永劫回帰のその先に

あやん

永劫回帰のその先に

ムラサキ、聞いてた?と声をかけられて、私は嫌な予感がして振り向いた。


ムラサキ、というのは、私の呼び名だ。

このクラス、この教室のカーストの中で最高位の黒田あかりが、半年前に修学旅行の行動班を決める際に命名した。

黒田あかりは誰がみても可愛い。

睫毛は長くカールし、瞼には校則で禁止されているはずのピンクのラメがのっている。

すらっとした足を惜しげもなく出し、濡れたように真っ黒な髪を肩のあたりでなびかせ、いつも場の中心に立っている。


そのあかりがいつものようにクラスのまとめ役として教卓の前に立ち、よしょ、と教卓をどかして、班決めしまーす、と右手をあげるともれなく全員がそれに従った。

はーい、あかりーありがとねー、という相槌のようなものがそこらじゅうから聞こえた。

まるでそれを言わなければ直ちに空気が読めないやつのレッテルが貼られるかのように、みんなが口々に何かしらの肯定文を発していた。

あかりが自信たっぷりに、班決めの際にあぶれそうになったものどおしを集めて半ば強制的に班を決めた時、ムラサキはここね、とチョークで黒板を軽く叩いてピリオドを打った瞬間、私は村田紗希からムラサキになった。

じ、えんど、となんとなく心の中で呟いた。

あかりが言うことはクラスの決定事項であるから、私はもれなくクラスの全員からムラサキ、と認識されるようになったのである。


十二冠位、というものを知ったのはいつだっただろうか。中学の時の社会の授業だったと思う。紫というのは高貴な色で、冠位の中では上位のものがつける帽子であった。そして、黒が最下位のものがつける帽子であったはずだ。

私がムラサキなら黒田あかりはクロだ。

私はあかりにムラサキと呼ばれるたびに地面にぽっかりと穴が開いて、真っ逆さまに落ちていくような心持ちになる。

惨めになるじゃないか、と心の中で悪態をついたが表情には出さなかった。


ムラサキ、ねぇ聞いてる?

もう一度あかりに声をかけられて我に帰る。

うん、とだけ私は答えて何となく表情を和らげるように努力した。


「ムラサキってほんとぼーっとしてるよねぇ。

じゃ、あとよろしくね。」

ほとんど私の顔も見もしないであかりはひらひらと手を振って「しんゆう」のいるところに戻っていった。

ムラサキほんと助かるわぁ、という歓声に近い白々しい声が響いて、彼女たちはバタバタと教室を出た。


どこいく?スタバの新作行こうよ、あかりあの感じ好きでしょ絶対。

え、まじでわかる?さすが夏菜やっば。

でしょ。

というやり取りがかすかにぼやけて聞こえて、私は当たり前のように1人で教室の掃除をすることになっていた。

私は慣れた動作でまず1番に廊下側の窓を全部閉めた。先生に見つからないためである。見られたら惨めさが増す。

教室の机をひとつずつ丁寧に前に詰め、箒で隅々までゴミを集めモップをかける。

後方が綺麗になると今度は机を後ろに詰めて前方を同じ手順で綺麗にする。

あくまで掃除を完璧に終えることだけに集中して、心を動かさないようにする。

そうすれば、ダメージは最小限に抑えられる。

机を動かす際に、私のではないバカとかかれた机が目に止まり、心が傷んだ。

その机の主は今日は学校に来ていない。


たぶん、私はまだ、いじめられていると言うほどではないのだと思う。あの子と比べれば。

今まで面倒ごとを押し付けられることは度々あったが、靴を隠されたこともなければ、机の上にゴミを置かれたこともない。

あかりたちの仕打ちによって学校を休みたくなったことも、まだ、ない。

そういうことを担当しているのは、あの子だ。

この、バカ、と書かれた机を見つめる。

私はあの子を助けたこともないし、助けようとしたこともない。

そのことを考えると、私は苦しくてたまらなくなる。助けたら、代わりの人が必要になる。

私はそれがこわいのだ。


掃除を完璧にやり終えると、廊下側の窓を閉めたことをもう一度確認して、私はなんとなくあかりの机に向かった。

あかりの席に座ってみる。

あかりが見ている風景を見る。

ここから見る教室の中は、私の座っている席から見えるものとは違う。

たぶん、今日休んでいるあの子の席から見る教室も、全然違うのだろう。

そんなことを想像したことがあるのは、私と、あの子くらいかもしれない。


あの子は全然、バカじゃない。

本当は、だれよりもずっと高貴な存在だ。

私はあの子がとても優しいことを知っている。

目に見えるもので全てがはかられるなんて、不公平すぎる。

目の端に涙がじわりと滲むのを感じて、慌てて今日の晩ご飯はなんだろうか、と考える。

涙がうっすらと消えかけた頃、私はあかりの席からたちあがり、廊下側の窓は閉めたまま、反対側にある、外の景色が見える方の窓をひとつだけ開けた。


風が吹いた。その風に乗って、かすかに外界の音が聞こえた。

木々が揺れる音、放課後の運動部の掛け声、吹奏楽部のスケールの音、車の音、バイバーイという女子たちの楽しそうな声。

私は世界から切り離されたかのように、ひとり確かにそこに存在した。

急に自分がちっぽけなものになった気がして、目を伏せた。


永遠に、私はこのままだ。

あかりたちに仕返しすることもできないし、あの子を助けてあげることもできない。

なんてちっぽけな私なんだろう。

救いようがない。

悲しくて悲しくて、仕方がない。

いてもたってもいられず、教室の隅にうずくまり、この嵐が過ぎるのを耐える。

風に乗ってやってくる音が、いつもより少しだけあたたかい気がした。


私が立ち上がったとき、空はすでに赤から薄紫色に色を染めかえていた。


自分の鞄からシャーペンを取り出した。

あの子の席に向かう。

バカ、と書かれた文字の横に、本当に小さい文字で、じゃない、と書いた。

バカじゃない

ここに座った人にしか見えない文字だ。

これは私の自己満足でしかないし、あの子を救うことにもならないし、ましてやあかりに反発することでも何でもないことの様に思えた。

でも、それでもいい。


開け放した外側の窓を閉めるとき、窓ガラスにうつった自分の黒い瞳が、私を見つめていた。

私は明日も学校に行く。

ただ、そう思った。

私はここではムラサキで、カースト下位の女子生徒で、班決めであぶれるくらい、存在感なんてないし、学校が終わるとただの村田紗希だ。

別にそれでいいじゃないか、と思う。

目に見えないけれど、ムラサキの心には紫の帽子をかぶせておく。

あの子の心にも紫をかぶせておく。

それだけで大丈夫なのだという気がした。

いつか私の人生には、ドラマみたいに色んなことが一瞬で解決することが起こるのだろうか。

今は微塵も感じないけれど、でも私は、私だけは私を認めよう。

だって私は紫色の帽子をつけているのだから。だって私はあの子が美しいことを知っているのだから。




朝、安らかな眠りから現実に引きちぎられるように戻されると、窓からはあたたかい光が差し込んでいて、昨日は寒かったのにもう春みたい、なんて思いながら窓を開けはなつ。

一陣の風が頬をすり抜け髪をとかして、耳の奥に叫ぶような風の唸りが残る。

昨日とは違う新しい1日が始まるのだ。

かすかな絶望を感じて目が覚める朝はいつまでも毎日繰り返されるみたいだけれど、毎日を、ただのこの代わり映えのない毎日を、私は生きる。

あの子が今日は心安らかに学校に来れたらいいな、ということや、今日はあかりに雑用を言いつけられなければいいな、ということを想像する。

心に紫の帽子をつけた私たちは、想像の中でいつも輝いている。

私の内側は、こんなに自由に広がっていて、誰にも見られないことだけが嬉しくて私を勇気づけた。

よし、と小さく口に出す。


階下から生まれたばかりの命のように香ばしいパンの香りがする。



紗希ー、ごはんできてるよー、と声をかけられて私は勢いをつけて振り向いた。


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