A Dancing Universe-3

せき みわこ

「人生設計、変更」

チアキは、探している。

空はまだ明るいが、きっと幽霊のように白く浮かぶ月が、どこかにあるはずだと。

昨日の紙のように薄い三日月に比べれば、今日はもう少し見つけやすいはずなのだが。

「吸わねぇのか。」

チアキの指に挟まれたタバコが、今日も一度も吸われないまま尽きていこうとするのを見かねて老人が尋ねる。

この無口の新入が、休憩時に必ず火を付けるタバコに口をつけるところも、笑顔で雑談をする姿も、まだこの職場の誰も見たことがない。


火が、その命がチアキの手の中で尽きた。途端に、周囲から冷たい黒煙が這い出し、チアキの肺に充満し始める。タバコは短い。その短さに、憎悪する。黒煙は、柔らかい肺を一気に燻し焼き、半分ほどの大きさまで固く縮める。次第に煙は脳まで達し、目に染みて涙が滲む。震え出すのを抑えるため、吸い殻を握りつぶし、隣の老人に穏やかに返事を返す。

「吸ったら意味ねえんす」

「はあん?吸わなかったら意味ねんだろうが」

「いや、副流煙を吸いたいんす。

自分が吸ったら、意味ねんす。

むかし、親父が吸ってたもんで。」



「ただいま」

ぼそっと低いチアキの声に、ナルミが鶏肉をひっくり返す手と上機嫌な鼻歌を止めて、玄関の方を振り返る。

「ごはんだいたいできてるよぉー」

「風呂行く」

こちらを見もせず玄関からまっすぐに風呂場へ入った様子を見届けると、ナルミは再び軽やかな金属音と鼻歌を奏で始める。水と油が相まって蒸発する音が強まっていく。


無念と矛盾が滴る虚ろな黒墨色の髪に、柔軟剤が効いたミルク色のマシュマロを被り、下着のまま食卓に座る。椅子がポキリと鈍く軽い音を立て、自分にも体重があったことを知らされる。

その木製の椅子とテーブルは、表面塗装が剥げかかり白茶けている。木は、チアキの髪から落ちる滴と湯上がりの太ももの湿気、そして今目の前にドンと置かれたビール瓶の汗を徐々に吸い込んで、そこだけ濃いシミを作っていく。どれほどの年月が経ったのか。14年という数字じゃない。ここの住人の14年は、どれほど長く、どんな思いをこの木に染み込ませてきたのか。チアキには想像もつかないので、考えるのをやめた。

「ビールぬるくなっちゃうよ?」

思考が重い。食欲など微塵もないが、料理人に悪いのでとりあえず目の前の箸を手に取る。年季が入った安物テーブルとは対照的に、弱まってきた採光を上品に反射するその焦茶の箸は、まだどこも削れていない。チアキは機械のように小鉢に手を伸ばし、中の茶色い何かを摘む。それは上下の歯の間でぐにぐにと潰れる。

「味、少しはわかるようになってきたぁ?」

ナルミがキュウリを細切りにするためチアキに背をまま、まるでなんてことのない日常会話のように尋ねる。心配を隠したその声は、いつも以上に柔らかかった。

チアキの重すぎて回っていない頭は、話しかけられたことを認識するのに数分かかる。

「ああ。

すげぇうまい」

「はははっ」

質問してから随分と間が空いたので、ナルミはおかしくなって笑った。

「いや・・・ほんとにうまい。

今日は、特に。いつも旨いけど。なんか違う」

「気ぃ使わなくていいよ。まだわかんないんでしょ?味・・」

「わかんねぇ」

「やっぱり。焦らなくていいよ、味覚障害なんて、そのうち治るよ」

「・・味じゃ、ねぇんだよ。

・・・いや・・今は、味がわかんねぇから、わかる」

「え?なにそれ?」

「買ったもん食った時とかと、なんかが全然ちげー」

昼光下のチアキは、ヘルメットで蒸れた頭を眩しい青空にさらし、プラスチックフィルムに包まれた米粒の塊にかぶりつく。が、何も感じない。

目の前のダイニングキッチンの雑多な生活臭さは、夏の夕暮れにぼんやり浮かび始め、またチアキの頭の回転を遅くする。本来2人暮らしが定員のこの部屋は、チアキを入れるため懐を膨らませている。家主の体温と体臭に包まれ、ゆっくりと、少しずつ、ナルミがそこに込めた何かを確かめるために、胃袋に馴染ませていく。

ナルミがチアキの前の汗だくのビールを持ち上げた際、多量の水滴が垂れたのを見て、また知らない間に時間が経っていたことに気付く。なんとなく申し訳ない気持ちになる。卓上に底深いシミを作ってしまった。チアキの矛盾を吸い込んだマシュマロタオルで、卓上の水溜りを不器用にこする。

「温度はわかるんでしょう?なら、冷たいほうがいいでしょ」

キンキンの瓶と交換され、栓を開けて差し出される。

「ほら、とりあえず飲みなよ。酒豪が飲まないなんて、どうかしてるよ」

冷たいガラスに口を付け、液体を流し込んだ。しゅわしゅわと弾けて頭を熱くする。・・・足りない。全然足りない。液体は胸まで落ちると、どこかに消えていく。胸にもピアス穴、開けてたっけ。

「なぁ。

ナルさん」

突然、チアキの声が重くなり、ナルは少し身構えてから、何も言わずにチアキを振り向く。

「なんで…俺にメシ作ってくれんの?

なんで…」

「あっ!」

鍋が噴いた。ナルが慌てて熱湯をシンクにぶちまけ、湯気が辺りに立ち籠める。

「なんでだよ・・・」

水道がどばどばと、シンクとチアキの言葉を打ち付ける。

「食いもんなんかなんでもいいだろ・・

あとちょっと生きられればいいんだよ・・

あと一人・・・あと一人だけやったら俺は・・

意味ないだろ・・

そんな奴に・・

なのになんで、ナルさんアンタは」

「え?なに?聞こえなかった!

ごめん、もっかい言って?」

水道が止まる。

チアキの目が据わっている。

キッチンから、この世の一切の音が消えた。

蛇口から滴が、鍋の水へ一滴垂れた。

その音が、ナルにはなぜか急に、血が滴る音に聞こえる。

「親父を殺したのは俺だ」

殺人者の目つきを、ナルは見つめる。

「つもりはなかった。

だが、つもりがあったかなかったはどうでもいい。

俺が投げた包丁が、親父に当たった。

それが仕組まれたことかどうかも、どうでもいい。

殺したのは、俺の手だ。

親父をやったのは、俺だ。

俺を産まなければ・・

俺じゃない奴を産んでれば、あいつらは…

親父と母親は、今ごろ溶けたアイスみたいな顔で孫でも抱き上げてた・・」


ナルミはチアキに駆け寄り両肩を掴み激しく揺らす。

チアキのせいじゃない、そう言いたくて言葉を探すうちに、チアキはリングピアスのはまった唇で薄ら笑いを始めた。

「それなのに・・お前らときたら・・

やったのは強盗だ、正当防衛だ、無罪だあ?

チアキはそんな子じゃねぇ!って?

必死こいて叫びやがって。

バカみてえに・・。

笑いこらえんのがしんどかったぞ」

ナルが涙ぐみ始めた。

「って・・・

世話んなっといて俺は何言ってんだ・・」

居場が悪くなって、とりあえずビールを飲み干す。滴がナルの腕と自分の太ももを伝い、また椅子にシミを作っていく。空瓶は、力ないチアキの指先に必死にしがみついている。ブラブラと揺らされ、今にも落ちてごろごろと床に転がりそうである。

「わりーけど・・。

俺はお前らと仲良しするために生まれたんじゃねぇ。

シュウをやったのも俺だ。うざかったから。腹立ったから。自白は嘘じゃない。俺はお前らが思ってるようなイーコじゃない。冤罪だと信じ込むのもいい加減にしろ。バカは見てらんねぇよ」

ナルミは、柔らかく芯の強い声で即答する。

「チアキは優しい。それでいて強い。辛いことがあっても絶対他の何かのせいにしない。そういうところもゴウさんとユキさんによく似てる。

あの日、実際に何があったか俺たちは見てない。知らない。でも、チアキが何か隠してて、全部自分だけで背負おうとしてることはわかる。うざかったからシュウちゃんを?嘘だってことくらいわかるよ」

「嘘じゃない。隠してることはあるが、嘘はついてない」

「その顔が、証拠なんじゃないの?イーコじゃないなら、なんであれからずっとそんなに悲しそうな、辛そうな顔してるの?」

チアキは反論に困った。

「チアキがユキさんのお腹の中にいる時から知ってるんだ。早く生まれたいって結構暴れて。予定より早く生まれちゃって大変だったんだから・・」

予定より早く・・?

"お前が生まれないように母親を殺したのに・・ほんの少し遅かった・・生まれたあとだった・・!"

そうか、だからあいつが俺を殺しはぐったのか。たまたまか?赤ん坊の俺がいっちょ前に危険を察知したのか?それとも・・

「オムツ替えも手伝ったし、ミルクもあげた。ゴウさんに怒られてべそかいてるのも、初めてバイクに乗っけてもらってハイテンションになってるのも、学校に馴染めなくても毎日店の手伝いするいい子だったのも、知ってる」

「ガキってのは最初は誰も純粋なもんだよ」

「シュウちゃんにそっけなくても、ちゃんと大事に思ってたのも」

「なんでわかる?」

「見てればわかる。いや…見てなくてもわかる。チアキを知ってるから」

チアキは、自分が築いてしまった信頼に追い詰められ、苛立つ。

「勘違いされて親切にメシなんか作ってもらってるこっちの身にもなれよ!!」

怒鳴り声にも、ナルミは毅然と、それでいてバスタオルのようにチアキを包み込む。

「チアキがどんな人でも、俺はごはん作るよ。ゴウさんもきっとそうする」

困った。

一体どうしたものかと、チアキの目は遠くなる。

この人生に、愛してくれる友人も、家族も、いらなかったのに。目的を果たすのに、邪魔だ。もっと詳しい人生計画をしてくればよかった。"くそマンジュウ"に任せたのが失敗だった。

しかし築いたものは壊せばいい。信頼関係など人間社会で一番脆いものだ。これ以上迷惑も心配も、ましてや、自分を取り巻く馬鹿げた復讐劇に、また大切な人を巻き込むわけにいかない。どうしても一人になる必要がある……チアキは矛盾を振り払い決意した。

「もう一人ぶっ殺したい奴がいる」

「・・・・!!」

ナルミがチアキの予想通りの形相に変わる。掴まれた肩が痛い。

「やめなよ・・・!!!

もう子供じゃないんだ!次やったら無期刑・・・

死刑だよ?!」

「死刑か・・そういう手もあったか。

楽でちょうどいいや、用が済んだらすぐ死ぬつもりだった。最初からそのために生まれてきたんだ。親父がいないなら尚更だ。俺のことは忘れろ。

中途半端に情を持たせて悪かったな。これ以上お前らと一緒にいると、頭がおかしくなりそうだ。邪魔するなら殺すぞ」

ナルミがチアキの頬を引っ叩いた。

「クレヤと誓ったんだ・・!

ゴウさんの代わりに、チアキくんを守って育てるって・・・

ゴウさんに誓ったんだ・・!

死なせないよ」

ナルミの鋭い声を、チアキは初めて聞いた。


直後、玄関のドアノブが回る金属音が、チアキとナルの思考を停止させた。レジ袋がこすれる賑やかな音が入ってくる。

「ちぃい〜〜〜〜あきぃいい〜〜〜!!!!!!!

帰ってるかああああ!!!!!!!」

キッチンに入ってこようとするクレヤを、ナルミが慌てて止めに行く。

「クーちゃん、今、そーゆー空気じゃないから」

「ああ!?

おっ!チアキもう飲んでんの?いーねー!!何本目ぇ?」

「ちょ・・空気読んで・・」

「なんだよ、ん?・・・なんかあった?」

チアキは椅子から立ち上がり、重い体をひきずるように歩きクレヤの隣に立つ。

「ごめん、クレさん・・

やっぱ俺、出てくわ。

ありがとな」

「はぁ?!はっ?!はあ?!

なに?!なになになになに?!喧嘩?」

「この臭せめえ部屋と気持ち悪りぃおまえらに飽き飽きしたんだよ!カマとゲイと一緒に住めっか!」

「なんだよ急に。今更、だろ。つーかナルはカマじゃねえぞ」

床に置いたレジ袋や紙袋から、大きな酒瓶をいくつも取り出しニンマリする。

「いいだろ、これ。今夜は飲み放題」

財布とバイクのキーくらいしかない私物をまとめるチアキの肩に、クレヤは片手に酒瓶を持ったまま無造作に腕を回して体重をかける。

「家出ったあ、まだまだガキだなあ!」

「うるせえよ」

「ゴウさんなら行かしたろうが・・

俺らにゃあ反抗期のガキぃ面倒みる度量はねぇ」

「ガキガキうるせえ。面倒みなくていいっつってんだよ。

このTシャツ、持ってっていー?」

「チアキ。引っ叩いてごめん」

「ああ?!ナル、おまえ、引っ叩いたの?!

何したの?そりゃあ・・俺たちはチアキの親じゃねぇからなあ・・」

チアキはスニーカーに踵を入れる最後の手を止め、玄関ドアに向かってつぶやく。

「いや、引っ叩いてくれてありがとう。ナルさん・・

覚えとくよ。たぶん。来世も、そん次も、ずっと。じゃあな」


パーン


チアキの背後で聞いたことのない高い破裂音がして、反射的に隠し持っていた銃を引き抜いた。今度は何だ?雑魚か?同業者か?それともあいつが・・・・全身を野生で支配し思考を止める。

守る。今度こそ。家族を。

構える銃の先端に、カラフルな紐状のものが舞い降りた。

もう一度、同じ破裂音がする。

銃口の先には、刺客ではなく、穏やかに微笑むナルミと、驚き震えるクレヤがいる。ナルミがレジ袋から手のひらサイズの何かを取り出すと、また破裂音とともに細長いものが手元から飛び出した。天井をかすめてアーチを描きふわりとチアキの頭に振りかかる。

食卓の真ん中には、焼き肉プレートくらいの大きさの、でもそれよりも存在感のある、青く四角い塊。

クレヤがチアキに飛びかかる。

「おめえええええ!!!

銃なんかどこで・・・・!!いつの間に・・・!

捨てろ、こんなもん!!!

二度とムショ行きにはさせねぇぞ!!!」

銃はチアキの手から簡単にもぎとれた。力が抜けている。目は子供のように大きく見開き、情けなく潤んでいる。生乾きのボサボサの髪、大きすぎて肩が落ちかけたクレヤの白いTシャツ。クレヤは、この迷子の子犬が今いくつなのか、一瞬わからなくなった。

「今のチアキに見せてあげたいよ・・・

チアキが生まれた時の、ゴウさんの顔といったら」

ナルミが穏やかに語る。

「あの強面のゴウさんが・・泣いて喜んで・・

この世の何よりも・・何よりも何よりも・・

宇宙で一番、何よりも大事そうに・・・」

言葉を詰まらせた。


チアキは靴を履いたまま、ゆっくりと、卓上の青い塊に近づく。

「ゴウさんのことは、チアキのせいじゃない」

「うえっ!おまえら、そんなキッッツイ話してたのかよ!まじか・・よりによって今日・・・」

卓上のものを見つめて固まるチアキ。大きすぎる白いTシャツの背中は、うなだれたて丸くなってしまっている。ナルミは、雨に濡れた迷子の子猫みたいだと思った。

ナルミは、そんなチアキを見据えて、背中に手を当てて、そして静かに、深く、強く、語りかける。


「チアキのせいじゃない。

自分を責めないで。チアキ」


「うあああああ!!!!」

チアキは突然、堰を切ったように叫び出し、両手を思い切りテーブルに叩きつけた。

「もういいわ!!!

もういい・・!!」


叫び声は、少しずつ弱々しくなって、祈るようなつぶやきに変わる。

「復讐とか・・

やったやられたとか・・・

もういい・・・!!

いらねぇわ・・・・

頼むから・・・」

何度も何度も幾重にも重ねて作ってきた、立て付けの補強が、全て崩れ落ちてしまった。ずっと、ずっと、心ごと崩れないように、そこらへんにあるもの何でも使って、ガチガチに補強してきたのに。それでずっと強く強く生きてきたのに。そこにいくつも武器を乗っけて、それでずっと走ってきたのに。

がっくりと膝が床に付く。おでこをテーブルの縁に当て、情けなく肩を震わせる。温かい悔恨がはらはらと、ナルミがいつも磨いている床にこぼれ落ちていく。

「おれは間違えた・・・

間違えたんだよ・・・!

生まれる理由・・間違えた・・・

これがあればよかったんだよ・・・

それが言いたかったんだろ?なあ、"くそマンジュウ"」


ーーーーー

 25才 誕生日おめでとう

帰ってきてくれて ありがとう

生きていてくれて ありがとう

生まれてきてくれてありがとう

これからもずっと よろしくね

     2020.7.24

ちあきが大好きなオジサン2人より

ーーーーーー

大きな青いケーキの上面いっぱいに、ホワイトチョコで書かれているナルミのクセ字が、チアキの心に、重く、甘く、のしかかった。



シンプルな額縁に入れられたチアキの父親の写真の前には、線香の代わりにいつもタバコの煙が漂う。

青い塊は、包丁で丁寧に放射状に3当分され、淡い黄色と白の、ふっくらした断面を見せる。事件以来14年間、重度の味覚障害、軽度の拒食症のチアキはこの日、血縁のない家族が用意してくれた、いつもより豪華な酒とツマミと誕生日ケーキを、胸の穴から出てしまうこともなく、ちゃんと全部、胃袋いっぱいに押し込んだ。腹いっぱいって、こんな感じだったっけか。

「ちあきいいいい!!!!勝負だあ!」

クレヤが真っ赤な顔で高価な酒瓶をドンとテーブルに置き、ケーキを食べ終わりそうなチアキを睨みつける。


「だあああああああ!!!!!!」

クレヤがゲームコントローラーを持ったままソファーの肘掛けに突っ伏した。隣に座るチアキはニヤついている。

「チアキくん負け知らずだよねぇ」

ナルミが新しい氷と酒の入ったグラスをチアキの頬に当てる。クレヤのグラスには炭酸水を注ぐ。

エアコンが良く効きいている狭いリビング。チアキの髪も、卓上のシミも、すっかり乾いていた。

「おいツァアキ。おめえのカンゾーはどーなってんだ?」

「さあな」

笑いながらグラスを傾ける。

「おいツァアキ」

「なんだよ」

「おめえ、負けたことねーだろ?」

チアキはガンッとグラスをテーブルに置いて強気になる。

「ねぇよ。酒も。ゲームも。賭けも。殺し合いも。あーーー、あの"クソヤロー"以外にはな!」

「まあまあ、飲めよ」

クレヤが傾けた酒瓶の口は、チアキのグラスを大幅に外れ、一滴も入らず全てテーブルと床に注がれた。チアキが間一髪でコントローラーとスマホとテレビのリモコンとティッシュ箱を一気に避難させる。

「おめえ、モテるだろ」

注ぐのを諦めたクレヤは瓶ごとチアキに手渡す。

「・・・・さあな!」

「ヤローってーのは、"コレ"か?」

チアキが口に含んでいた酒を盛大に吹き出した。

「ちげっ・・・あーーー、あ?

ああ、たぶん。そうだった。のかも、しんねぇけど。大昔の話だ」

「なんだよぉ、おめえもこっちかああ!!」

クレヤがチアキの首を掴み自分の方へ引き寄せた。

「おめーとちげーーわ!!

気持ちわりいな!

うおあああ!!ちゅーすんなちゅー!!やめろっ!ナルさん助けてっ!」

「女がいいんか?」

「女がいいね!

ヤローのくそキタねぇケツ毛のどこがいいんだよ」

「わっかんねぇかなああ〜」

「わっかりたくねえわ!」

「んじゃ逆に聞くがあ・・・女のどこがいい?」

「ん〜・・・あ〜、そりゃあ〜・・・なんつーかー、こう・・ふわっ、とした感じ?」

「おめえ、触ったことあんのか?」

「・・・・。

ねえよ!!!」

「俺もねえ!!」

ナルミがゴウの写真の前で涙ぐんでいる。

「ゴウさん・・・・チアキがあんなに笑うようになったよ・・よかったね」

ナルミは、記念すべき14年ぶりのチアキの笑い顔を、ビデオカメラに納める。画面の中の彼は、ナルミなら一杯で倒れるような度数の瓶を一気に空にしている。

「うおっ!いーぞいーぞ!調子出てきた!酒豪!」

クレヤの拍手は手と手が合致せず素通りする。

「ぐはあ!

クレさん、女に生まれたことあるか?」

「おんれはおろこら(俺は男だ)」

「女ってのは大変なんだぞ?

売られるし・・・いっつもハンターに追っかけられるし・・あいつらしつけえんだわ・・力じゃ勝てねーし・・武器ばっか買い揃えて・・くそ金かかるんだよ・・殺して・・騙して・・盗んで・・殺して・・ぐっすり寝たこともねぇ・・金持ちのオモチャなんぞ死んでもごめんだ・・負けて死ぬのはもっとごめんだ!毎月くそ痛えし・・二度とありえねぇ」

ナルミは、よく見るとチアキが涙ぐんでいることに気づき、カメラを下げる。酔っているわけでも、精神異常なわけでもなく、ただ何か、心の内を吐き出しているのが、ナルミにはなんとなくわかった。

「男ならよかったのに・・男なら・・

あん時兄貴たちと・・チピと父ちゃんと母ちゃんとばあちゃんと・・みんなと一緒に死ねたのに・・!!!」

ナルミは録画を止めた。

「ふざけんなよ・・

美人の長女だから・・?

金になるから・・?

それで俺だけ生き残って・・?

ふざけんなよ・・・。

売られたことじゃない・・

勝手に死にやがって・・!!!

俺だけ残して全員死にやがって・・!!

それが許せねぇんだよ・・

一緒に行かせてほしかった・・

明日死んでもいいから最後まで家族と一緒にいたかった・・

いたかったんだよ・・

ナルさん・・・」


ナルミは、チアキの肩にそっと手を当てた。

「だが俺は今、男だ」

チアキはTシャツの中に手を入れ自分の胸板を確認する。

「ざまーみろ!男だ!」

ハーフパンツのウエストを引っ張り中身を確認する。

「男だろ?!

ナルさん!ちゃんと見て言ってくれよ!!」

「うん。おとこのこだよ。大丈夫だよ。

もう大丈夫だよ、チアキ」

チアキは突然駆け出しベランダに出て叫ぶ。

「俺はぁあ!!!おとこっオフっ!!」

ナルミが後ろからチアキの口にクッションを押し当て、真夜中の盛大な近所迷惑を間一髪で食い止めた。

「んぐんぐ」

クッションを外すと、チアキは無垢な子供の瞳に、外のネオンを映してナルミを見る。ビルを縫ってきた熱風が、彼の前髪を揺らし裸の心に吹き付ける。

「俺、男に生まれたんだから・・もう・・もう独りぼっちにならないよな?」

ナルミはまた言葉に詰まった。気が触れたような発言に戸惑う。なのに、なぜか、今、全てがわかったような・・いや、違う。最初から全てをわかっていたんだ。不思議な、でも確かな感覚がナルミの奥底からわきあがった。何故か勝手に涙が溢れ出す。チアキをきつく抱きしめる。こうなることも、わかっていたような気がする。父一人子一人で育ち、その父親も失い、10年間刑務所、嫌というほど孤独を味わった、それだけじゃない、もっともっとずっと前からずっと・・ずっと孤独でいたんだ。この子に、なんて言ったらいいんだろう。震える息で鼻をすすることしかできない。喧嘩っ早いけど、いい子で。そっけないけどお父さんが大好で・・


「チアキの家族は、ここにいるよ。

俺と、クレと。

ゴウさんも。

ユキさんも。

ここに、ここに」


自分の胸に、そしてチアキの胸に、熱くなった手を当てて言った。

「チアキのそばに、ずっと、いるよ」


チアキはナルミに抱きつき、声を上げて泣いた。

少女のように。

少女のときに、泣かなかったぶんを。

泣いたところで、何にもならなかったから。

泣いたところで、受け止める人も、助けてくれる人も、誰もいないのだと、わかっていたから。

ただ前だけ見て、進まなきゃならなかったから。

幼心には向き合うこともできなかった衝撃を、地下深く、無自覚の底に閉じ込めることで、強さを保ってきた。それが今、何億の時を経てこの時代、薄明るくなり始めた星空の下、溶け出した・・。


見えないけれど、新月から4日目のうっすらとした月は、地球の裏側からそっとチアキを見つめている。



「大事なもんおぉ一生かけて守るんがあ、生き甲斐だわな。大事なもんってのがなんのことかあ、わあってんのかあ?つぁあき」

おでんのコンニャクと化したグデグデクレヤの熱い体は、チアキの膝の上で伸びている。

「炭酸水飲みながら言われてもなあ」

酒瓶に口を付けて傾け、遠くを見るように目を細める。

「おれああ、わかってんぞおっ!」

チアキの膝に炭酸水がガポっとこぼれたので、クレヤからグラスを奪う。

「うああああああ〜〜〜〜。もう飲めん。負けたあ!今日もおめーの勝ちだ、つぃあき。

うえ、といれ」

「トイレそっちじゃないよ」

「うあああああ」

台所で用を足そうとするクレヤをナルミが引きずる。

「ナルぅ〜〜」

「あ〜〜ちょっとちょっと」


チアキは、まだシラフの頭に酒を注ぎながら思う。

大事なもん、守れてない。まだ、なにも。

負けたことがない。

それなのに、いつも大事なものを失っていく。

なんでだ?

大昔の家族のことは、もうどうでもいい。

今、守りたいものが目の前にある。


ふいに瞼の裏に、赤い髪の少女が浮かんだ。

忘れかけてた。なんでだろ。

もう一人、守りたい奴がいたんだった。

あいつはどこにいる?

「あいつ生きてっかな」


チアキは立ち上がった。なんとなく天井を見上げる。

「おい、"くそマンジュウ"、聞こえてっか?

変更だ。

気が変わった。

人生計画、変更だ。

フェイは・・復習はどうでもいい。

とりあえず、アイツの妹のファイアに会わせろ。

その先は、その後考える」

願いが届くか、わからないが言ってみた。


彼女のことを考えるのは久しぶりだった。目を閉じるとあの笑顔がすぐそこにありそうで、なんだかとてもくすぐったい。思わず口角が上がってしまう。

ファイアは生きてる、根拠なくそう感じる。すぐに会えないとしても、この人生を全うして、また死んで、"くそマンジュウ"に頼めば必ず会えることはわかっている。

いつかまたあの、弾けた太陽の子のような、無邪気な笑顔に会えると思うと、チアキは楽しみで心が踊り始めた。それだけでこの先の人生を楽しく生きていける気がした。心拍数が上がる。心の中に小さな彼女がいて、飛んだり跳ねたりして踊ってるようだ。

相変わらず騒がしいやつだな。


ふと、卓上のクレヤのスマホが光った。

なにげなく見下ろす。

ガラケーしか持ちたがらないチアキに、クレは時々自分のスマホを貸していた。パスワードでロックを解除して通知を眺める。


芸能ニュース。チアキが最も興味のないジャンル。

"夏に見たい話題の新ドラ、今夜から放送開始"

スクロールすると見慣れた・・いや、見慣れない奇妙な人物に釘付けになる。

それは砂糖でできた人形だった。

柔らかな純白の肌は、ロウソクの灯りに照らされたようにぼんやりと静かに輝いている。ほんのり桃色のほっぺたは、マシュマロか大福餅にしか見えない。ポーズを取る手首は、ポキリと軽い音を立てて折れそうだ。頭には綿あめ、いや白いふわふわの髪の毛が乗っている。

酒にまどろんだムサ苦しいこの部屋に、明らかに場違いな甘い匂いが漂い始めた。

チアキは子供の頃、甘いサンタをかじった時のことを思い出す。ヤツはまるでその日の主役のような顔をして、必ず年に一度図々しくも我が家の食卓に乗りこんでくる。そして何故か必ず自分の皿に乗せられてくる。そいつを制覇しなければ、その下のケーキに手を出せない気がして、ガリガリと噛み砕いてやったものだ。

甘い匂いの発生源、画面の中の砂糖人形の眼孔には、薄い紫の大きな飴玉がはまっている。その飴玉は溶けかかっているのか、柔らかく広がるような視線を放つ。チアキは、大きな夕焼け空に包まれている感覚になった。何故かとても懐かしい。自然と体の力が抜けてほっとする。過去も未来も、全てを遠くに感じて冷静になれる、と同時に、胸が熱くなるような。

気がつくと、こっちが飴玉に溶かされていた。飴玉の分際で生意気な。噛み砕いてやろうか。


チアキはハッとした。

その甘さの裏に、危険を感じた。

ほっとしたらいいのか、身構えたらいいのか、混乱させられる。

温かいのか冷たいのかわからない、紫の瞳・・・そうだ・・・

自分をこんなふうに混乱させる奴は、ただ一人・・・

"あいつ"だけ・・・・


気持ち悪いほど黒すぎるマント・・フードに隠れる凍った肌・・口の裂け目から覗く鋭い牙・・獲物を吸い込む蛇眼・・宇宙の闇に溶け込む半透明の煙の体・・男か女か、人か怪物か、あるいは幽霊か。生きているのか死んでいるのかすらわからない。


そいつは何故か俺に付きまとってくる。そのくせ、目が合うと溶けた顔して耳を垂らして、煙になってすぐ消える。話しかけると恥ずかしそうにハニかんで、マシュマロのほっぺたを夕焼け色に染める。あいつに触ると冷たくて気持ちいい。からかうと、転がる飴玉みたいに笑う。顔を近づけると甘い匂いがする。


"あいつ"は

何故か銃口をこちらに向ける。


何故か俺を見てよだれをたらす。


何故かあいつは俺を裏切った。


何故かあいつは俺を殺した。


弱っちいヒョロモヤシに、なんでこの俺が負けたかと思うと、一発打ち殺すまでは、腹の虫がおさまらない。

"バカバカしい"だったか"バカ丸出し"だったか、んなような名前の国の王子だか王様だか帝王だかなんだか知らんが、地球で地球人に取り憑いてコマにして戦うゲームが、そいつの国で大ブームになってるだとかはもうどうでもいいが、わけのわからん中2病のクソガキ相手に、何故か俺は本性を見抜けなかった。最後に向かい合った時、俺はとっさにあいつから銃口を逸した。あいつは打って、俺は打てなかった。騙されたのも殺されたのも、あいつが初めてで死ぬほど腹が立つ。打てなかった自分に一番腹が立つ。だから俺は一番、この世でもあの世でも、あいつが嫌いだ。


だがバカバカしい復習ごっこにはもう関わらないと決めた。死んだ親父とあいつらに悪い。フェイのことは忘れて、ファイアのことだけ考え・・・


"現役中学生ジェンダーレスモデル・タレントのフェイくんの初主演ラブコメ。

「今まで脇役として映画やドラマに出演させて頂いてきましたが、主演になっても肩の力を抜いて、皆さんにほがらかな笑いを届けます!いつも応援してくれるみんな、ありがとう!」"

チアキは画面を見つめて固まった。

フェイくんというその人物は、甘ったるい天使の笑顔を振りまいている。

「はあ?!

はあああああああああ?!?!?!?!」

スマホの画面に、驚きと怒りと、そしてあらゆるツッコミがねじ混ざった叫びをぶつけた。

「やっぱシネよ、クソ キモ ヒョロモヤシがぁああああああああああああああ!!!!!!!」

「チアキ、うるさいよ!何時だと思ってるのぉ!!」



・・・続く

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