きみが救えない世界なら【実は〇〇の夫とヤンデレ妻と、世界の秘密】

二夕零生

一章 一話 ### 六時 一分 ###

 包丁を振りかざす妻の顔というのは、きっと般若のような顔が定番なのだろうと、かつての俺は想像した事がある。

 或いは、無表情であるとか。

 

 妻が夫婦喧嘩の末に夫を切りつけ、殺傷事件に至ったというニュースを見た時のことだ。何年も前の話だけれど。

 その時に、自分の妻に当てはめて想像もしてみた。

 けれど、普段から穏やかで、なんだかんだいっても俺に甘い妻では、具体的なイメージが湧き上がって来なかった。

 

 今日は、週末の日曜日。

 だからといって、俺たちにとって何も変わりはない。時間通りに起きて、二人で向かい合って食卓についたばかりだ。

 そうして、日常を始めて、そして終えるはずだった。

 

「英くん」

 

 平素と変わらない、聞き慣れた愛おしい声が、俺の名前を呼んでいる。

 先程、沸かしたお湯の火を止める時と同じ動作で立ち上がった妻の手には、包丁が握られてた。

 すらりとした細腕に握られた白刃が、音もなく高々と掲げられて、真新しい朝日を跳ね返し、ちらちらと光っている。

 

 そう、それで。今。

 実際に自分に刃が向けられて、事件と同じような状況に陥ってみて。

 目の前にした妻の顔は、観葉植物に水をあげる時と同じで何気ないものだった。

 般若の面のような激情はなく、小面のように異質さや無機質さを感じさせるわけでもない。本来であれば気に留めることもないような日常の一コマ。

 勢いよく振り下ろされる刃。

「…ッ」

 咄嗟に手にしていたマグカップで、それを受ける。結婚後にペアで買ったお気に入りのマグカップだったのに、欠けてしまった。

 外側に弾く。中身のココアが床に飛び散る。

 すっかり空になったマグカップを手にしたまま、俺は急いで椅子から飛び退き、間合いを取った。

 食卓の上にはこんがり狐色の食パンと綺麗に成形された目玉焼きがあって、辛うじて日常をつなぎとめている。

 しかし、優雅な朝の朝のひとときは、バターナイフでジャムを塗り付けるように、殺伐としたものに塗り変わってしまった。

 机を挟んで向こう側にいた妻は、包丁の鋒を見て、炒め物の野菜を焦がしてしまった時のように、微かに表情を曇らせた。修羅場は人より多く潜り抜けてきた身だが、今迄で一番肝が冷えた。

「どっ…なっ…」

 やっと声が出た瞬間に、間合いを詰められて、二打目がきた。

 ピリッとした痛みが体を庇った腕に走る。シャツの腕がぱっくりと口を開き、皮膚も薄く切れて、血が滲んだ。躊躇いは感じない。

「なんで、加織…」

「このままじゃだめなのよ。私があなたを救ってあげるわ」

「待て。待て、待て待て待て待て」

 巣食う? 掬う? 酢食う? いや、済うだったり、救うの意味だろうという事は分かる。

 ——いや、わからない。わからない。とにかく落ち着かせないと…!

「待って、加織。待って。救うって、なに?」

 俺のことが好きすぎてっていう、その、あれか? 

 そんなことしても———。

「だって、私たち、もう時間がないでしょう」

「……。だったら…」

 言い淀み、言い噤む。

 

 妻の加織は、俺より四つ年下の二十二歳。

 静かに夜を照らし続ける月のような人。しなやかな強さを身の内に秘めている。俺が叱られる事は間間あれど、泣いたりしているところを見たことがない。

 二人の間に子供は持たなかった。この家には二人で暮らしている。

 幼い頃から許嫁として一緒に育ってきた。初めて出会った時、俺は十歳。加織は六歳。

 加織は兄のように俺を慕ってくれている。けれど、加織が十八歳で成人したのを機に結婚してからは、彼女の方が年上のように感じる事が増えた。俺が甘えることだって増えた。

 病める時も健やかなる時もいつも一緒。俺が無茶をして怪我した時も。縁側で月見酒をした時も。あの日のあの瞬間も。いつでも。

 かつて「あなたができないことは、私がやるから」と、力強く言ってくれた時はどれだけ救われただろうか。

 あの時の加織はすごく格好よかった。思い出しても惚れ直しそうだ。その時からずっと俺にとって、神とは加織だった。

 次々と思い出が駆け巡る。

 どんな記憶の中でも加織は本当に可愛い。見た目がどうとかじゃなく、存在が。とにかく可愛い。愛してるよ加織。守ってあげたい。これは言うと加織が物凄く嫌がるので、口にはしないが。

 ………もしやこれ、走馬灯なのではないか。

 

「英くん」

 

 呼びながら、また無駄のない動きで刃が振るわれる。首のあたりにぷつりと一閃。

 加織の纏められた長い黒髪が、俺の横に流れていく。

 マグカップが手から滑り、床に転がった。俺は後ろに回り込んで、背中を見せた彼女と距離を置いて、慌てて叫ぶ。

「加織! あれか! あれだろ……昨日、俺が皿洗うのサボったから…それとも、隠れてポテチ食べてたのバレてた…?」

「昨日の話はどうでもいいの」

 見返る彼女の瞳は誰にも有無を言わさない。すぐに包丁を両手で握って突っ込んでくる。

 また一撃、二撃と繰り出される刃を交わしきる。彼女に怪我をさせないように気を配るのも骨がいる。

 それを彼女も察しているらしい。

「そもそも、私一人でどうにかなるとは思ってない」

 呟いた彼女は、テーブルに向かって包丁の先を突き立てた。よく研がれた刃がすとんと突き刺さり、香織が手を離すと、振動でびぃんと音がした。

「でも、私がやるわ」

「かお…」

 

 言いかけた瞬間、キィィィンッと超音波のような音が脳内を暴力的に侵した。

 ぐらりと体が傾き、俺は膝をつく。

「ウッ…加織…」

「ごめんね? 愛してる…愛してるんだけど、私、今のあなた、好きじゃないの」

「——」

 頭の脳天に電撃を食らったように、あまりのショックで放心しかけた。

 しかし、吐き気が襲ってきたので、それをきっかけに我に返った。

 無理やり足に力を入れて、床にあったマグカップを加織に投げつける。加織はそれを冷静にかわす。

 その隙に隣の洋室に転がり込んで、体勢を立て直した。

 泡立つ肌の感覚を頭を振ってふるい落とし、思考を巡らせる。

 

 ———外、しかない、か…。

 

 俺は洋間のテラスタイプの窓を横に開け放った。

 続くウッドデッキに日課のために置いてあった靴を引っ掴み、そのまま庭に降り立って疾る。

 特に拘りも無しに作られた凡庸な庭には青い芝生が敷かれ、物置と、唯一俺の提案で設置された体操用の背の高い鉄棒があるだけだ。

 敷地面積は他所に比べて大きい部類には入ると思うが、極々一般的な見た目の庭付き一軒家。

 

 一つ、変わっていることを挙げるとすれば、通常より高い塀で家の周辺が囲われていることだ。

 

 それは家の敷地全体をぐるりと周回しているが、庭自体が広いので圧迫感はない。日当たりも良好なので洗濯物もすぐに乾く。

 俺は駆け足でその塀の角付近にある扉を目指した。外へと通じる扉の掌紋認証システムに手を翳す。特に細工された形跡もなく、扉は開いた。

 ———そもそも私一人でどうにかなるとは思っていない。

 という、加織の言葉に引っ掛かりを覚えたが、今は構わずに外に出た。

 とにかく今は加織が落ち着くまでは逃げるしかない。

 彼女は妙なところで頑固で、口では絶対に勝てない。説き伏せるなど不可能だ。それに、無理矢理押さえつけるなんてことも絶対にしたくない。

 

 そしてなによりも、仲直りがしたい。

 このままでいるのは俺自身が耐えられなかった。

 

 高い塀の外は、さらに網のフェンスで囲われている。有刺鉄線が張り巡らされているものだ。今いる塀の足元から見ると、それは地平線と同じラインで、陽炎のように揺れている。

 

 そのフェンスの向こう側によく目を凝らすと、多くの人集りが見えた。

 ここからでも聞こえるざわめき。言葉は聞き取れないが、拡声器からひび割れた叫びのようなものが耳に届いた。

 胸に苦痛が押し寄せる。でも、もはやどうしようもないのだ。

 

 俺はそれらから目を背けた。

 

 

 

 もう一つの壁に向かう。

 家の周りを囲うものと高さは同じだが、それよりは敷地が狭く、乗用車が一台すっぽり収まるほどのスペースを取り囲んでいる。

 俺は先ほどと同様に手を翳して、その中へと逃げ込むように入った。そこには地下の階段の入り口が口を開いていた。

 コンクリートで整備された地下通路を通って、進んでいく。傘のついた電球の明かりが、行先を点々と照らし出している。

 最奥まで進んで、行き着いた先には梯子がある。そこを登りきってハッチを開けた。

 

 

 

 木々にちぎられた、眩い陽光。

 俺は久方ぶりに塀の外の世界へと飛び出した。

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