第9話 理由なき決別

 この章では、思春期時代の男女の別れについてご紹介する。


 主人公は、若くして、うつ病を患った1人の女子大生である。


 「うつ病」については、この小説で度々言及したところではあるが、昭和後期、「うつ病」という病気は、脳内ホルモンの病気として広く周知はされておらず、なんらかのショッキングな事象、又は幼い頃の虐待等のトラウマ、更には遺伝的要因が関連するとは、世間一般には知られてなかった。


 「動けない」、「働けない」、「学校に行けない」といった社会活動を致し方なく頓挫した者、医学的には脳内ホルモンのセロトリンの分泌量に異常を来たし、そのような行動制限が生じたのにも拘らず、「怠け者」、「物臭者」、「メンタル弱者」と非難され、非社会的な人間として、お荷物的な見識が世論の中に介在していた。

 それは、今尚、完全には払拭されてないことも追記しておく。


 急な環境の変化等により、大学1年でうつ病を発症した『浜辺南』には、高校時代からの恋人『富丘義勇』がいた。


 南は義勇の事が好きで好きで、どうしようもなく好きで仕方なかった。


 そんなに義勇の何処が好きかと友達に聞かれても、いつも月並みの「全てが好き」としか答えなかった。

 本当のことだった。自分が死んでも良いくらい義勇のことが好きであった。


 最初の義勇とのデートも緊張のあまり、笑顔が引き攣り、何をどう話したのか、記憶がないばかりか、兎に角、義勇に嫌われたくなかったので、何事もなく、ドジを踏まず、義勇との初デートを終えたい一心であった。


 ずっと義勇の側に居たい気持ちと、義勇に僅かでも嫌に思われることを避けたい気持ちが複雑に交差し、なんとも言い難い、初デートであった。


 そんな義勇を一途に思い続けた南にとって、手紙で自身の本当の愛の気持ちを伝えることが、何よりも楽しかった。


 文を送る度に、自分と義勇の感性が同じであることに、この上ない喜びを南は感じていた。


 また、デートを重ねることに、義勇も南と同じように、南に嫌われたくないと言う気持ちが、自然に南に伝わってきた。


 2人は単なる大学生カップルとして、一定の時間を共に過ごすことだけとは考えておらず、その先の、ずっとその先の、永遠の伴侶として今世を共に歩むことを、お互い、早期に意識していた。

 それほどまで、単純なデートからは想像できない深い絆で結ばれていたのだ。


 そんなある日、南は、原因不明の倦怠感を生じるようになった。その症状は日に日に重くなり、大学に行くのも戦場に向かう戦士のような恐怖感に思えてきた。

 何をしても多幸感を持てず、義勇と逢う以外はアパートに引き篭もり、テレビも付けず、部屋の片隅に膝を抱え込み、首を垂れ、ブルブルと得体の知れない見えない恐怖と戦っていた。


 現代であれば、この小説で何度も記したように、心療内科を受診し、早期に投薬治療により脳内ホルモンのバランスを調整すれば、重度のうつ病を患うこともなかったであろう。


 大学の友達が南を心配してくれるのは良いが、このような医学的な知識のない者達は、小学生が不登校の子を迎えに行くようなものであり、その行為は、南にとって、ありがた迷惑どころか恐怖の何者でもなかった。


 両親も南が兎に角、大学4年間を無事卒業して欲しかったため、南を専門家に診せることはなく、今ではうつ病患者に禁句とされている「何とか頑張って、卒業して」と逆効果な励ましを行っていた。


 そんな南であったが、命より大事な義勇とのデートは、嬉しく楽しかった。

 義勇に嫌われまいと、自身の体調不良を隠し続け、身体のきつい中、必死に笑顔を作り、義勇の愛に応えようと一生懸命であった。


 しかし、病魔は非情であり、益々、南の脳内ホルモンのバランスを崩して行き、南は徐々に、義勇と逢う時以外は、食事もせず、入浴もせず、もちろん化粧もせす、美容院に行くこともなく、ファッションへの拘りも消え失せて行った。


 南は神を恨んだ。

 どうして、自分だけ、人生で女性として、一番輝ける時に、こんな試練を与えるのかと


 それからは、義勇とデートしていても、いつも、騙し騙し、着飾った自分のボロが義勇に察知されるのではないかと、そればかり考えるようになり、義勇と手を繋いでいる時さえ、自分の手荒れを気にし、落ち着いて、歩くことができないようになってしまった。


 南はいつも今の自分の姿を縦鏡で確認するようになったが、側から見ると、もともと美貌であった南の変化に気付く者は居なく、義勇さえも全く気付かなかった。


 しかし、南自身は気付いていた。

 現状維持は、これ以上、堅持することはできないと。

 南は義勇のため、もっと、もっと、綺麗に成長する自分を表出したかったのだ。

 それが、最早、現状の重いうつ病により、そのエネルギーが、瞬く間に、消え失せて行くのを感じ至ってしまった。


 乙女心と言うより、義勇と共に歩む未来計画が崩壊したと感じた南は、うつ病の特有である、被害妄想、孤立感、判断能力の欠如、そして、人生を左右する決断への早期決着に死を急ぐ蜻蛉の如く、先を急いでしまった。


 これ以上、無様な自分自身を義勇に見られたくない、こんな堕落した生活を義勇に知られるぐらいであれば、今、まだ、綺麗な内に義勇と別れることを決断してしまった。


 好き過ぎた相手に対し、少しでも嫌らわれたくないと言う、自己解釈、

 それは、うつ病患者である南にとっては、仕方のない決断であり、早く決着をつけたい、楽になりたいという気持ちが、他の選択肢を寄せ付けようとはしなかった。

 義勇への相談、話し合い、それは、最大の試練に思え、そんなエネルギーは、今の南には持ち得ず、理由なき別れにより、義勇がどう思うか、悩むか、苦しむか、そこまで考えることは不可能であった。


 別れの日、とある喫茶店、南は義勇の質問が全く耳に入って来なかった。

 理由など言えるはずはないと、口に鍵付きのチャックをしたように、ずっと下を向き、義勇の言う、ファイナルアンサーをひたすら待ち続けた。


 その時が来た。義勇の口から、「別れよう」と言葉が発せられた。


 南はこれで楽になったと思ったら瞬間、予想だにしない哀愁に包まれた。


 義勇は何も言わず、立ち去って行った。


 喫茶店に取り残された南は、感情そのものを失くすことに努め、家路に向かった。


 南は、アパートに帰り着くと、この先、どうなるのか、後悔するのかなど、考えることを放棄するかのように、布団にくるまり、「カチカチ」と嫌味のように時を進む目覚まし時計の長針を見つめながら、全てのエネルギーを使い果たした灯油ストーブが消えて行く様に、頬の赤らみは青く冷たくなり、脳は決して眠らないと分かった上で、鋼鉄の瞼をゆっくりと下に下ろした。


 今の高度な医学、情報手段、そんなものがない時代、寿命を削る思いで、「別れ」と言う重い決着を遂行した恋人がどれほどいたのだろうか。


 その時代にも現代とは違う良さがあったはずである。

 「昔は良かった」と言う言葉をよく聞くが、それは全ての者では決してない。


 今を羨む者


 その時代に生まれた運命


 どうしようもない


 今、後悔しても何にもならない。


 仕方がなかったんだ。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る