の後ろから覆いかぶさるようにして参戦。


「......田中、『一』って書いてみて」

「? いいけど」


 京介の肩越しに京香に言われ書いてみる。


「ほら」

「......うん。やっぱり」

「なにが?」

「これ見てわからない?」


 京香はいま俺の書いた『一』と、答案用紙にある『一』を二つ並べた。


「......あ」


 少しすると、結衣が突然声を漏らした。


「なんだ、急に」

「え、えっと。なんていうのかな」

「なんていうか?」

「うん......。えっとね――」


 結衣はそっと、答案用紙のほうの『一』を指さすと、


「こっちの『一』、右のほうから左のほうに書かれてる、と思う......」

「? 俺は普通に左から右に向かって書くけど」

「いや、結衣の言う通り。この『一』は間違いなく右から左に書かれてる。多分左利きの人が書いたもの」

「祐樹は右利きだよね?」


 中学の頃は『サウスポー』の響きにあこがれて左利きを練習したものだが、結局すぐにやめた。

 田中祐樹は生粋の右利きである。


「そうだぞ」

「うん、つまりこの答案用紙に書かれてる『一』は――」


 京香は京介の背中に抱き着きつつ、言った。


「田中以外の何者かが書いた可能性が非常に高い」


 瞬間、京香を除く三人の中に衝撃が走る。

 この中に左利きはいない。そしてあのヅラ教師も、いつもチョークを持っている手は右手だ。

 つまり、京香の言うことは、


「事件のにおいがする」

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