多世界世界調査記
@mamimumumo
第1話
軽い調査計画
扉を開けて外に出る。
「……おっと、と」
転びそうになったところをぐらつく脚で何とか堪える。急に明るいところに出たせいで視界が真っ白だ。その上世界を移動したとき特有の浮遊感のせいで全身の感覚が曖昧になっている。それでもすぐに視界が慣れて周りが見えるようになり、それと一緒に浮遊感も消える。
初めて訪れる世界で最初の景色が見える瞬間、それがボクは結構好きだ。
灰色。色のない世界に来たのかと思うほど色彩に乏しかった。空は狭く、雲に覆われている。視界内の建物は全て廃墟と化している。
「何もないねえ……世界に来て最初に見たものが無味乾燥の街並みだなんて残念だと思わない?ねえジャギーちゃん」
ボクは傍らの幼女に話しかける。
「本っ当になんもねえな。なあカルロ、こんな世界の何を調べろって言うんだよ」
ボクはカルロッタ・ヴィルガ、十七歳。「多世界調査機関」の調査員歴二年目。幾多もある世界をひとつひとつ調べる仕事をしている。
顔に目鼻はなく中央に大きな穴がある。ピンク色の髪を耳の下辺りで切りそろえ、頭のてっぺんにはアホ毛が一束、重力に逆らい立っている。
まとめると、顔に大穴のある調査員。
そして隣にいるのが、ジャギー。ボクの幼なじみにして親友。
頭の上にはオレンジ色の小さな二本のツノ。蛍光緑のおかっぱヘアー。ギザ歯にギョロ目の3Dモデルのような顔。ワンピースの裾から覗く青黒い脚は分厚い鎌の刃のような形状をしている。右腕も脚と同じように青黒い。身長はボクより頭ひとつ以上は小さい。それから、無限の変身能力を持っている。
まとめると、マスコットみたいな鬼畜幼女。
「えっと、この世界『BIH1906』がどんな場所になってるか調べて来いってさ。事前調査だよ」
「調べるたってこの状況は終末だろ。ここは滅んでましたハイ終わりでいいだろ」
「全く雑だなあジャギーちゃんは、多世界調査というのはね指示された事だけやってれば良いってもんじゃないんだよ?」
「うっせ」
「事前調査ってのはね、危険な物がないかとかどんな住人がいるかとか、そーいうのを調べるの。そもそも本当に滅亡しちゃったのか結論づけるのは早いしね。そいじゃ行こう!」
意気揚々に腕を振って歩き出すと、後ろからおい、と声がかかった。
前に出した手足そのままに振り返ると、ジャギーちゃんが唇を結んでこちらを見ている。
「ゲートの解除忘れてるぞ」
ボクは無言で扉まで戻り、じとーっという効果音がピッタリなジャギーちゃんの視線を浴びながら、ボクは無駄のない動きでゲートの解除作業を行った。
扉の枠を境とした、暗くて黒いもあもあしたもの。
世界を行き来することが出来る、境界というかトンネルのようなもの。それを「ゲート」という。
ゲートを使った他世界への移動に要する時間は素敵なことにほぼノータイム。さらに、ゲートを枠さえあれば何処でも作れ、何処にでも繋げることが出来るすてきな装置がある。
ボクがいま扉の傍でいじっている機械だよ。
形や原理について詳しいことは、多世界調査機関の規定と製作者の尊厳に配慮して語らないことにするよ。名称については正式に決まったものはなくて、各々適当な名前で呼んでいる。ちなみにボクは「ドアノブ」と呼んでいる。
ゲートは通ったあと自動で消えてくれるわけではなくて、繋がってるどちらか一方から解除しないといけない。この装置はゲートの解除もできる。
ゲートを解除しないまま放っとくと、何も知らない現地の人が入ったり、周辺の物体が巻き込まれたり、他にも問題はあるけど省略。とにかく、ゲートの解除を忘れると大変なことになる。
ジャギーちゃんの冷たい視線はそういう訳だよ。
「はいゲートの解除終わりー、今度こそ行こう!」
「おい、周りを見て歩けよ、お前はよく」
微かにみしと音がした気がした。
ぐしゃっ! ズドン! がらがっしゃーん。
数秒前にボクが立っていた場所に瓦礫が落ちた。
正直に言うよ。ビビったね。音が止む頃には地面に地面に膝を付けて瓦礫を見つめてた。
幸い怪我はなかった。何か不利益があったとすればお気に入りのウィンドブレーカーが汚れたくらい。
「怪我はないか?」
数分と経たずにジャギーちゃんが姿を見せた。持ち前の身体能力を駆使して瓦礫は避けたのだろう。
「全然平気〜。いやもうラッキーだよね、ボクってホントに」
ボクがそう言うなり、ジャギーちゃんは眉間を揉み揉み、ため息を吐いた。
「お前はもう少し危機感を持て」
「ボクはジャギーちゃんが暇じゃないように気を使ってるんだよう。さっきだってジャギーちゃんが華麗にボクを助けるシーンだったよ」
「……」ピシリとジャギーちゃんの眉間に皺が入る。
「ジャギーちゃんやめて!アホ毛引っこ抜かないで!」
カルロッタ・ヴィルガのアホ毛の尊厳を守る戦いはジャギーちゃんのデコピンで幕を閉じた。痛い。
「ジャギーちゃんは乱暴すぎだよ。イタル君を見習いなよ」
白月イタル。カルロとジャギーの親友。残念ながらここにはいない。
「ここにいねえやつの話をするな」
「だってさあー、ここがあまりにも寂しい場所すぎてさあ。故郷、いや『拠点』が恋しくなっちゃって。うぅ親友に会いたい」
「もう一人の親友なら目の前にもいるだろ」
もう一人の方の親友は優しかった。
「こうやってあたしが手綱掴んでたら危ない目にも合わないんじゃないか」
「今から気を付けるから、お願いだから首根っこ持って引きずるのはやめて」
しかし乱暴であった。
この辺の道はヒビ割れコンクリートでザラッザラだから、全身ダメージ仕様になっちゃうよ。そういったファッションはボクにはいささか前衛的すぎる。
ジャギーちゃんに手を離してもらい、やっと立ち上がり、服に付いた汚れを払った。
さて、いい加減調査を始めよう。
ジャギーちゃんに人の気配がないか尋ねたが、環境音程度しか聞こえないと返ってきた。
とりあえず歩く。調査の基本は歩くことだと誰かが言っていた。多分ボクだ。ジャギーちゃんとイタル君に話した気がする。
足元を観察するが植物すら見当たらない。
「もしもゲートが使えない、救援の見込みもない状態で終末世界に放りこまれたとして、ジャギーちゃんだったらどうする?」
「食料を探したり、いよいよやることがなくなったら眠る」
「ジャギーちゃんだな〜。ボクだったら、新しい趣味を見つけて楽しく生きる道を探すかな」
「カルロらしいな」
顔を真上に上げる。
「空が狭い。整然としたわりに窮屈な街だね」
「どの建造物も似たり寄ったりで何のための施設なのか見分けがつかないな」
「じゃあ入ってみよう」
ヒビの少ない、突然崩れなさそうな建物の中を選んだ。
外よりさらに薄暗く、ひんやりとしていた。天井は低いが、奥行きは広い。怪しげな缶詰や番号を印字した木箱やらが転がっている。
「倉庫かな?」
手探りながら歩くと、何か重い物を蹴った。それを拾い上げる。
「ねえ見て!銃だよジャギーちゃん」
「本物を見たのは初めてだ」
奥の木箱の上に空の缶を置き、銃を構える。
「それで構え方合ってるのか? それはお前が持っていい物なのか」
「多分。ボク射撃訓練したことあるし大丈夫だよ」
ボクは銃火器に関しての知識は明るくないが、ある程度の勝手はわかる。
空き缶に狙いを付けて、引き金を引く。
「ぐえ!」
反動により銃床で胸部を強打した。しかも弾は外れて、その辺の箱にめり込んだ。
「肋があ……! あばらがあ……」
負傷部に手を当て、床に転がる。痛い。
「阿呆か」
ジャギーちゃんの的確なツッコミが心に命中する。ぐうの音しか出ない。
「……ここは食料庫かな」
いつまでも転がってるわけにはいかない。調査を再開する。
謎の固形食やら袋で密閉された乾物やらが、箱ごとに詰まっていた。どれもパッケージに色味がなく素っ気ない。
適当に選んだ缶詰を手に取る。「小麦粉と砂芋」の文字とスープのピクトグラムが印刷されていた。
「砂芋があるなら、泥芋とかもあるのかな。どう思うジャギーちゃん」
「どっちにしろ食欲は湧かないな」
ザラザラとした缶の横側を撫でてるうち、ボクはあることを思い立った。
「ジャギーちゃん。リュックから缶切りを取っておくれ」
「手が届かん。しゃがんでくれ」
「伸びればいいのに。はいはい」
缶詰を缶切りで開ける。
パッと見は透明度の高いシチューという感じだ。底に芋っぽいものが沈んでいるのが見える。
「うーん、具の少ないただのスープだね」
「で、開けてどうするってんだ」
「飲む」
「……お前やめとけよ」
ジャギーちゃんの制止をよそに缶を煽った。
「うっ」
「どうした!」
吐き出しそうになったところをギリギリで抑え、飲み下す。手から缶が滑り落ち、中身をぶちまけた。
思わず床に手と膝をついてしまう。ジャギーちゃんが背中をさすってくれた。
「大丈夫かよ飲み込んで。腐ってたのか、まさか毒か?」
「いや、不味いだけ」
「なんだよ!」
ジャギーちゃんが勢いよく頭を抱えた。
「うう、こんな粗末な食べ物初めて食べたよ。やる気のない塩分の味がする」
不味いというか拙い。
「ジャギーちゃんも飲む? まだいっぱいあるよ」
「いや、いい。毎日いいもん食ってるお前が言うならそうなんだろうから」
「この辺りの食文化は随分と衰退してたみたいだね」
「外の様子だと何処で原材料やら確保したのかも分からん」
リュックにさっきと同じスープ缶や保存食を詰める。
「持ち帰って他の調査員にも食べさせるんだー」
「ほどほどにしとけよ」
食料もどき庫から出た。
歩く。
歩く。
歩く。
歩けど歩けどめぼしい物は無い。
飴色になったボタン。ドラム缶と一トン缶の集落。ひしゃげた空薬莢。合成皮革靴の片割れ。埃。オイルの染みた日記帳。鉄屑。
「ホンッとに何もないねえこの世界」
「人もねえ、ろくなもんもねえ」
「新聞とか情勢がわかるものが見つかれば良かったんだけど。もしかすると全部の建物を虱潰しに探すことになるかもね」
「そこまでやらなくてもいいだろ。今回抱えた仕事の範囲を超えてるぜ」
石を蹴る。石ころは数回跳ねて道路のひび割れに挟まった。
「ジャギーちゃんは、ここが荒廃した原因は今んとこ何だと思う?」
「未亡の大災害が発生したとか」
「未曾有ね。ボクは、発展しすぎたせいだと考えてる、資源の枯渇とかモラルの堕落とか。盛者必衰の理かな」
「世界は多様だからな、どれもちょっと有り得るのが面倒だな」
突如突風が吹き盛大な砂埃を舞いあげた。砂埃は見事ボクら二人を襲った。
「ぶえ! 口の中に砂入っちゃった」
「お前口あったのか……」
「えっそれって冗談だよね? 九年近くボクの幼なじみやってる子の発言とは思えない」
ボクは両手をぶんぶん振る。ボクの抗議を片手で制してジャギーちゃんは風上の方向に目を凝らした。
「ん……妙な臭いがする。濃い土の臭いとそれに、なんだ……? 腐臭がする」
「ほーほー! 腐臭ねえ。碌じゃないものがあるだろうけど、行ってみようよ」
「だけど多分かなり遠いぜ。歩いて何日かかるか……なんだその顔は」
「ジャギーちゃん」
ボクは真っ直ぐに彼女の前に立ち、顔を合わせる。
「キミの類まれなる身体能力を見込んで頼みたいことがある」
「……何だ」ジャギーちゃんは髪の毛に手を触れた。目がニュっと半目になる。
ボクは自分で思う最大級に愛嬌のある声で言った。
「おぶって♡」
とろ
「いやっほおおおおう!」
両の拳を空に向かって突き上げる。火照る頬を風が切る。
「動くな!落とすぞ」
ボクは走るジャギーちゃんのでっかくした右腕に乗っていた。二の腕がシート、指がシートベルトである。
景色が秒ごとに変わっていく面白さと風が心地良かった。バイクに乗るときはこんな気分なのかもしれない。機会があったら買おう。
「初期位置と比べて建物のぼろ具合いが顕著になってきてるね」
「ああ、だんだんと足元も悪路になってきてるぜ」
お腹に振動がダイレクトに伝わってくる。
「気をつけてね。ジャギーちゃんが転んだらボクも巻き添えだよ」
ジャギーちゃんが急停止した。
「ゴェ!」
頭が外れるかと思うほど前に射出した。
「着いたぞ」
「急ブレーキは危険だって拠点のルールになかったっけ」
「生憎ここはなんでな。治外法権だ」
「意味違くない……」
ゆっくりと手から降りた。
何も無かった。正確には土以外。
顔を上げ、地平線まで見渡す。風が真正面からぶわっ、とぶち当たり、また口に砂が入りそうになる。
草原から「草」を抜いて、かろうじて「原」が残っているような場所だ。
ぶ厚いコンクリートの地層が剥がれ、土がむき出しになっていた。
ジャギーちゃんが止まるのがあと数秒遅かったら崖から落ちていただろう。
「うわー……なんかすごく痛そうな場所だね」
「あたしでもこんなにするには骨が折れそうだ」
原は円形になっており、そこだけ足跡のように凹んでる感じだ。
「なんなんだろうねこの場所は。何があったの」
「爆弾が落ちたとか?」
「それだ。もしかしたらこの街が滅びた理由でもあるかも___」
「こんにちは」
「「え」」
振り返って声のする方を見る。少年がいた。たくさんの荷物が乗った一輪車を押している。
光の差した黒曜石のような瞳で、バターブロンドの髪との対になっている。
しかしそれはぐるんと回って白になった。
ジャギーちゃんが少年のみぞおちを右手で一発打ったからだ。ボクが銃床でお腹を強打したときの比じゃない威力で拳はお腹にめり込んだ。少年の体はくの字に曲がり少し宙に浮いた。
さらに左腕で後頭部に肘打ち一徹。
少年は地面にどさりと音を立てて落ちた。
ボクが止める間も、思考が追いつく間もなく事は終わった。
「よし、逃げるぞ」
爽やかな顔でグッドのサインを出すジャギーちゃん。
「何で? いや、いやいや、ナンデ? 何で気絶させたの。後頭部に肘て下手したら死ぬよ? というか最初の腹パンは必要だったの」
少年口からなんか出てた気がするんだけど。
「多世界調査の常識、『無用に人に接触しない』だろ。お前に耳から膿が出そうなほど聞かされたことだぜ。それに手加減はしたさ」
「うん、まあ、そうだけども……腹パンは?」
「あれだ、なんとなくだ」
「なんとなくで人に腹パンしちゃだめだよ! というかなんとなくでの暴力は全部だめだよ!」
つい声を荒らげてしまった。これが「口角泡を飛ばす」ってやつかもね、唇ないけど。
「お前の仕事じゃないだろ。ガキ一人生きてたところで何かある訳でもあるまいし。」
「やだなあジャギーちゃん、分かってるでしょ?」
息を吸い込んだ。
「気になるんだよ」
両手で天を仰ぐ。
「こんな寂しい終末世界にたった一人、何を思って生きてるの? どうして生き残ってるの?」
ボクの好奇心はあらゆる未知に節操なしには反応しない。
「ボクはこの少年に興味がある」
カルロッタ・ヴィルガが強く惹き付けられるのはいつだって、人の内面だ。
少年に近づき、ぺたぺたと物色する。危険なものは持ってなさそう。
「だけどよお……」ジャギーちゃんは一輪車に視線を向けた。
少年を仰向けに寝かせる。
「お前に不可視化装置を使って安全圏から観察するとかじゃ駄目か?」
「ボクは話がしたいんだ」
胸の辺りに耳を寄せた、心臓は動いている。口元に手を近づけた、息はしている。
「コイツが本当に危ないヤツだと分かったらどうするつもりだ?」
「そのときこそ逃げる」
ジャギーちゃんはわかったよと呟き、フウと息を吐いた、体全体がどろりと溶け、あっという間に少しくたびれた服装の何処にでもいそうな女の子に変身した。
ボクはありがとう、と応えた。
まぶたをこじ開けて目の動きを見る。良かった、死んではいない。
「そういえば前読んだ本で気絶したやつをビンタしてたな。よし」
「ジャギーちゃんはもう少し反省して。この歳で総入れ歯は可哀想だよ」
少年の頬を叩いてみる。もちろん軽くね、ぺちぺちと。
「……う」
目を覚ました。ジャギーちゃんがピクっとして、動きが止まる。
「大丈夫?君倒れてたんだよ」
「あれ……ここは?」
記憶が少し抜けてるようだ、ちょうど良い、先の暴力行為については誤魔化すことにした。
「いろんな箇所が痛い……」
「倒れて全身打ちつけたんだよ。災難だったね、ははははは」
「やっぱり水分も取らずに動き回るのは無茶でしたか」
少年はへにゃっと顔を歪めて苦笑した。
この子別にジャギーちゃんが殴らなくても倒れてたんじゃないか。
リュックから水の入った水筒を取り出して少年に渡した。
少年は少し飲んで、げほげほと咳き込んだ。
この子は何歳なんだろう、体格からしてボクと同じくらいかな。
「助けていただきありがとうございます。えっと……貴方達は………」
「自己紹介しなくちゃね」
服の汚れを払い、髪を軽く整えた。
「ボクはカルロッタ・ヴィルガ。二人で食料を補給しながら転々としてたんだ」
「はじめまして。フィギム・チェルヒノフです。」
握手をする。まめのできた、がさついてる手だ。
「ジャギーちゃんもそんなに睨んでないでさー、ほら握手」
「……ジャギーだよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、フィギムの差し出した手をはたき返した。
フィギムはジャギーちゃんの熱烈な歓迎に気を悪くした風もない。と、急にあっと声を上げて、
「作業の途中でした。行かないと」
「まだ無理に立たないほうがいいよ」
肩を掴んで座らせる。
「そうそう、さっきから気になってたんだけど、君が運んでいた人達は何?」
そう、フィギムの一輪車には死体が乗っていた。
「死人集めなんて大層な趣味だな。まさかお前がやったんじゃないよな」
「違います、違います。これは私がこれから埋葬する方たちです」
死人達は変色はしているものの、膨れたり崩れたりしてはいない、人間の死体というよりはやる気のないマネキンじみて見えた。 この世界では腐敗が遅いのかもしれない。
「墓守さんかあ。フィギム・グレイヴキーパーだね」
「ふふ、私はどちらかと言えばsoldierですね。元、ですけど」
「兵士だったんだ」
彼は何と戦っていたのだろう。
「昔塹壕、今日墓穴を掘ってる次第です」
「なるほどねん。ねえそれボク達も手伝っていい?」
「おいなんだよ『達』ってあたしを勝手に入れんな」
「いいんですか……? じゃあ穴掘りをお願いします」
「やった!」
「あたしの話聞けよ」
「それでは降りやすい場所に移動しますね」
「やあっと一個できたあ」
シャベルを投げて土の上に大の字になった。息はもうすっかり上がっている。
「はあーもう、ここの地面硬いよ」
「もうへばったのか」
「体力無尽蔵のジャギーちゃんと一緒にしないでよ」
ちょっと悔しいので、ゴロゴロするのは止め立ち上がる。
「見ろよこの墓穴をカンフェクトだろ」
「もしかしてパーペキって言いたいの?」
後ろからお疲れ様です、とフィギムの声がした。
「フィギムおかえりー。ついに墓穴がひとつ完成したんだよ」
「頑張りましたね。初めてにしてはいい速さですよ」
「いえーい、やったー」
「穴一つ掘ったくらいでエラいはしゃぎ様だな」
「大変だったからねー」
シャベルを振り回しながらムーンウォークで歩き回った矢先、ガクッと体が傾いた。
地面に触れるはずの左足は空を踏みしめ、
「うわ!」
後ろに倒れて、気づくと穴の底で尻もちをついていた。
「大丈夫ですか!」
「平気平気~ちょっと墓穴に落ちただけ」
「まったく気をつけろよ。そこにお前が入るようなことにならなくてよかったよ」
ジャギーちゃんが手を伸ばしてくれる。ボクは彼女の腕に全体重を委ね、引き上げてもらった。
「ったく。ちょっとは自分で立てよ」
「だって楽なんだもーん。ありがとジャギーちゃん」
「いつまで手ェ握ってんだ離せ!」
無理矢理ほどかれた。照れなくてもいいのに。
「変な所ぶつけたりはしてませんか」
「ちょっとお尻が痛いかな。他は無事」
「念の為に私のヘルメットを使ってください」
「わ、ありがとう! いいの?」
「私はいいんです、別に」
ヘルメットを被る。うん、守られてるって感じ。
「さっきまで何処行ってたんだ? 随分時間がかかってたみたいだな」
「遺体を焼いていました」
一輪車から紙箱を持ってきて、それをボクらの前で開けた。中には灰が入っていた。
「あれ、そのまま埋めるんじゃないんだね」
「灰にした方が墓穴が小さく済むんです」
ジャギーちゃんは箱に鼻面突っ込み臭いを嗅いでいる。
「ァッグショイ!」
「ははは、顔なんか近づけるからだよ。ふぇ……ェグしっ」
「ふっ、ざまあないな」
「ジャギーちゃんのせいだ。箱の蓋を開けっ放しにしたからだ」
「くしッ」
「フィギムもくしゃみしてるじゃん」
「してません」
「してるー」「してたな」
「……とにかくこの方達を埋めてしまいましょう」
強引に誤魔化したな。
蓋を閉じて、墓穴に置いた。穴の底に転がった箱はやけにこじんまりとして見えた。人間は死んだらこんなに小さくなるらしい。
「せっかく掘った穴をまた埋めるんだねー」
最初の土をかける。
ボクが数十分かけて掘った墓穴はすぐに塞がった。
遺体は食品工場のオーブンで焼いているらしい。紙箱は工場に残された製品の空箱を利用しているそうだ。
フィギムはその工場と墓地とをもう何往復もしている。ジャギーちゃんの穴を掘るペースが凄まじいからだ。件のジャギーちゃんは今はどこかに行ってるけど。
「あ〜ダメだもうシャベルが持てない。腕がプルプルだあ」
腕だけではない、脚も腰もガタガタである。ボクは肉体労働より頭脳労働派だ。
「私はもう一度工場の方に遺灰を回収してきます」
フィギムはまた一輪車を掴んだ。
「いやいやいや」
働き者にしては度がすぎてる。
「フィギムは働きすぎだよ。もう充分だって」
フィギムは目と口を開いてきょとんとした顔をした。
「私はまだ働けます。」
「ああー、じゃあ。ボクは疲れたのでもう動きたくありません! でもフィギムが休んでくれないとボクも仕事を切り上げられないなー」
これならどうだ。
「……わかりました。もう今日は片付けます」
一輪車を置いてくれた。
身体を伸ばすとあちこちからポキポキと音がした。筋肉痛酷くならないといいな。
そういえばジャギーちゃんがいない。
「ジャギーちゃーんそろそろ戻って来てよーう」
何処にいるかも分からないジャギーちゃんに向かって叫ぶ。
ボクの声量で何処まで届くかはわからないが、ジャギーちゃんなら聞こえる。
ぐるぐると周囲を見回すと墓地から遠く離れた凹みの中心に豆粒程のジャギーちゃんを見つけた。豆粒は徐々に大きくなり、あっという間にジャギーちゃんの形になった。
「おかえり。なんか面白いものあった?」
「ん。ちょっと来い」
え、と声が出た。あっという間に肩に担がれて、ジャギーちゃんの腕に包まれた。
置きっぱなしのシャベルが小さくなる。お尻と膝裏にすごい風圧を感じた。
ボクがひと呼吸する間に到着。地面に降ろされた。ようやくボクは口を開けた。
「何何何! どしたの急に」
「ここに来る前、腐臭がすると言ったろ」
「言ってたね」
「でもあのガキは火葬をしていた。だったら何であたしの鼻は死体の臭いを捉えたんだ」
ジャギーちゃんは下を指さした。
「多分ここには前から死体が埋められてたんだ。それにほんの微かに残ってるんだよ、煙と火薬の臭いが」
そう言って、僅かに顔を顰めた。
「この場所が最前線だったんだ」
最前線と聴いてもボクは大した想像は出来なかった。せいぜい、銃声と怒号と血だ。
「戦争については講義で習ったことしか知らないんだ。たくさんの人が殺し合うんだってね」
地面を撫でた。砂粒が指にくっついて、爪の間に入った。
『私はどちらかと言えばsoldierですね。元、ですけど』
軍というのは大抵何かと戦う為の組織だ。外敵とか災害とか、はたまた同じ種族どうしで戦うこともあるらしい。
「フィギムもここにいたのかな」
日が傾く。夕焼けに頬が焼かれてチリチリする。最初の頃この世界は灰色をしていると感じた。今は全てが赤かった。
アポカリプス身を助く
フィギムが今夜の宿に案内してくれた先は、四角い集合住宅だった。こちらも例に漏れず全体が灰色である。フィギム自身も寝泊まりに使っているそうだ。
フィギムは地下の食糧庫からいろいろ持ってきてくれたが、丁重にお断りして、自分達で持ってきた軽食を振る舞うことにした。
メニューは白パン、燻製肉の塊、チーズの塊、トマトとハト豆のスープ、恐ろしく大きなプラムゼリーだ。全てボクのママの手作りである。
「こんなに頂いていいんでしょうか。なんだかお世話にばかりなってる気が」
「いいんだよ。このボクの前で遠慮はいらない」
「いいから早く食べよーぜー」
フィギムはスープに口を付けると、
「えっ」
弾かれたように口をカップから離した。ボクは匙を止めた。あっという間に飲み干した。
白パン、チーズ、燻製肉、我を忘れたように食らい付いた。
一通り食べ終えると「こんなに美味しいものは初めて食べました」と言った。ボクが呆然としているのを別の意味に感じ取ったらしく、フィギムは両手を膝について俯いた。
ボクはフィギムのカップにスープのおかわりをなみなみ注いだ。
ジャギーちゃんは食べかけのパンをフィギムの皿に乗せた。
次の日も、その次の日もボクは穴を掘った。
フィギムが嫌そうな様子を見せないので、ボクは思いつきの流れるまま質問をした。
ジャギーちゃんは黙々と仕事をした。
「墓守の仕事はどれくらい続けてるの?」
「二年くらいです」
「墓守以外に何か活動してた?」
「食糧の補給には力を入れてます」
「今までに何人埋葬した?」
「200人程度ですね」
「普段はどんなもの食べてたの?」
「トラックに乗ってみてもいい?」
「ぶつけないでくださいね」
「砂芋があるなら岩芋もあると思う?」
「土芋はありますよ」
ママはいつもボクに大量のご飯を持たせてくれるから食事の心配はいらない。
食事の後はフィギムと談笑する。今日のボクらは特に夜更かしだ。
ジャギーちゃんは既に就寝している。こういうところはまだ子供らしいと思う。
「今日は外で話さない?」
「わかりました。良いですよ」
「決定だね。早速出よう。あ、ちょっと待ってね」
ジャギーちゃんを起こさないように寝室からボクのリュックを持って来た。
「ボクはいつもあの粉を持ち歩いてるんだ」
リュックからあの粉とミルクを取り出した。
「ココアを持って行こう」
「うー、寒い寒い。まだ着かない?」
「もう少しですよ」
フィギムに星が綺麗に見えるところまで連れて行くからそれまで目を瞑って欲しいと言われた。ボク目ないけど。意図的に視覚を遮断することは出来る。
「フィギム手ぇ冷たいね」
「カルロさんがあったかいんですよ」
ここからしばらく階段です、とフィギムが言う。何段も何段も脚が軋むくらい昇った。
「もう目を開けてもいいです」
ようやくか。ボクはゆっくりと視界を開いた。
ボクの住む世界でも星は見える。大都会と言うほどではないが、夜にも建物の明かりはある。けれど今この世界には人口の光など一切存在しておらず、星だけがただ煌々と何者にも邪魔されることなく光っていた。文明崩壊後の、終末世界ならではの悲しさすら孕んだ美しさだった。
「ここは……」
「中央軍本部の屋上です」
星空が近い。ジャンプすれば幕に触れそうだ。嘘だ、ジャギーちゃんでも無理だ。
「初めて見たよこんな綺麗な星空」
またしばらく空を見つめた。ココアがあることを思い出した。魔法瓶からマグカップに注いだ。
チョコレートの香り。甘みと少しの苦味。お湯ではなくミルクで溶かしたので味が柔らかい。それに温かい。温かさが血流に乗って全身を巡ったみたいだ。
フィギムは火傷しかけてたけど次第に慣れたようだ。緩んだ笑顔で両手でカップを抱えている。ココアも気に入ってくれたらしい。
「ボクが三歳のときから眠れないときにはこれを飲んだんだ」
「三歳? 私が同じ歳の頃は既に戦時中でココアなんて高級品ありませんでした」
おっと失言だったかな。最初からあんまり隠す気なかったけど。
「カルロさん達はどこから来たんですか? この街の人ではないですよね」
ボクは少しだけ考えて。
「とても遠くから」
とだけ答えた。
「じゃあ納得しないよね。実は、ボクはこことは別の世界から来たんだ」
「は?」とフィギム。
「ボクは『多世界調査機関』所属の調査員なんだ」
「たせかいちょうきかん?」
手帳に「多世界調査機関」、と書いて渡す。
「実は世界はここだけじゃない。他にもたくさん無数にある。それらを調べることを目的としている組織だよ」
フィギムの顔にはまるっきり理解不能と書いてある。まあそうだろうね。
「別に信じてくれなくてもいいんだよ
「上手い言い訳が思いつかなくてさ
「それに、キミには質問してばかりもなんだから、ボクからも秘密をひとつ明かそうと思って
「キミになら話しても大丈夫そうだし
「あ、このことはジャギーちゃんには内緒ね」
調査員であることをバラしたとバラしたら怒るからね、絶対。
「何しにこの街に来たんですか」
「もちろん仕事の為だよ」
「私に接触したのも仕事ですか」
「ボクの意思だよ。仕事先で友達を作っちゃいけないとは言われてないからね」
個人的な興味が大きいけどね。
「調査員として質問するね。この世界がこんなにも閑散と、というか荒涼としているのは、フィギムひとりになったのはどうして?」
「それが……よくわからないんです。はっきりとしたきっかけの様なものは」
ぎゅっと眉根を寄せた。
「銃を撃って撃って、穴の中で眠って、気づいたら誰もいなくなってました」
曖昧だな。凄惨さは伝わるが。
「学校で歴史とか学ばなかった?」
「学校ってなんですか?」
「子供たちが学びを得たり、他者と交流したりする所だよ」
「とても楽しそうなところですね。実は私は読み書き出来ないんです。自分の名前しか書けなくて、そういうのとても憧れます」
友人もいませんしね、と続けた。
ボクは何と言うのが正解か考えあぐねた。沈黙が痛くて、とりあえず 頭の中にあった疑問をぶつけた。
「フィギムに家族はいたの?」
馬鹿。もっとマシな話題は無かったのか。
「はい。両親と弟と妹が二人づつ」
「そっか、一番お兄ちゃんなんだね」
「……カルロさんは?」
「ボクはね~ひとりっ子。パパとママの愛を独占してるよ。もうでろでろに甘やかされてる」
フィギムは曖昧に笑った。
「弟や妹がいるってどんな感じなの?」
「そうですね、私の場合は全員歳が離れてて小さい子ばかりで、私がいつも世話をしてました」
「大変そう。偉いねフィギム」
「いやいや、両親が忙しくて私に役割が回って来ただけです」
「君のご両親はどんな人?」
「働き者でした。母はお腹が大きくなってもほとんど休まないくらいで。父は工場で夜遅くまで働いてました。今思えば、そうでもしないと生活が成り立たなかったんでしょう」
そこまで言い切って、ココアを一口飲んだ。
「私が軍に入ったのも家族の為で……両親の収入だけでは生活が苦しくなりまして」
ママの料理にあんなにがっつくくらいだ、困窮の具合は相当なものだろう。養われるべき立場にあるはずの子供が他者を養うために働くのはどんな気持ちだろう。
「九歳で軍に入って以来、こうしてまともに空を眺めたことなんてなかったなあ……」
そう言って、星空を仰いだ。
「待って、君は今何歳なの」
「十五です」
嘘だろ。
「ボクより年下じゃないか」
ボクはいよいよ何も言えなくなった。ココアに逃げる。熱はすっかり外気に抜けてぬるくなっていた。
「カルロさんはいつまでここにいるんですか?」
本当ならもう帰っていい頃だ。調査員の仕事はもうほとんど終わってる。
「そうだなあ……フィギムの墓守の仕事が一段落するまでかな」
とりあえずはそう言っておこう。
「冷えて来たね。ココア効果もここまでかなっと。今夜はもう戻ろうか」
「……そうします」
魔法瓶の蓋を閉めた。
フィギムが郊外に行くと言ったのでボクもついて行くことにした。死体を回収するそうだ。
かろうじて形の残った高層建造物の隙間を歩く。足を踏み出すごとにパキパキと音が鳴る。道路は残骸まみれだ。
「フィギムはここの人達を全員埋葬したら、その後はどうするつもりなの?」
フィギムの歩みが止まった。しばらく考え込んでるようだった。
「そうですね、食料の問題もありますし農業でも初めてみようかと思います」
靴紐が解けたから先に行ってくれとフィギムが言った。
ほとんど雑草すら生えないこの痩せた土地で作物など育つのだろうか。
フィギムがなかなか歩き出さない。ボクは振り返る。
靴紐は結び終わっていなかった。だらりと地面に鎌首をもたげているばかりである。
もごもごと唇を動かした後、にわかに喋りだした。
「僕は両親のことが嫌いでした」
「ひとりで歩けるようになってからずっと家族の面倒を見ていて
「不謹慎ですが、心のどこかで解放されたとも思っています
「もう愛国者として振る舞うことも、お兄ちゃんを押し付けられることもないですから
「僕はもう十分です」
満ち足りている。これ以上はいらないと言う。
でも、ボクから見ると今のフィギムもあんまり楽しそうじゃないよ。
「今が一番幸せなんです。だから」
みしりと音が確かに聞こえた。
まずい。直感でそう思った。
上を見るまでもなく落ちてくることが分かる。
どうして逃げないんだ!
ボクは走った。影はどんどん近づいて来る。
フィギムをほとんど体当たりの様にして抱きかかえる。右手をフィギムの頭に、左手を自分の後頭部に寄せ、伏せる。
全く身構えていない方向、真横から鋭い衝撃がやって来た。
吹っ飛ばされる直前の一瞬見えたものは、ジャギーちゃんの青い脚だった。
数秒間宙に浮き、落ちて地面とぶつかり、しばらくコンクリートで背中をザリザリと研磨した。
生きてる。
全身が痛い。
少し痛みが引いたので立ち上がった。腰を打撲しているようだ。
ボクらが立っていた場所には元々の形を失ったコンクリートと鉄の山が出来ていた。バラバラとその山が崩れ、中からジャギーちゃんが出てきた。
ツカツカとこっちに歩いて来て、さらにギョロ目がぐいーっと近づいて来た。
第一声。
「っっっとに馬鹿かお前は! えぇ? カルロ」
「ごめんジャギーちゃん! あはは、ごめんて」
ジャギーちゃんがポコポコ、いやボコボコと殴ってくる。痛い。
ジャギーはため息吐いて、
「なあ、カルロよお」
「何? どしたのジャギーちゃん」
「もう帰らねえか」
「えーもうちょっといようよ」
「潮時だよ。お前もうボロボロじゃんか」
「うーんその通りなんだけどさあ」
地面に腰をつけたまま呆けているフィギムに話しかける。
「フィギム、無事? 怪我してない?」
反応が無い。しゃがんで顔を合わせ肩を揺らして、もう一度話しかける。
フィギムはボクから顔を背け、
「どうして助けたんですか」
と、言った。
「フィギムを死なせたくなかった」
「僕はこれ以上生きたくなかった」
どうして、と呟いて、膝小僧に顔を埋めた。
心臓が掴まれたような心地がする。
困ったな。
ボクは彼にどんな言葉をかけるべきか、思考の波の中にあるアイデアがちらちらと浮かんで来た。
肩に手が置かれる。顔を傾けるとジャギーちゃんの真一文字に結ばれた口と眉間の皺が見えた。
「お前妙なこと考えてるだろ」
「バレたかー。さすがジャギーちゃんだ」
「茶化すな」
「だってもう、ほっとけないでしょ」
「あまり同情で他人を助けるなよ。……あたしが言えた義理じゃないけどさ」
ジャギーちゃんはため息吐いて、両手を挙げた。
後はもう何も言わないという意味だろう。
ボクはフィギムの名前を呼んだ。
「顔を上げてよ」
フィギムは顔を僅かに動かし、目だけこちらを向けた。
「フィギム、転職する気は無い? 子守り墓守よりもワリのいい仕事があるんだ」
次に続くセリフの為にボクは息を吸い込んだ。
「多世界調査員って言うんだけど」
と、ボクは言った。
「そう言うと思ったぜ。どうだろうな、婆は許すだろうけどあいつはどうだか」
「人手は欲してるだろうし、なんだかんだ言いながら採用してくれるよ」
ボクは再びフィギムに向き直る。
「研修期間は二年から五年、読み書き出来なくても一から百までみっちり教えてもらえるよ。給料は基本給に加え成果によってボーナスあり。服装は自由。一日三食。職員寮は個室。その他福利厚生はばっちり。どうかな?」
一息で言い切った。
「僕なんかでも、務まるでしょうか」
「わかんない。……けど、フィギムはこの世界にいたままじゃ駄目だと思う」
カルロの言う通りだ、とジャギーちゃんが言う。
「生きたいとか死にたいとか、そーいうのはもっとたくさんの世界見てから決めろよな」
ふんす、と鼻息荒く仁王立ちのジャギーちゃん。
「さすが、五十六歳が言うと貫禄違うね」
「まあな。でも人間としてはカルロの方が年上だろ」
「そうとも言えるね。ほら人間先輩だぞ敬えー」
「パワハラでババアにチクるぞ」
茶番はこれくらいにしておこう。
「……それで、どうする?」
ボクはフィギムを見た。
「決めました」
フィギムは立ち上がった。
無宗教だが無神論者じゃない
フィギムは荷物を背負うと、最後にシャベルを持った。
ドアノブに「多世界調査機関」のIDを入力する。黒いもあもあ、ゲートが出現した。
ジャギーちゃんが「先に行け」とでも言うように手を振った。
ゲートの前に立つ。フィギムは両手を合わせながらゲートを見つめていた。
「大丈夫」
手を差し出す。フィギムはおずおずと手を伸ばし、繋ぎ返してくれた。
ゲートの中に入る。
最初は何も無い道を歩いている、進むとだんだん足元がふわふわしてきてそのうち全身の感覚がふわふわになる。意識が朦朧とし、視界が曇る。自分の全てが浮いたような感覚。ボクはこの感覚が好きだ。
視界が急に明るくなった。ゲートを抜けた。
暑くも寒くもない。空は青く、天から柔らかな光が注いでいる。
「ようこそ多世界調査機関へ」
ボクは芝居がかった動作で両手を挙げた。
「後ろ手に見えますは先程ボクらが出てきたメインゲートでございます」
巨大な白い柱があり、二本づつ上部がアーチ状に繋がっている。馬鹿でかい門だと思ってもらえればいい。
「ボクの約六倍の大きさです」
ボクは両手は挙げたままターンした。
「向こうにあるやたらデカい建物が本舎です」
芝生を格子状に区切るレンガ道の先に本舎がある。
それは既成のものでは例え難い建築様式だった。
巨大なロの字型をベースに凸と凹が規則的に配置され幾何学模様を成している。高さも面積も大きく、威圧感すら与える。誰の趣味でこんなになったのかは知らない。ボクは嫌いじゃないけどね、このデザイン。
「やたらと大きいですが万年人手不足のため、人口密度は著しく低いです。それでは本舎の中に入ってみましょ、てジャギーちゃん?」
ジャギーちゃんが徐ろにゲートを操作し始めた。
「それじゃあたしは拠点に帰るぜ」
「ありゃ、帰っちゃうの?」
「ああ、お前らをここまで送れば十分だ」
ゲートが出現した。ジャギーちゃんは手を、次に脚を突っ込んだ。巨大な黒面が揺らめく。
慌ててフィギムが叫んだ。
「ありがとうございます!」
ジャギーちゃんはちらと視線をフィギムに向け微笑んだ、ひらひらと揺れる手がゲートに吸い込まれた。
「じゃ、行こうか」
レンガ道を歩き、正面玄関へ。
いつものように受付嬢に挨拶をし、ついでに美貌を誉めそやす。ネイルの色が新しくなっていたので似合っていると言っておいた。
外側はあんなんだが、中の構造は比較的わかりやすいものになっている。ただめちゃくちゃ広い。廊下を歩き、階段を上り、何度か曲がって、そこに辿り着いた。
人事部のプレートの付いたドアを開ける。
四方全面壁一面の棚。その全てにファイルがぎっちり詰まっている。職員のプロフィールやら、年間収支やら、はたまた幸福度アンケートの結果やら、多世界調査機関に関するデータが入っているそうだ。
何人か職員がいるが、ボクが用あるのは奥のドア。ノックする。
「すいません。ボクです、カルロッタ・ヴィルガです」
「入ってらっしゃい」
ドアノブカバーの付いた捻りにくいノブを回す。
銀縁の眼鏡をかけた老人と言っていい年齢の女性がいた。
シニヨンに結われた髪はすっかり白髪で覆われており元の色はわからない。しかし、濃い青紫の目は未だ若々しく理知的な光をたたえていた。まとめると、まだまだ現役のお婆姉様。
「こんにちはミス・バルチェ。」
「こんにちはカルロッタ。あらもう、ボロボロじゃない髪もメチャクチャ」
「へへー、ごめんなさい」
「それに、後ろに隠している子は何?」
「未来の調査員候補ですよ」
フィギムはおずおずと背中から出てきた。
「初めて会う人にはまず挨拶をするものです」
「あ、えっと、フィギム・チェルヒノフです。よろしくお願いします」
「初めましてフィギム。私はミレーユ・バルチェ」
ミス・バルチェはさっと立ち上がってあちらこちらの引き出しから書類を取り出す。
机に戻り、羽根ペンをインクに浸した。
「綴りはこれであってるかしら」
「……はい」
「出身は」
「トロマスクワです」「あー、BIH1906です」横から補足を加えた。
ミス・バルチェはコンピュータ端末を叩いてしばらく目を走らせた。
「残りは私が処理しておきます」
「お願いしまーす」
「それからカルロ。貴方には後できっちりと始末書と反省文を書かせますからね」
「……はい」
ドアノブに手をかける。
「もうひとつ」
「まだ何か?」
「まず医務室に寄りなさい、貴方傷だらけよ。行ってらっしゃい」
きっちり扉を閉めて、人事部のドアから十分離れたところで口を開く。
「さっきの人はね、ミレーユ・バルチェ。ミス・バルチェだよ。人事部主任というよりは生活指導とか教育係ってかんじかな。怒らせると面倒だよ」
反省文コレクターの二つ名を持っていると付け加える。
「まずは寮に行こうかな、とりあえず荷物を下ろした方がいいし」
「医務室はいいんですか」
「ミス・バルチェは心配して言ってくれたんだろうけどボクは平気だよ。あ、フィギム痛いとこあるの?」
「いや、無いですないです」
フィギムは首と手を横にぶんぶん振った。
まだ何か言いたげだったけどボクは気にしないことにした。
職員寮は本舎とは別の棟にある。
「そしてここを曲がった先の廊下を行けば寮が、ぐ!」
長身の女性とぶつかった。ボクより背が高い。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「ああ、気にしないでくれ」
その人はほんの少しも不快な素振りを見せず、立ち去った。
「ここの角、さっきみたいによく誰かとぶつかるんだ。フィギムも気をつけてね」
「先程の方、とても大きかったですね……女性なのに」
「ボクの住んでるとこなんかもっと背の高い人がいるよー」
「え! そうなんですか」
「そのうち案内したげるよ。ボクの故郷を」
職員寮棟に着いた。人気が無い。
ずらりと並ぶドアの中、使用者のいない個室がほとんどなので、日当たりの良さそうなとこを選ぶ。
シンプルな内装だ。ベット、机、棚など最低限の家具が既に置かれている。
「たいていの生活用品は申請すれば貰えるし、その他欲しい物があったらこの先給与で買えばいいよ」
フィギムは部屋の設備をひとつひとつ検分していき、最後にベットに腰掛けた。スプリングがたわんで体が跳ねる。
「いい部屋でしょ。シャワーにキッチンまで完備されてるんだぜ」
「こんなに立派な部屋を使わせてもらえるなんて、感動です」
「まだ研修生とはいえフィギムはもう立派な多世界調査機関の一員だからね。福利厚生ばっちりってのは嘘じゃなかったろ」
フィギムは頷いた。奇妙な間の後、口を開くことには
「僕に死んで欲しくないと言いましたよね。どうしてです?」
どうしてか、か。理由は明白だ。
「フィギムとまだ話したかったから」
ボクの好奇心は満ちていない。
「そうですか……」
フィギムは思案げに目を閉じて、立ち上がった。
「カルロさんが初めてです。僕みたいな生き残りの死に損ないを。僕自身を求めてくれたのは」
右手を胸に当てた。敬礼だろうか。
「ありがとうございます」
さらに深々とお辞儀をするフィギム。
全身があったかいような、くすぐったいような心地だ。
「や、どういたしまして。ボクは大したことはしてないのにそこまでされると照れちゃうよ」
「そんなことはありません」
一歩こちらに近づいて来た。うわ近い。目が近い。
「あの時カルロさんに助けてもらわなかったら僕はあの世界に取り残されていました。それどころかカルロさんと出会わなければ」
フィギムの頬は紅潮している。おいまてちょっと変だぞ。
「ん、おおお、うう……」
さすがにちょっと怖い。
「ボク、ミスバルチェ呼んでくるねー!」
さかさかと部屋から出、後ろ手にドアを閉めた。
額に浮いた汗が穴の縁を伝った。
壁にべとっと頬を貼り付けていたら、頬どころか半身まで冷えた。
局長室前の廊下で、壁にもたれて思案に耽ってるせいだ。この部屋に入るのを渋っているせいとも言える。
重厚感のある両開きの扉。プレートには「局長室」とある。
調査が終わったら必ず局長に直接報告しなければならない。多世界調査機関の数あるルールのひとつだ。
ルール、規定、規律。重要だけど厄介なものだ。
深呼吸してから取っ手を握る。息を吐きながら扉を開けた。
上下左右の方向にだだっ広く、白い部屋。
足音があまり響かないよう気をつけながら、コンクリートとも大理石ともつかぬ石の床を歩く。
部屋の中央に背筋を伸ばして立った。何もない空間に向かってボクは声をあげる。
「BIH1906の調査報告に来ました」
「ご苦労」
最初からそこにいたかのように、局長はボクの目の前に立っていた。
神という存在がいる。それは世界を作ることができるらしい。しかも自分の好きなように。実はそんな訳分からん規格外の存在が存在しているんだよ。
しかし、世間は広いか狭いか。もちろん世界は多い。
今目の前にいる局長がこの「多世界調査機関」を世界ごと作った神である。
軍帽、白手袋、狩衣、ブーツという奇妙な服装をした男性。
そしてさらに奇妙なのが、この人が異様に美しいということだ。
琥珀色の瞳と長い睫毛の目やら、男にしては赤い唇やらが恐ろしく調和のとれた位置に並び、蝋のような肌には微塵も余計な、凹凸、シミやホクロすらなかった。その現実味のない美しさが人ならざる雰囲気を助長させていた。初めて局長と会ったときは「彫刻や鏡でもこの人を完璧に模すことはできないだろう」と思った。
下手に言葉を並べると陳腐になりそうだからここら辺でやめとこう。まとめると変な格好した美丈夫である。
「遅い。時間がかかり過ぎだ」
局長はいつもの隙の無い真顔でボクを見る。ボクは局長の美貌に感心したことはあっても感動したことはない。
「ちょっと気になることがあって、すみません」
「……だろうな。へえ、あそこ滅んだのか。」
ボクはまだ調査について具体的なことは何も話していない。いつも通りいつのまに頭の中を読み取られたのだろう。
ボクが見たこと聞いたこと、匂いや触覚までボクの記憶から引き出し、読むことができるらしい。ボクは気にしないけど、これはプライバシイを侵しているのではないか。
「それで、なんで生き残りの少年兵をここに連れてきた」
「放っておけなかったからです」
「今のは新手の冗談か?」
ボクが局長を苦手としているのは、神だからでもなんでも出来るからではない。そもそも局長はなんでも出来るけどなんでもはやらない。理由はもっと単純だ、偉そうだからだ。
事実、局長はボクより偉い。
「他世界から人を
なんだろうなー、局長はボクより20cm大きいくらいなのに、それより巨大に感じられるんだよな。
ボクは腕を組んだ。できるだけ傲然な態度を心がける。
「時間が惜しかったんです」
「……そもそも何故少年兵に接触したんだ」
「好奇心を抑えられませんでした」
局長は苦虫を噛み潰したような顔になった。端正な顔は歪んでもなお綺麗だ。
「常々思っていたが、お前は無駄な行動が多すぎる。何故いつも命令通りに動かないんだ」
建物内の温度はいつも適温を保っているはずなのに、この部屋は妙にひんやりとする。
「……すみません」
顔を逸らしてしまった。
「いいか、多世界調査は旅行じゃないんだ。」
天啓のように、神託のように、局長は言う。
「規律は守れ」
局長の一段低い声が音と文字になって頭に染み入る。
「まあいい。必要な分の仕事はしてあったしな。残りの調査は他の者に引き継ぐ」
「わかりました。それで、次の調査の方は?」
「無しだ」
「はあ?」
何を言ったのかよくわからなかった。「ナシダ」? ボクには判別不可能な高度な言語か。
「謹慎しろ。一ヶ月の間、調査員としての活動は禁止だ」
「そんなあ! それは勘弁してください」
ボクの悲痛な叫びを遮るように局長は指を鳴らした。
パチン。
足に僅かな衝撃。真っ白な部屋から視界の急変化。別の場所に飛ばされたみたいだ。どこここ?
足元にティーカップと角砂糖が有る。地面には幾度なく見慣れた木目。空にはいつもより近い位置にある照明。それと、椅子に座った誰かさんの顔が見下ろせる。なるほどね。
ボクは今テーブルの上に立っていた。しかも土足で。
「あー、こんにちは?」誰かさんが喋った。
「初めまして、こんにちは」条件反射に挨拶を返す。
誰かさんはティースプーンを弄びながら、やや八の字眉の顔でボクを見上げている。
おそらく男性、歳はボクより上。髪は亜麻色、瞳はシャモワ。顔の三分の一は包帯に覆われ、晒された左目は不信そうに細められている。頭から黒い角がボクから見て左側に一本右側に二本、左右非対称に生えている。
まずはティータイムに突然テーブルの上に出現したことを謝るべきか。お互いに動かずにいるところ、膠着した空気を扉を開ける音が断ち切った。
この部屋に入って来たやや長身の女性、その青い目を見てボクは大口開けた。
「あ、ただいまシーラ」
「おかえりカルロ」
人や物が行き着いては流れ行く世界 「拠点」の管理人シーラだ。
青いベレー帽、白い髪、伏し目がちの柔和な顔。
ハイネックのシャツに何処にでもあるパンツ。
靱やかな肢体に気品と安心を混ぜた雰囲気を纏わせている。まとめると拠点の美人管理人。
いつだったか、初めて見たときは幼心にどきまぎしたものだ。
ボクはシーラのことを今まで見た中で一番綺麗な者だと思ってた。それも局長と出会うまでだけど。もっともシーラの方がずっと現実味と親しみがある。
「机に靴の汚れを擦り付けるのが最近の流行りなのかしら? カルロ」シーラの声が僅かに低くなる。
「すみませんでした」
慌ててテーブルから降りた。
「この子誰?」
「私の大切なご友人ってところかしら」
「カルロッタ・ヴィルガです」
手を差し出す。
「へえ。意外だね。君の友達にこんな幼い子がいるなんて」
握手はスルーされた。
「新しいお客さんが来たなら、僕は帰るとしますよ」
椅子の背に掛けていた黒い上着を羽織った。
「あら、気を使わないでいいのに」
「ボクも気にしません」
むしろ歓迎だ。彼が何者なのか気になる。
「はは、残念だけど僕は初対面の人と話すのは苦手でね」
彼は居間の隅のドアに手をかけた。管理棟の常置されているゲートのひとつだ。
「またねシーラ。ヴィルガくんは……また会えるといいね」
そう言って、ゲートの中に姿を消した。
居間にはシーラとボクの二人になった。
「あの人は?」
「ご友人ってところね」
この居間は管理塔の中でも、シーラの居住区、かなり私的な場所だ。となるとさっきの友人とやらはかなりシーラと親しいのだろう。
「調査お疲れ様。紅茶を入れるから座ってて。いい茶葉をもらったの」
シーラは居間を出て行った。
背負っている荷物を床に下ろした。
上着を汚れている側を中にして畳み、隣の椅子に置く。
椅子に座り、テーブルをすべすべと撫でる。数週間ぶりに腰を据えた気分だ。
頬も付けてすべすべすると、木に混じって紅茶の匂いがした。帰って来たな、と思う。
ここはボクの出身地であり、ボクらの居住地としている世界「拠点」の管理棟だ。
この世界に来た者はまず必ず管理塔を訪れることになる。
二度も言うけど、シーラはこの世界の管理人だ。本人は「管理人と言うとかっこいいけど実際は役所の仕事みたいなものだよ」と言っていた。
ひとりになるとこの建物はまったく静かだ。
一からお湯を沸かしているのだろう、シーラはなかなか戻ってこない。数える天井のシミもないので、テーブルの木目を指でなぞる。
やっとシーラがトレーを持って戻ってきた。
「ごめんね。急に電話が来ちゃって」
トレーにはティーポットとカップとフィナンシェが乗っている。
「また裁判長さん?」
「ええ、あの人難しい判決はいつも私に相談するから」
ポットを持ち紅茶をカップに注ぎ始めた。さすがシーラ、紅茶を入れる所作も優雅で絵になる。
「そのヘルメットどうしたの?」
「あ、これ借り物なんだよ」
ヘルメットを外して隣に置いた。
ボクの前に紅茶が置かれた。ティーカップに描かれたルピナスが視界に入る。ボク専用と言ったら図々しいだろうか、シーラがボクに紅茶を入れるときはいつもこのカップだ。
ボクは角砂糖をひとつ入れるなりカップを煽り 、紅茶をごきゅごきゅと喉に流し込む。
マナー違反も上等の勢いでカップをソーサーに置いた。椅子にもたれ、はぁ~、と声を垂らす。
「局長にお説教されたあ」
「あら、今度は何をやらかしたの?」
シーラも椅子についた。いつもは伏せられた目を開いてこちらを見ている。
ここに至るまでのなんやかんやを話した。あの終末世界のこと、フィギムのこと、フィギムを調査員にスカウトしたこと、局長を怒らせて停職くらったこと。
「あはは、相変わらずカルロ全開って感じね」
笑うなよ。ボクは今モヤモヤしてるんだぞ、一ヶ月仕事できないんだぞ。フィナンシェを齧る。甘みとバターの香りが口腔に広がった。
「でも貴方があの人に叱られりなんていつものことじゃない」
「今回はいつもよりキツかったんだよ。フィギムの態度も引っかかるし」
次のフィナンシェを手に取る。ばくり。
「ボクは自分のしたことを後悔するつもりはないけど」
ばくばくばく。フィナンシェはなくなった。
「ああも怒られると取り返しのつかないことをやらかした気分になる」
シーラはボクのカップに二杯目の紅茶を注いだ。
「失敗したような気持ちになるのね」
甘みに染まった舌に紅茶はよく合った。
「しかも一ヶ月謹慎なんてボクはどうなってしまうんだ」
「今はお茶を飲んで落ち着きなさい。カルロなら大丈夫よ、きっと」
「何の根拠があって言ってるのさ」
体に染み付いた疲れも、もやもやと絡みつく思考もダージリンの香りとシーラの声音に溶かされ、消えた。
後日フィギムから手紙が届いた。
もう、手紙の書き方や拠点のIDを調べたのだろうか。
フィギムのボクへの友情は予想だにせず重かった。だって20枚くらいあるんだよ、手紙。
やたら感嘆符が多い。手紙の端々を拾うと、なかなか楽しく研修ライフを送ってるみたいだ。
おっと、追伸を読んでなかった。えーと、「カルロさんの御髪を一房、いいえ一本でも構わないので僕にいただけないでしょうか 貴方の友フィギムより」…………。
うん、ヘルメットを返すのはもっと後で良いね。
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