第19話 堕天使フェルの記憶。

「なんだ、父娘おやこ喧嘩か?? いや、なんとなく様子がおかしいな……」


 とある古びたアパートの前で、20歳前後と思われる女性と、会社員と思われるスーツを着た男性が言い争いをしていた。

 いや、言い争いというより、男性が一方的に女性を責めているようにも見える。


「だから言っているだろ!! 俺は認知なんて絶対にしないってな! 無関係なんだからさっさと帰れ!」

「そ、そんな! 責任取ってくれるって言ったじゃない! だから私だって……!」


 どうやら2人は親子ではなく、恋人……いや、愛人かそれに近い関係だったようだ。

 しかも話の内容から察するに、女性は子どもを身篭みごもっている気配がある。


痴情ちじょうのもつれってヤツか。あの女性一人で子どもを育てるのは大変だから、父親が居ないと困るんだろうな。いやはや、愛し合ったゆえの証だろうに……魔界まかいに落ちるぞ、まったく」


 純粋無垢むくな小さな生命をおろかにするような行為を、神が善と判断するはずがない。

 いくら不本意な妊娠だとはいえ、不義理なことはよろしくない。


「さて、どうするか。っても、俺ができることは無いんだが……おっ?」



「痛いっ!! 何するんですか!?」

「うっせーな、コソコソと人ん家まで来てよぉ。こっちはいい加減迷惑なんだよ。帰らねーと警察呼ぶぞ!」



 ついに男性が手をあげてしまった。

 女性は突き飛ばされ、壁にぶつかって倒れ込む。

 その隙に男性は逃げるようにして立ち去ってしまった。



「ううっ……」


 ふくらみはまだ見られないが、そのお腹の中には小さな生命が宿っているのだろう。

 彼女はそれをかばうようにうずくまってしまった。

 さすがに心配になったフェルは、自身が天使であることも忘れて助けに入ってしまう。


「おい、大丈夫か? 痛むのか?」

「え? あっ、はっ、はい! 大丈夫……つつつ」


 転倒した際にひざを擦りむいたらしく、血が出ていた。

 それを見たフェルは、ポケットから取り出した真っ白なハンカチを当ててやる。


「どうやらお腹は無事なようだな。大事なくてよかったぜ」

「き、聞いていたの!? は、恥ずかしい……」


 涙で真っ赤になった目をゴシゴシと服のそでぬぐいながら、顔をそむける女性。

 その間もフェルは手当てを続けていた。


「ごめんなさい、ハンカチ……」

「いや、いいんだ。それよりまだ傷は痛むか?」

「えっと。ちょっと痛みますけど、歩けないほどじゃないので……」


 結局彼女が落ち着くまで、フェルは隣りに居続けた。

 その間、女性に何があったのかを彼の能力を使って少しずつ聞き出していた。


 フェルの予想は正しく、女性はさっきの男性と交際していた。

 そして今回の妊娠を期に、彼と結婚をするつもりだったらしい。

 しかし最近になって、実は男性は既婚だったことが発覚。

 更には本当に結婚するつもりもなく、交際自体もただの遊びだったと言われたそうだ。


「私が悪かったところもあるんです。年上だからってホイホイ誘われて……仕事もしてるっていうからちゃんとした人だと思ったのに……」


 この女性――真琴まことというらしい――は、なんとまだ高校生だった。

 いわゆる母子家庭に生まれた真琴は、家計を助けるためにアルバイトをしていた。

 そのアルバイト先で知り合ったのが、さっきの男性らしい。

 仕事中にデートに誘われ、流れで付き合うことになったのだとか。


「きっと私、お父さんが居なかったから年上の人に憧れていたみたいなんです。今考えるとバカみたいな理由なんだけど……」


 しかもここ最近、母親が新しく男を作ったらしく、家に居場所が無かったことも余計に寂しさをつのらせていた原因なのだろう。

 自然とこの男性が住むアパートに入り浸るようになり――そして妊娠した。


「他に女の気配なんて無かったから安心しきってたんです。でもただの単身赴任だったらしくって。もう今月で奥さんの居る家に戻るからってフラれて……でも私、もう帰る家なんて無いのに……」

「そうか……」


 言葉と同時に次から次へとこぼれ落ちていくしずくを見ながら、フェルは考えていた。


 悪魔は人間をたぶらかし、クロを産むことができる。

 なぜ天使はクロ不幸を排除し、シロを戻す役目はあるのに、シロ幸福を産むことをしないのだ?

 シロをとうとぶのに、自らはソレをむさぼるだけでだれかを幸せにしようだなんて行動しない。

 人間ですら他人を愛することでシロを生み出せるのに……なぜ?


 天使長だなんだと尊敬されている俺でも、何をしてやればいいのか分からない。

 俺はなぜこの娘を幸せにすることもできないのだ?


「あ、あの……どうしたんですか? だいじょうぶ??」


 自身が一番平気じゃ無いはずなのに、こうして他人の心配ができる。

 果たして、どちらがより天使らしい?

 いや、本当は関係なかったんだ。

 天使だとか、人間とか悪魔だなんて関係なく、シロなんてものは生み出すことなんてできるはずだった。

 こんな永い間、なぜこんな簡単なことに気付かなかったのだ……?


「……? どうして、泣いているの?」

「!? 泣いている、だと? この俺が? 天使の、俺が……?」


 真琴は「天使?」と不思議そうにしながら、その華奢きゃしゃな白い手でフェルの瞳から流れている液体をぬぐってやる。


「……白い涙。とってもキレイ。なんだか本当に天使みたい」

「は、はは。この俺が人間みたいに泣くだなんて。しかも涙まで白いって、どんだけだよ! クハハハ!!」


 永い天使の生命の中で初めての経験に驚きつつも、心の底からいてくる感情に笑いを抑えきれなくなったフェル。

 ひとしきり満足するまでそれを続けたあと、晴れやかな笑顔になり、真琴に告げた。


「ありがとう、真琴。お前との出会いに感謝する。なんだかずっと繋がれていた鎖から解放された気分だ」

「え? えっ?」

「これはお礼だ。――痛いの痛いの飛んでいけ」

「な、なにこの光……すごい……」


 フェルの右手から放たれたシロの粒子が真琴の擦りむいた膝をおおい、一瞬の間に傷口を癒してしまった。


 それはまるで魔法のようで、真琴は信じられないものを見るような目でフェルを見つめていた。


「じゃ、俺は行くから。さっきのは何故かよく聞くおまじないだったってことで忘れてくれ。それじゃあな!」

「ちょっ!? あ、ありがとうっ! 幸せを運ぶ天使さん!」


 慣れないことをして恥ずかしかったのか、フェルはわざとキザっぽく手を振ると、逃げるように姿をパッとくらました。


「すごく綺麗な人……ううん、天使さんだったな。……また会えるといいなぁ」



 最後に真琴がつぶやいた通り、これっきりにするつもりだったフェルは何故か彼女のことが気にかかり、結局その後も頻繁に彼女の元を訪れた。

 そして2人が恋人関係になるまで、そう時間は掛からなかったのである。


 天界と人間界。

 天使と人間という種族を越えた愛だったが、2人は幸せな生活を送っていた。


 そう――彼女の中に悪魔が見つかるまでは。

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