旅人とクレマチス

旦開野

旅人の話

人生は思っているよりも短い。20代を過ごしてみてそう思った私は、30歳の誕生日を機に、カバン一つを背負い、旅に出た。私の持っている短い時間だけではこの世の全てのものを見るのは不可能だろう。それでも私は出来る限りのものごとを、この目で見たいと思い、世界中を旅している。


住んでいたマンションを出て、そこらじゅうを転々とする生活を始めて5年ほど経つ。旅人としてはまだまだだろうが、それでも5年も放浪すると、1つや2つ、不思議な出来事に遭遇する。今日はその1つを君にお話ししよう。


この日、私は次の街を目指して砂漠を歩いていた。ただただ砂の大地が続く中、私はひたすらに歩き続けた。気がつくともうあたりは暗く、空を見上げると満天の星々が輝いていた。私が目指す街は北にある。北極星に向かって歩けば迷うことはないはずだ。私は時々空を見上げては、こぐま座のポラリスと目を合わせながら一歩一歩、歩みを進めた。


日中は日差しが照りつけ、全身からの汗が止まらないほどであったが、砂漠は日が落ちると急激に温度が下がる。こんなところに宿なんてない。いい加減、どこかしらにテントを張りたいと思っていると、目の前に何かがあるのを見つけた。どうやら植物が集まっているらしい。こんな中で私はオアシスを見つけたのだ。


私は恐る恐るオアシスに近づいた。どんな生物が茂みに潜んでいるか分かったものではない。しかし、私が見つけたのは生物ではなく、小さな建築物であった。滅多に人が寄り付かないであろうこんな場所に、人工物があるなんて。木造の建物の入り口へと近づく。中は明かりがついていて、どうやら人がいるようだ。扉には母国語とは違う言語で何か書かれていた。私は事前に買っておいた辞書を調べる。どうやら宿屋のようだ。こんなところに宿が?少し不審に思いながらも疲労と持ち前の好奇心に負け、ドアにあるインターホンを押した。すると、中から現地の言葉で返事が返ってきた。声色からして女性のようだった。扉が開く。出てきたのは細身の美しい人だった。カールした茶色の長い髪を後ろで束ね、紫のガウンを着ている。


「هل ترغب في البقاء」


彼女は訪ねた。お客様かどうかを聞かれているらしい。私は首を縦に振った。そのジェスチャーが伝わったらしく、彼女は私を中へと案内してくれた。ロビーには、鉢を飛び出して蔓を伸ばしたクレマチスの花が咲きこぼれていた。


彼女の、クレマチスと同じ鮮やかなマニキュアを目にしながらロビーで名前や出身国などを記入していると


「にほんのおかた……」


彼女の口からまさかの母国語が聞こえてきた。私は驚いて目を丸くしていると


「ぶんかがすきで、ちょっとだけべんきょうしたことがある。すこししゃべれる」


と彼女はゆっくりと口を動かした。私が関心していると、彼女は自身の言葉がちゃんと伝わったのが嬉しかったのか、とても素敵な笑顔をこちらに向けた。


「綺麗なクレマチスですね」


必要な情報を書き終え、私はここのロビーで、あまりにも存在感を放つその花について、彼女に伝えた。




「このはなは、ほかのくにでは、たびのひとをいやす、はなとして、ゆうめいです。わたしもながたびでつかれたひとをいやしたい。そうおもっておいている」


彼女は教えてくれた。


部屋の鍵をもらい、私は廊下を歩いた。2、3部屋あるだけの小さな宿屋ではあったが、建物自体はそう古くはなさそうだった。


102号室の扉を開ける。ベットと小さな机、間接照明があるだけだったが、旅人が一晩過ごすには十分だった。この部屋にもロビーほどではないが、クレマチスの咲く鉢植えが置いてあった。


私は荷物を下ろし、ベットに倒れ込んだ。こんなところで宿を見つけられたのは本当にラッキーだった。ベットの上で、私は明日のことについて考える。せっかくたどり着いたのだからこの辺りのオアシスを散策してから目的地に向かうのもいいだろう。寄り道ばかりしているから夜中に変なところで迷うのだ。分かってはいる。だけど自分の好奇心を上手にコントロールできないのだ。私のよくないところである。そんなことを考えていたら、思いの外疲れていたらしく、私はいつのまにか眠りについてしまっていた。






翌朝。私は眩しく輝く朝日によって起こされた。こんなに日当たりのいい部屋だったのかなんて、寝ぼけながら考える。意識がはっきりしてくると同時に、私は葉の青臭い香りと、華やかなクレマチスの香りに包まれていることに気がついた。不思議に思い目を開けると、そこはベットの上でも、宿屋の部屋の中でもなかった。私はクレマチスの蔓に巻きつかれながら寝ていたのだ。絡んでいる蔓を払い、その場に起き上がる。荷物は足元に転がっていた。起き上がりながら状況を整理する。私は昨夜、ここにあった宿屋に入ったはずだ。それがどうしてこんな外に寝転がっているのだろう。まさか宿の主人に放り出されたのだろうか。彼女にそんな力はないと思うのだが。


宿から放り出されたのだとしても、きっと、それほど建物から距離は離れていないだろうと思った私はあたりを見渡した。しかし、いくら目を凝らしてみても、近くに建築物なんてなかった。鞄を背負い、オアシス中を歩いてみる。しかし、昨日見たはずの小さな宿屋どころか、人工物一つも見つけ出すことができなかった。


まるで狐にでも化かされている気分だった。昨日、北極星を辿って見つけた宿屋。あれは私が見た夢だったのだろうか。あれが夢だったとはとても信じられないのだが。


それにしても、こんな外で無防備に寝ていて、よく無事だったなと思う。きっとこのクレマチスの蔓が私を守ってくれたのかもしれない、なんて柄にもないことを考える。私は自身が眠っていたところに戻り、鮮やかな紫色の花を見つめる。ふと、昨日出会った花と同じ色のマニキュアを塗った彼女の顔が頭をよぎった。彼女は確か、クレマチスは旅人を癒す花だと言っていた。ここに咲くクレマチスはもしかしたら、こうして迷子になった旅人たちを助けてきたのかもしれない。


「ありがとう」


このクレマチスが私を危険から守ってくれたんだという確信が、なんとなくだがあった。太陽の光を浴びてより一層美しく咲くクレマチス。花に別れを告げ、私は次の目的地へと歩みを進めた。


旅をしていると不思議なことに巡り会う。それも旅の面白いところだ。君も旅をして、オアシスで宿を見つけたら注意してみてほしい。そこにはクレマチスの花が咲いているだろうか。そうしたらきっと安心だ。万が一何か危険があったとしても彼女は君のことを守ってくれるだろう。

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旅人とクレマチス 旦開野 @asaakeno73

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