誠(02)ここから出て来る頭痛薬は、一体全体何だろうね。
奏とは旧い付き合いだけれど、記憶の混濁もあるせいか彼女のお母さんをわたしは知らない。もしかすると昔会ったことがあるのかもしれないけれど、覚えていなかった。
小学校時代の記憶のほとんどは、わたしにとっては借り物みたいになって色あせてしまっている。ただそこにいくらかの鮮やかな思い出みたいなものがあって、そのひとつが母が亡くなったことだったんだ。まったくもって悲しいことに。
「それじゃ、来たばっかだけれど家に戻ろっか」
「はいです」
踵を返して、第六団地の入り口にとめてあった自転車のそばまで戻る。けれど、
「……あれ? 自転車、どこ行った?」
「……おかしいですね、ええっと、鍵……、かけていましたっけ?」
左右を見回すけれど、自転車が見当たらない。おかしいな、さっき乗って来てこの辺りにとめたばかりだったのに。五月蝿さんと話していたわずか数分間のうちに、忽然とそれがなくなってしまっていた。何だかおかしいことが起きている。
「わたし、鍵、かけたかな……、う、つうっ」
記憶を辿ろうとすると、こめかみに強い痛みが走った。ああ、惑っちゃう、惑っちゃう。これじゃあ何も考えることが出来やしない。
「円、どうしました? 大丈夫ですか?」
奏がわたしの顔を覗き込む。ピンクのバルーンスカートが、視界の端でふんわりと揺れた。
「……うん、うん。たぶん、大丈夫……、つっ」
わたしはこめかみを押さえつけて、しゃがみ込んだ。奏の履いたエナメルシューズ。その前を行き来する、何匹かの蟻。彼らはどこから湧いて、どこに歩いてゆくのだろう。
物事を考えようとするとき、ときどきだけれど不意に頭痛が襲って来ることがあった。大抵は大したことはなくてすぐに治まるのだけれど、何かを思い出そうとしたときに頭が割れるように痛くなることがあるんだ。
今、頭がずきずきと痛み出したのはどうしてだろう。久しぶりに母がいなくなったときのことを思い出したからだろうか。あの体験は、わたしにとってはちょっとしたトラウマみたいになっている。
そうやって少しの間、団地の入り口で足止めを食らっていると、
「――おや? 何か特別な色が視えると思って足を伸ばしてみたら……、諸君じゃあないか、夕月夜くん、恋蝶くん。そんなところでうずくまってしまって……、一体全体、どうしたというのかな?」
わ、このいちいち長ったらしくって、ちょっと厭味っぽい喋り方は。ゆっくりと顔を上げると、街路樹からこぼれ落ちた枯れ葉を踏みしめながら、ひとりの男性がこちらに向かって歩いて来ていた。
「こんにちは、諸君。どうかしたのかい? この事態、ボクの助けが必要だということかな?」
真っ白でさらさらとしたミディアムヘアーに、透き通るように白い肌。白衣の上に、薄めのドリズラーを纏っている。そのすべてが白。全身が真っ白な、不可思議な見た目の男性。彼こそが、わたしの主治医、
「
深々と被った白い山高帽をちらりと上げて、彼は「左様」と言った。帽子から覗く瞳がわずかに赤い。もちろん泣き腫らしたわけじゃあなくて、そういう瞳の持ち主だった。
高麗剣
かなりのイケメンだけれど、『ボクには特別な色が視えるんだよ』とかって嘯くことも多くて、何だかちょっと胡散臭い。
今被っている山高帽もその胡散臭さに拍車をかけているのだけれど、アルビノの彼は肌が弱いために帽子などの日よけが欠かせないということだった。特別な色云々も、弱視のせいだという噂もある。ひと言で言うと、変なお医者さんだ。
「ふむ、顔色が悪いね。それはもしかすると、頭痛を我慢しているのかな? 今日は回診でそこらを回っていたのだが、つい先ほど終わったのだよ。幸運だったね、夕月夜くん。さあ、それでは頭痛薬を飲みたまえ」
持って回ったその言い方。『大丈夫? 薬だよ』ってさっさと渡せばいいのに。回診がどうとか、わたしにはどうでもいいことだ。
けれど、ありがたい。早く薬を、先生。早く、頂戴。
「セロトニンやノルアドレナリンかな? それとも普通にロキソプロフェン? さあさあそれではご開帳。ここから出て来る頭痛薬は、一体全体何だろうね?」
「……長い、し。先生」
ああ、腹立たしい。まったくもって、腹立たしい。早くこの痛みから逃げ出したいのに、このひとはなかなかそれをさせてくれない。
「はは、すまない。ボクはお喋りが大好きなんだ。さ、それじゃあどうぞ。胃薬もサービスしておこう」
彼は鞄から薬を出す。ロキソプロフェン系の痛み止めと、胃腸薬。わたしはそれを引ったくると、水筒を開けて――、あ、水筒がない。自転車のところに置きっ放しだった。自転車が見当たらないから、当然水筒も見当たらない。
「ああ、水がないのかな? それじゃあこれを。安心したまえ、無論口は一切つけていないよ――、さあ、命の水だ」
言いながら彼は、鞄からペットボトルと紙コップを取り出した。まったくもって疲れるひとだ。けれど、頭痛はわたしを殴りつけるみたいにしてその存在を主張して来る。わたしは紙コップを受け取ると、彼からもらった頭痛薬を喉にぐいっと流し込んだ。
「即効性だから、すぐに効くと思うよ。ああ、そうだ。今日は時間があるから、諸君らの回診もやってしまおうかな? 落ち着いたら、言ってくれたまえ。家に寄らせて頂くとしよう」
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