第5話 運命の日。
もう、何度目だろうか。僅かばかり日が陰った訓練場に、カランカランと乾いた音が響く。
剣を弾き飛ばされたジークフリートは言うまでもなく、周囲で見ていた者達も、とっくに数えることを忘れていた。
それほどまでに打ちのめされてなお、ジークフリートが重い足を引きずるようにしながら木剣へと向かうのを見て、護衛の騎士達は驚き、あるいは心配げな表情を隠せない。
そんな彼の姿を、国王であるクラレンスとメルツェデスの父親であるガイウスは感心したように目を細め、見守っていた。
と、不意にジークフリートが
「殿下!」
騎士の一人が声を上げ、幾人かが駆け寄ろうとしたその時。
がし、とその身体が、同じくらいの小柄な少女に抱き留められた。
「殿下、大丈夫ですか?」
声を掛けた少女メルツェデスも流石に息が弾んでいて、濡れたような黒髪は、まさに汗で濡れて額に幾筋が張り付いている。
だが、逆に言えばそれだけ。ジークフリートがこれだけボロボロに疲れ果てているというのに、メルツェデスはまだまだ余力を残しているのだ。
そのことに気付いたジークフリートは、忸怩たる思いで唇を噛みしめた。
「へ、平気だ、余計な手を出すな!」
そう言いながら力強くメルツェデスの腕を払おうとする。
だが、ろくに力の入らない腕は、ふにゃりと彼女を撫でるだけ。
その様子に、一度メルツェデスはパチクリと瞬きをすると、小さく首を横に振った。
「お言葉ですが、殿下はもう、限界に来ております。
これ以上の稽古は無意味、かえって怪我をするばかりでございましょう」
「しかし、まだ私は、立てる、歩けるっ!」
荒い呼吸の中、それでも抵抗するジークフリートに、もう一度メルツェデスは首を振る。
「なりません。そんな無理をなさっては、折角今日身についたものに悪い癖が付いてしまいます」
そこで一つ言葉を句切ると、メルツェデスは微かに微笑みを見せた。
「……殿下は、本日の稽古にて誠に上達なされました。
それを歪めてしまうのは、勿体のうございます」
「そう、なのか……? 本当に、そう思うか?」
「ええ、心から。わたくし、こと剣に関して嘘は申しません」
コクリと頷くメルツェデスの顔を見つめて、ジークフリートはふいっと顔を逸らす。
「お前がそう言うのなら、そうなのだろうな。
だがそれでも、お前がそうも平気な顔をしているのに、私がこの様では情けない限りだ……」
「いえいえ、とんでもないことにございます。
そもそも、私は五つの頃より剣を始めておりますから。畏れながら、下地が違います。
一つ下の弟など、この半分で泣きが入りますから……それに比べて殿下は、とてもガッツがおありです」
驚いたように顔を向けるジークフリートへと、もう一度微笑みを見せるメルツェデス。
間近でその笑みを受けて、慌てて彼はまた、顔を逸らした。
若干その頬が赤くなっているのは疲労のせいだろうか、傾いた日差しのせいだろうか。
「……わかった、お前の言う通りにする。だからいい加減、手を離してくれ」
「あら。これは大変失礼をばいたしました」
言われて、ジークフリートを抱きしめる体勢だったことに気付いたメルツェデスは、そそくさと離れる。
支えを失ったジークフリートは、それでも足を踏みしめて立って見せた。
その様子を見守っていたクラレンスは、うん、と一つ満足そうに頷いてみせる。
「ありがとうガイウス、今日はジークにとって実にいい経験になったようだ」
「勿体ないお言葉、痛み入ります。しかし、左様でございますな、面構えがお変わりになられました」
隣に立つガイウスも同意するように頷き、何やら会話を交わしている二人を眺めていた。
少々親しくなりすぎているのではないか、などと親馬鹿なことを考えることしばし。
その視界に、手ぬぐいを手にした侍従がジークフリートに向かうのを捉えた。
稽古の終わったジークフリートへと、手ぬぐいを届けること自体は当たり前のことだ。
だが。なぜかその姿に、違和感を覚える。
その違和感は、メルツェデスも感じていた。
いや、より近くで見ているからこそ、さらに鮮明に。
さらには、散々に立ち会って感覚が研ぎ澄まされていたから、だろうか。
侍従にしては軽く足音を感じさせない歩み、絞まった体つき。
手ぬぐいのような軽い物を持っているにしては、少々力の入っている腕、若干崩れている重心。
何よりも、この距離にきて見せた、その視線。
「殿下、ご無礼を!」
「うわっ!?」
叫ぶと同時にジークフリートを右手で突き飛ばすと、メルツェデスは左手に木剣を持ち侍従の前に立ち塞がった。
気付かれた、と見た侍従が足を速めながら手ぬぐいを取り去れば、下に隠し持っていた短剣がヌラリと光る。
「邪魔だ、どけ!」
「お黙りなさい、この痴れ者!」
言葉が交錯した一瞬の後、二人の間合いが交錯する。
流石刺客だけあって、鋭い踏み込みとともに顔に向けて繰り出される、目にも留まらぬ刺突。
メルツェデスは受けようと木剣を跳ね上げるも、ジークフリートを突き飛ばした直後の不十分な体勢、おまけに利き腕で無い左手では捌ききれない。
額の、皮一枚。それが、切り裂かれていく感覚。
嫌に鮮明なその感覚に……しかし、恐怖は感じない。
むしろ、ゾワリと背筋を走る興奮にも似た何か。
それが、彼女の唇に笑みを形作らせた。
「なっ、こい、つ!?」
子供と思っていた相手からの予想もしなかった反応、表情に、侍従になりすましていた刺客が怯んだように悲鳴染みた声を上げる。
そして次の瞬間。彼の身体は、横へと数mも吹き飛ばされた。いや、蹴り飛ばされた。
最初の一太刀を防いだ、一瞬怯ませた。
それだけ稼いだ時間があれば、ガイウスが駆けつけるに十分。
王子に、何よりも愛する娘に刃を向けた男へと渾身の蹴りをお見舞いしたガイウスは、悪魔も殺さんばかりの憤怒に満ちた表情で男を睨み付ける。
その視線を受けた男は、しかしぴくりとも動かない。動けない。
腹を押さえたままうずくまる男へと騎士達が駆けつけ、直ぐにその身を拘束した。
刺客が拘束されたのを見届けたガイウスが即座に二人を振り返れば、メルツェデスを気にする親心を必死に抑え、ジークフリートへと安否を問いかける。
「殿下、ご無事ですか!」
「あ、ああ、私は大事ない! だが、あいつが、あいつが!」
指さされて見れば、だらりと剣を下げて突っ立つメルツェデス。
先程斬られた額からは、ダラダラと血が流れ出していた。
「メルティ! なんて無茶を!」
「申し訳、ございません、お父様……不覚を、取りました……」
その身体がぐらりと傾げば、慌ててガイウスがその細い身体を抱き留める。
触れた場所から感じる尋常でない熱、乱れた呼吸。
「傷口に、焼けるような熱と刺すような痛み……キニストリス系の毒薬が、塗られていた、可能性、が……」
「わかった、もういい! もう大丈夫だから、しゃべるな!」
「はい……申し訳、ございません……」
力なく呟くように言うと、メルツェデスは目を閉じる。
カラン、と力を失ったその手から、木剣が滑り落ちた。
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