人の気持ちがわかる草

@kamometarou

人の気持ちがわかる草

(新井尚也)

 ここは、新宿区のとある分譲マンションの一室。ガラス張りになった壁から大通りを見下ろすと、狭い歩道を急ぎ足で行くサラリーマンたちの姿がとても小さく思える。僕は、壁際に置いてある観葉植物に、屈んでこう言った。

「おい、ケンジ、水やるぞ」

 この植物は、クワズイモという種類の草本植物だが、こいつを僕は日頃から可愛がっていた。僕がこのように声を掛けると、ケンジは少し葉っぱを揺らすような気がする。人間の言葉はわからないだろうが、きっと、こいつは人間の気持ちがわかる。

 植物というのは、いわば、この星の支配者だ。総重量でいえば、人間など植物には到底敵わない。また、植物の歴史は、人間の歴史とは比べものにならないほど長い。きっと、人間には想像もつかない、未知の力をこいつらは持っている。植物には、底知れない、奥深い魅力がある。人間は、植物に脱帽するべきだ。

 ホームセンターでこいつを買ったときから、僕はこいつのことを「ケンジ」と呼んでいる。理由は特にない。ただ、直感的にこいつには「ケンジ」という名前が似合っていると思った。

 ケンジにじょうろで水をやっていると、光沢のある黒のストライプが斜めに入ったスーツを着たまさが、家を出ようと玄関へ慌ただしく向かう音がした。

「まさ、行くのか」

「うん。兄ちゃん、今朝お願いした書類、よろしくね、明後日までに不動産屋に提出しなきゃならないから」

 弟は、新宿区内にある不動産を経営していた。一年前に僕が車椅子生活になってから、僕は弟の住むこのアパートに住まわせてもらい、弟に生活費も出してもらっていた。その手前、弟の仕事を一部手伝っていた。

 仕事を任されるのは、悪い気はしなかった。しっかりやり遂げよう、その意気込みで、さっそくテーブルに向かい書類を広げた。


 *


 壁際に立って外の景観を眺めると、林立するマンションの明かりが夜の闇に浮かび上がり、幻想的な夜景がそこには広がっていた。僕は、こわばる顔を動かし、テーブルの上に視線を戻した。俯き加減で、まさにこう言った。

「まさ、ごめん、精一杯取り組もうとしたんだけど、集中が途切れちゃって、結局書類完成させられなかった」

「ああ、書類? いいよ、まだ明日もあるし」

 まさは、僕を咎めなかった。集中できない。これは、周りからの評価が下がる、僕の大きな欠点だった。自分では、怠けようとしているつもりはない。でも、社会はそんな僕を「だらしない人間」として烙印を押す。僕自身、それに異議はなかった。僕は、どうしようもない人間だ。この世界から消えて楽になりたい気持ちが、心の奥底からじわじわと滲み始める。

まさが理解してくれていることが、唯一の救いだった。


(新井昌也)

 翌日、俺が仕事から帰ってくると、またテーブルの前で、兄が俯いて座っていた。テーブルの上に広がった書類を見て、何があったのか察しがついた。兄は、書類を完成させられなかったのだ。

「まさ」

「兄ちゃん、書類、できなかったんか。まあ、今日これから一緒にやれば、まだ明日には間に合うよ」

 兄が書類を完成させられなかったことに、驚きはしなかった。想定内のことだった。裏を返せば、それは兄のことを信頼していないということになるのかもしれないけれど、理解していることにもなるという側面もまた否めない。

 兄は、物事の見通しを立てるのが苦手だった。与えられた仕事を、期限までの期間に、計画性をもって取り組むこと、これが思うようにできないのだ。明らかに間に合わないような状況下でも、仕事に取り組む必要性を自覚できず、危機感を持てなかったりする。

 テーブルの下に転がっているゲーム機からして、今までの時間は、ゲームをしてしまっていたのだろう。単調な作業を根気強く続けることも苦手だった。

 彼は、考えが独創的で、普通の人が考えないようなことを頭のなかで考えていたりする。そんな魅力があるいっぽうで、社会では、周りから好意的な評価を受けられない場合が多い。

 そんな彼の苦しみを、一番近くにいる俺は理解する必要がある。死にたいくらい、辛い気持ち。俺は、彼に死んで欲しくない。

 兄は、他人への心配りなどは苦手だが、素直で、先に述べたように発想力が豊かだった。兄ちゃんは、人を楽しませる才能をもってる。何より、表裏のない性格は、人間らしく、好意的に感じる部分だ。


 *


「一緒に書類を書こう」

 兄とそう約束した時間になっても、兄はなかなかリビングに顔を出さなかった。時間もないので、俺は先に作業を進めることにした。先刻、兄は、まんが本の整理をしていた。ひょとすると、書類作成の約束を忘れてしまっているのかもしれない。それも特性のひとつだ。

 まんが本の整理には、いつもかなりの時間がかかっていた。彼なりの強いこだわりがあるようで、少しでも配置がずれると、体の一部が動かなくなったような不快感があるらしい。

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