第5話 温泉①
……温泉。
とてもいい響きだ。おんせん。さくらは心の中で唱和した。
温泉を出たら夕食。楽しみである。
湯には誰もいなかった。静かな湯面に、そっと足を入れてみる。小さな波が立つ。熱すぎず、ぬるくもなく。
「ぷはあぁあ」
思わず、ため息が漏れた。
明るい空。静かな湯面。心地よい風。ほどよい熱。贅沢なひとときだった。
こうして、さくらが羽根を伸ばしている間にも、不逞の輩が京の町を闊歩し、人々を苦しめているのに。
「早く京に帰りたい」
みんなの顔を浮かぶ。勇、歳三、新八、左之助、平助。そして、山南さん。
くつろいでしまっているが、目的は脱走者の追捕。気を緩めてはならない。英気を養うときなのだ、今は。
よし、気合いを入れ直し、さくらは手拭いで額に流れる汗を拭いた。
そろそろ上がろうか、そう思ったとき脱衣所のほうから人がやって来る気配があった。温泉宿なのだ、入浴客があってもおかしくない。ただ、堂々とすれ違うのは憚れるので、あの人が湯につかってから軽く会釈して通り過ぎよう、さくらは考えた。
「あ……先客の方ですやろか。お邪魔してすんまへん」
若そうな女の声。湯気の向こうに、おぼろげながら人の姿が浮かび上がった。さくらは額に当てていた手拭いを、頭の、月代の上に戻す。
「よ、よいのです。こちらはそろそろ出ますので、どうぞごゆっくり」
少し上ずった声で、さくらは返した。なかなかの無防備な姿で、同性とはいえ対面したくない。
もし、普通の身体だったら、そうは思わないのかもしれないが、さくらの肌にはたくさんの傷がある。稽古で、いくさでついた傷の数々。さくら当人は受け入れているものの、他人の目からしてみたら、どう受け取られるのか分からない。なかば無意識のうちに、さくらは肩まで湯につかり直した。
「江戸のお方?」
関西訛りのないことばづかいをしたせいか、女性は話を続けた。参ったな、と思いつつもさくらは答える。
「ええ。所用で、こちらのほうへ」
「最近はどこも物騒やさかい、旅も骨が折れるやろね」
「……連れが、いますので」
不本意ながら『夫が』、そう続けようとしたとき、女が温泉に足を入れた。
こういうとき、反射的に動きを追ってしまうのは剣士の性だろう。円状にゆらぐ水面の先を見る。
女は妊婦だった。
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