誠(08)世界の常識が、あっという間に上書きされてしまったんだ。

「何てこと……、そんなことが……」

「まったく新しい概念? 新しい世界? でも、それが円のお父さんの失踪にどう繋がるのです?」


 高麗剣先生が、顎の下で恭しく手を組んだ。


「もう少しだけ聞きたまえ。ここまではいわば講義。理解を深めるために聞いてもらったが、これはメッセージそのものではない。ここからが、本当のメッセージなのだから」


 父はそこまで話すと、疲れたのか大きく息を吐いた。コーヒーを再び口にして、それから少し席を外す。


「十分ほど戻って来ないので、ここは早送りをするよ」


 高麗剣先生がパソコンを操作しようと手を伸ばした。


「あ、ちょっと待って。わたし、ちょっとお手洗いに」


 わたしも席を立って、トイレへ行く。用を足すときに、ちくちくとした腹の痛み。空腹感が増して来ている。そういえば、今は何時だろう。おやつどきだろうか。

 リビングに戻ると、わたしはそそくさと冷蔵庫を開けた。


「お待たせ。新しいお茶を淹れるね。それから、クッキーがあるの。ふたりとも、食べる?」

「……いや、不要だ」

「今はいらないのです」


 ふたりは空腹を感じていないのだろうか。ええっと、お昼を食べたのはいつだっけ。そもそも食べたかしら? 自転車にお弁当を置いていたことを思い出す。ああ、そうだ。自転車がどこかにいっちゃって、

 それで――、

 何だっけ?

 お茶を淹れながら、息を吐く。まあ、いいや。リセット、リセット。それから、戸棚に入っているクッキーを出して、お皿にじゃらじゃらと盛った。食べる。美味しい。お茶も、美味しい。

 とっても。

 先生はそんなわたしのことを目を細めてじいっと観察している。奏も、何か不安そうな表情を浮かべていた。


「ん? どしたの? さあ、続きを見よう」

「……ああ、そうだな。続きを見るとしよう」


 ふたりの怪訝そうな様子が気にかかったけれど、そんなことを気にしている場合じゃあない。早く、父の映像の続きを確認しなくては。

 高麗剣先生が、映像を少しだけ飛ばした。父が戻って来て、話が再開される。


『ええと……、どこまで話しましたかね。ああ、そうだ。マドカムラサキは新しい世界に適応するべく誕生した植物だ、というところまででしたかね』


 父はまた落ち着かない様子で、眼鏡に手をかけた。机の上には半分くらいになったコーヒーと、クッキーが少し。偶然、父と同じ行動を取っていたみたい。ふふ、何だかおかしくなっちゃう。


『さて、私はそのような新しい植物を団地内で育てているわけですが、その現状についてお話しをしましょう。そもそも私が彩都大学へ入学したのは、植物研究に熱心に取り組みたかったからです。念願叶ってその第一線へと進むこととなったわけですが、彩都大学はあるときを境に方向性が変わってしまいました。そう、アナアキの発見です』


 アナアキが発見されたのは、およそ五年前。まちが怒涛のごとく整備されて、あっという間に世の中の在り方が変わってしまったのはそれからわずか一年くらいの出来事だった。

 世の中はわけのわからない熱に浮かされて、まるで夢遊病患者みたいに無意識に動き始めてしまったんだ。そうして誰も気づかないうちに自動的に作り変えられてしまった。

 世界の常識が、あっという間に上書きされてしまったんだ。

 そして、今。アナアキたちの多くはこの櫻町団地で軟禁、いや監禁状態を余儀なくされている。その研究にもっとも寄与しているのが、隣接した彩都大学にある各研究室だった。


『大学は現在国に管理されて、ほとんどすべての研究室が各々のアプローチでアナアキ研究に勤しんでおります。治療の方法を模索したり、社会学的な統計を取ったり、病の原因を追求したり。……ううむ、ちょっと小腹が空きましたね。失礼』


 父は眼鏡の位置を何度も直しながら、コーヒーを静かに飲み干した。それから、クッキーを貪るように口に運ぶ。普段は物静かな父だけれど、珍しく苛立っている様子だ。

 それだけでは物足りなかったのか、彼は奥の方にあった茶こしを引き寄せて、コーヒーカップにお茶を追加した。たぶん、あのお茶だろう。わたしたちの育てている、マドカムラサキを使ったお茶。それを飲み干すと、彼はひとまず落ち着いたようだった。再び画面に目を向けて、話を再開する。


『……ええと、大学の話でしたね。研究室によって活動は様々ですが、私は治療や療養の方面からのアプローチを試みていました。植物や野菜を育てることは、行為そのものが療養の一環となる。私は療養を目的としながらも、野菜などに加えてそこでマドカムラサキを育てることを管理組合へ提案したのです。ちょうどいいタイミングで娘もアナアキになってしまっていたので、私の提案は非常に通りやすかった』


 その活動を始めたのは、マドカムラサキが見つかって程なくしてからだ。ということは、アナアキたちの療養のためって言いながらも、新種の植物の研究のために、団地をダシに使っていたことになるじゃあない。いや、団地だけじゃあない。

 ちょうどいいタイミング? ふざけてろ。父はわたしのこともダシに使っていたんだ。まったくもって、惑っちゃう話だ。


『育てているうちに、わたしはマドカムラサキの花弁を粉にしてみたり、種子を砕いてみたりと、様々な実験を試みました。そして、あるとき。たまたま思いついて、そのマドカムラサキの花の粉をマウスに飲ませてみたのです。すると――、驚きました。その個体はやや気性が荒く、仲間を傷つけるような習性があったのですが、それがすっかりなくなって非常にリラックスし始めたのです』


 それが、このお茶が持つリラクゼーション効果になるってわけか。わたしはふむふむと頷きながら、お茶を口に運ぶ。


『これはもしかすると、喪失感が鍵となるアナアキに有効かもしれない。そう考えた私は、言い方は悪いですが試験体を探しました。いや、探すまでもなかったのです。それに先駆けて、娘がアナアキとなっていたのですから。私は彼女とその友人に協力を依頼して、マドカムラサキの成分が入ったお茶を飲んでもらい、その効能を確かめることにしたのです』

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