深海ゆるふわ日常

海沈生物

プロローグ

 『異世界転生』というものに興味を持った。いくつかの文章を読んだ限りだと、それは現実世界での死によって異世界に転生する、というものらしい。多くの文章では、チート能力を持つことで無双したり平和な生活を送るのが主人公の目的とされていた。ただ、僕が異世界転生に興味を持った理由はそこではない。


『この世界から逃げたい』


 異世界転生をして何かをしたいというわけではない。むしろ、奴隷として蔑まれたり暴力を振るわれてもいい。そのまま、名も知れない人間として野垂れ死んでもいい。ただ、僕が望んでいたのは逃げて”役に立ちたい”ということだけだった。

 だが、異世界転生なんてそんな簡単にできるわけもない。もしもトラックに跳ね飛ばされるだけで異世界転生ができるのなら――日本の自殺者数を見る限りだと――異世界の人口の一割弱は、異世界転生者によって埋めつくされているだろう。それは僕にとって、絶対的に好ましくなかった。……そう思う”理由”があった。


 そこで、あるネットの眉唾かつ素っ頓狂な噂を試すことにした。自家用ジェット機と船を乗り継ぐこと、数日。約10920mの世界で一番深い海溝である、かのマリアナ海溝にやってきた。そのネットの噂にはこうあった。


『マリアナ海溝のもっとも深くには、異世界への扉があるらしい』


 ネットの掲示板のことだから、本当に眉唾ものだ。ほぼ虚構だろうし、実際、何も知らずに連れてきてくれた使用人さんたちは「そんな話を信じるのはやめましょう」とか「お父様も、本当は」と僕を説得してくれた。でも、もう決めてしまったのだ。

この世界には僕の求める希望がない、と。


 僕には才能がない。お父さんが求めるような勉強の才能も、芸術的な才能も。器用貧乏、というやつだ。こういう時に友達でもいれば良かったが、生憎、女子のグループ的人間関係というものに馴染めなかった。ただそれなりはできるし家の名前もあるから、愛想で挨拶をされる程度はあったのだけれど。

 その一方で、”あの子”……僕の妹がいた。彼女は僕と違って才能に恵まれており、それがかえって僕の居場所の無さを目立たせていた。光と闇、なんてもうありふれた対比だが、僕はどうあがいても闇の世界から抜け出すことができなかった。

 

 甲板の先、海を臨むとそこはどこまでも続く蒼だった。波がさざめき、陽光にキラキラと輝く海。時折、サメなのかタコなのか分からない生き物が奥底で動いているのが見える。


「それじゃあ、絹さん、義三さん。これは突然僕が足を滑らせた事故死……ってことで、処理をお願いしますね」


「坊ちゃまの決心は分かりました。……ですが、お父様は」


「……どうせ、お父さんは僕をもう必要としていません。お母様もお父様の言いなりです。だったら、僕にこの世界で生きている意味はありませんから」


「しかしですなぁ、坊ちゃま。イセカイテンセイ、など低俗な大衆文学の世迷言を真に受けすぎではないでしょうか? このまま何もなく死にますと、かのドン・キホーテのように、一族の恥になりますぞ?」


「だからですよ、義三さん。……このまま生きていても死んでいても、僕は一族の恥なんです。だから、この立場を捨てられたら、それで良いんです。そのまま死んだら……その時、なんですから」


 僕が精いっぱいに微笑んでみると、二人はそれ以上何も言ってこなかった。二人には幼い頃から、姉妹もろともよくしてもらっていた。せめてちゃんと事故死と判断されて、自殺幇助なり殺人なりの罪がかからないことを願うばかりだ。

 二人に背中を向けると、海を改めて臨む。もしも生まれ変われるのなら、今度はいっそ社会の最底辺に生まれたいな。

 そんな淡い願いを心に込めて、蒼く揺蕩う海へと身体を投げだした。

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