黒狐雑貨店~フシギな縁、お売りします~
工藤 流優空
霧の向こうに
「本当の、あなたを探しに行きませんか」
そう突然見知らぬ人に話しかけられた。その事実だけを聞いたならきっと、みんな口をそろえて答えるだろう。
「新手の詐欺か勧誘だろうね。引っかかる人がいたら見てみたい」
でもその時の私は、至極まともに物事を考えられる状況じゃなかった。何しろ、これからどうやって生きていくべきなのか、何をすべきなのか、何もかもを見失ってしまっていたから。
三年間無遅刻無欠勤で勤め上げた会社を退職することを決めたその日に、退職届を書きあげ上司に提出。上司の言葉は、たった一言。
「他にお前なんかを使ってくれる場所があるといいな」
常日頃彼には言われてきた。
「お前なんか、他の会社では雇ってもらえない人材だ」
「こんな仕事、誰でもお前の半分の時間でできる」
「お前の代わりなんていくらでもいる。もっといい人材が回収できる」
彼の言っていることは大方間違っていないのだろうと思ってきたし、どうせ自分を必要としてくれる場所なんてないと分かっていた。
それでも。それでも、心の奥底で、本心が叫んでいた。
『自分を本当に必要としてくれる場所を探したい。きっとあるはずだ』
でも同時に感じてもいた。どんくさくて、天然で、空気を読むのが苦手で。仕事以外でコミュニケーションをとるのが不得意な私。自分に自信がなくて、何でも時間がかかる割に丁寧でも何でもない仕事をする私。そんな私を必要としてくれる場所などないんだと。
だから、退職届が受理されてしまった時、私はとんでもないことをしてしまったような気がした。この会社以外で私を雇ってくれる場所なんてない。たちどころに私は路頭に迷うことになるだろう。そうなったら、どうする。
無職の私は、今以上に価値のない人間になる。親にどう話そう。そう考えたらそのまま家に帰る気にはなれなかった。車を止め、真夜中の公園のベンチに座り込んだ。そこで頭を抱えて悩んでいる時だった。
背後に気配を感じて、振り返ればそこには笑顔の青年が立っていた。ぞっとした。夜に、見知らぬ男性と遭遇したからというのも一つの理由。でも、それだけじゃなかった。
『この人はが、私とは違う世界の人間なんじゃないか』
そんなことを想起させる何かをまとっていたからだ。
彼自身は、とても整った顔立ちをしていた。おそらく昼間街中を歩こうものなら、道行く女性たちがことごとく振り返る。そんな出で立ち。月夜に反射する銀髪は、幻想的にきらめいていた。でも本能的に感じていた。この人に関わってはいけないと。けれど不思議と、彼から距離を取ろうという気にはなれなかった。
「あなたに、提案があって参りました。……本当のあなたを探しに行きませんか」
その声はなぜか、私の心に直接響いてくるような感覚があった。
「あなたを認めてくれる場所、あなたを受け入れてくれる場所へ案内しますよ」
こんな私を受け入れ、認めてくれる場所が本当にあるのなら、行ってみたい。誰かの役に立って、『あなたじゃなきゃだめ』と言ってもらえる場所。
一瞬、男の人の差し出した手を取りかけた。その時、鞄につけていた鈴の音が響いた。その瞬間、はっと我に返る。
見ず知らずの人が、見ず知らずの人間にそんな場所を紹介してくれるはずがない。私、何バカなことを考えていたんだろう。不信感を持ってもう一度彼を見る。すると彼の浮かべる笑顔は、まるでお面のように張り付いて離れないものに見えた。
思わずベンチから立ち上がり、後ずさる。すると笑顔だった青年から笑顔が消えた。すっと見開かれた瞳は、銀色に光っている。
「おやおや。人間の女性に、そのような行動をとられたのは初めてです。興味深い」
くすくすと笑うその声にさえ、ぞわりと背筋が凍った。
「見ず知らずの人に提案されたものに、応じる気はありません」
そう答える。彼は不思議そうな顔をした。
「……心外ですねぇ。僕の誘いに頷かなかった人は、いないのですが」
「それじゃ、私が記念すべき一人目ですね。おめでとうございます」
思わず、そんな言葉がこぼれ出た。それでなくても今日は心が折れかけている。心を休めに公園に寄ったのにこれじゃ、余計に疲れを蓄積させただけだ。
「失礼します」
そう言って、その場を立ち去りかけたその時だった。私は周りの異変に初めて気づいた。
周りは、濃い霧に覆われたかのように真っ白だった。五歩先に何があるかも見えない。見慣れた公園の風景が一変していた。
振り返ると、やはり変わらず彼は笑っていた。
「お気づきになられましたか? 少々手荒なマネになることは申し訳ないですが。ここから出るには、こちらの条件を飲んで頂く必要があります」
「条件……?」
霧が一層濃くなっている気がした。そして彼の顔は、目の前にある。
「貴女には、僕が天狐になるための手伝いをして頂きます」
「天……狐……」
私が首をかしげると、彼は得意げな声で言う。
「狐には、ランクがあるのですよ。僕こそ、天狐にふさわしい」
そう言って前髪をかきあげる。きっとこの仕草だけで、何十人もの女性のハートを射止めることができるんだろう。
「野狐、気狐、空狐、天狐。それが、妖狐の位の分け方です。僕は、その最上位の位になることを望んでいます」
妖狐。それは、霊力を持った狐のこと。そう何かの本で読んだ。目の前のこの男は、その妖狐の中でも最高ランクの位につきたがっている。つまり彼は、狐だということだ。こういった類の人間には関わらないに限る。彼が言う事が本当だろうが、嘘だろうが、関係ない。
「そういったことは、ご自分の力でなさるのがよいかと……」
私がそう答えると、彼から再び笑顔が消えた。
「人ならざる者に対し、恐れをなさずに進言する。その心意気は、賞賛に値するのでしょう。しかし、僕の下僕にはふさわしくない」
その表情はぞっとするほど冷徹なものだった。私は自ら踏んではいけない地雷を踏んだのだと理解する。
あわてて彼から距離を取るために走り出す。けれども周りは相変わらず真っ白で、何も見えない。どこへ走ろうとも、ただ白い霧が続くばかりなんじゃないかと不安になる。
「無駄ですよ。ここには、誰も入ってこられない」
後ろから声が響いてくる。その言葉を耳にした時、死という言葉が頭をよぎった。それと同時に後悔の念が押し寄せる。
ああ、もっと胸を張って自分の夢を語っていればよかった。まだ私は何者にもなれていない。こんな自分のまま死ぬのは嫌だ。
そう走りながら思っていた時だった。突然霧が晴れた。そして、真っ暗な商店街に出る。見たこともない場所。店の明かりはどこもついておらず、シャッターが下りている。
せっかく霧から抜け出すことには成功できたのに。それでも足は止めない。
「……どういうことでしょう。霧が消された……」
後ろからの声音に、動揺の色が見て取れるから。相手にとってもこれは予想外の事態だったに違いない。だとすれば、助かるかもしれない。そう思ったから。
苦しい。最近、まともに走ったことがなかったから、寒空の中、ふくらはぎが今にもつってしまいそう。頑張れ、春風美鈴。今足がつれば、ゲームオーバーだ。
まるで時を止めたかのような、さび付いたアーケード。その隣にある、大きな鳩時計。私が通り過ぎた時、時を告げる大きな音が鳴り響いた。
その瞬間、見えた。一筋の光が。通り過ぎかけたシャッターの列の中。人一人が、体を横にしてようやく通れるくらいの狭い隙間。その先から、細くたなびく光が。
急いで体を空間に滑り込ませる。ここに挟まって動けなくなったら、それはそれでお笑い種だ。でも、そんなことを考えている余裕はない。とにかく今は、あの人から逃げ切ることだけ考えないと。
体をぐいぐいとねじこみ、狭い空間を抜けた先。そこには一軒のお店が立っていた。窓からこぼれ出る光は、優しく私を包み込む。まるで、よくここまで辿り着いたねと祝福してくれているかのよう。
後ろを振り返る。男性が追ってくる気配は感じられない。小さく息づくと、店の扉をそっと開いた。
カラン、と扉の上に取り付けられたベルが心地いい音を立てる。扉を閉めようとしたとき、冷たい風が一筋、入り込んできた。
思わず身震いした時、店の奥から声が聞こえてくる。
「……誰だ、こんな真夜中に悪意を連れこんだやつは」
声のした方を振り返った。そこには、青年が一人。年齢は、先ほどまで自分を追いかけてきていた青年と同じくらいに見えた。三十手前といったところだろう。ゆったりとロッキングチェアに腰かけたその青年もまた、眉目秀麗な顔立ちをしていた。ただ、その整った眉を不快そうにひそめているのだけが、残念ではあったけど。
彼は、片目にかかる黒い前髪を払いのけて、私をまっすぐ見た。その瞳の色を見て、私ははっとする。片方は月のように美しく仄かな薄い銀色の瞳。そして、もう一つは、チューブに入ったカラシをこぼしたかのような、オークル色。その目に見つめられた時、何もかも見透かされたような、そんな気がした。
「きれいな色……」
自然とため息とともに吐き出された言葉。それを聞いて、青年は首をかしげた。
「きれい……?」
その時、店の窓が風を受けてガタガタと鳴った。その様子を見て、彼は再び不機嫌な表情に戻る。
「……まったく。相当面倒な問題を持ち込んでくれたな、アンタ」
「へ?」
「アンタだろ、アイツを連れて来たの」
青年があごをしゃくる。その先を目で追って、ぎょっとする。窓の外には、あの男の人がいたから。
「商売の邪魔をされちゃ、たまらない。それでなくても、客足が遠のいてる」
冷たい声。私はその声から、彼の想いを読み取った。
「……すみません、すぐ出て行きますから」
助かったと思ったけど。見ず知らずの人に迷惑をかけるわけにはいかない。
「すみませんが、警察だけ呼んでください」
そう言って私は今しがた入ってきたばかりの扉のドアノブに手を伸ばす。
「……ちょっと待て」
背中越しに声がかかる。落ち着いた声。先ほどよりは、少しだけ温かみのある声。
「……本気か」
「出て行けって言ったじゃないですか」
振り返って言うと、黒髪の青年は首を横に振る。
「言ってない」
「客足が遠のいてるって言ったじゃないですか」
「でも、出て行けとは言ってない」
青年の言葉に、一応納得する。確かに、出て行けとは言われてない。だけど。
「顔にそう書いてあります」
その言葉に、彼は不機嫌そうな表情のまま、肩をすくめてみせる。
「……どうするべきか、悩んでいただけだ。さすがに、そこまで人でなしじゃない。まぁ、人ではないんだが」
「人じゃ……ない?」
私の言葉に、青年は不思議そうな顔をする。
「……アンタ、人間か?」
「何か問題でも?」
私が聞き返すと、彼は大きなため息と共に言葉をつむぐ。
「それで合点がいった。なるほど、アイツは人間のパートナーが欲しかったわけだ」
「あなたも、人間じゃないんですか」
それじゃあ、目の前にいるこの人も、窓に張り付いているあの人と、同類ってことだ。だとしたら、どちらの近くにいても、何も変わらないよね。
「俺もアイツも、妖狐だ。……いや。厳密には違うな」
そう言って、目の前にいる黒髪の青年は目を伏せた。
「あなたと僕を一緒にしないでいただきたいものです」
そう声がして私はぎょっとする。開けようとしていた扉が勝手に開いたから。あわてて、扉から距離を取る。
開いた扉の前には、先ほどの銀髪の青年が立っていた。ひどく気が立った様子で、まくしたてる。
「人間の血が入っているあなたをこの世界に住まわせる理由が分からない。さっさとその人を引き渡してください」
「そうは言ってもな。当の本人が嫌がっているのに、はいそうですかと引き渡すわけにはいかない」
その声は、冷静そのもの。ただ、少し警戒の色がみてとれる。しばらく、黒髪の青年と銀髪の青年の間に、重たい空気が流れた。そんな時。
「そもそもここは、人と人ならざる者が住む世界、それぞれの境界線にある場所だよねぇ? だったら場違いなのはむしろ、キミの方なんじゃなーい?」
空気に似合わぬのんびりした声が聞こえてきて、私を含めた三人の視線は、店の中心、私の隣に向けられる。いつの間にか私の隣に見知らぬ人が一人、増えていた。その人は、茶色に近い金色の髪をした少年だった。見た目は、中学生くらいに見える。こんな茶髪なのか金髪なのか分からない髪の色をしていて、学校で怒られないんだろうか、そんなどうでもいいことが頭の中をぐるぐる回る。
そもそも、どうしてこんなところに。どこから入り込んだんだろう。私の疑問をよそに、その少年は両腕を後ろに組んで意地悪そうな表情を浮かべる。
「そもそもぉ、これってー、ルール違反だよねぇ? 人間を本人の許可なくこの世界に連れて来たってことでしょー? 彼女が抵抗して、ここに逃げ込んだから、まだよかったけどぉ。本来だったらアウトだよねぇ?」
口調とは裏腹に、鋭い視線を銀髪の青年に向ける茶髪の青年。その視線に気おされるように、銀髪の青年はじりじりと後退する。
「仕方がありません。今日は一旦、退かせて頂きます」
そう言って彼は、身を翻して店から出て行った。
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