第37話 2人の涙の意味

 美葉からのタスク――つまり、七香待ち伏せ作戦の当日。


 俺は今、心愛の部屋で待機している。先程からずっと心がざわつき、脈拍が乱れて気持ちが悪い。



「おそらく、もう少しで来ます」

「わ、わかりました。スタンバイします……」



 具体的な作戦はこうだ。


 まず、俺が押し入れでスタンバイし、心愛が七香をちゃぶ台まで誘導したら俺が出ていく。


 もし七香が逃げそうになっても、心愛が玄関の前から動かず、話し合いが終わるまで出ることができない旨を告げる。


 また、心愛の室内には美葉の執事が調達した機材が仕掛けられており、202号室から美葉と花栗が俺たちの状況をモニタリングするらしい(ゆるると舞音は学校だ)。


 美葉が弁護士に訊いたところによれば、自宅に盗聴器をつけることや証拠集めにそうすることは必ずしも犯罪行為にはあたらないようだ。そのため、その機材は心愛が自ら自宅に設置した。


 美葉の用意周到さには頭が上がらない。



 トントントン、トントントン、トントントントントントントン――



 三三七拍子の合図。ついにこの時が来てしまった。

 俺は少々黴臭い押し入れの中で息を殺した。



「こんにちは。ココちゃん、この間は本当にごめんなさい」

「だ、大丈夫ですよ……さ、さあ中へ……」



 何事にもあまり動じない心愛の声がわかりやすく震えている。


 今回の作戦は、心愛の立場からすれば信頼している友人に嘘をつくことになる。きっと彼女の中で葛藤があるのだろう。


 それでも俺に協力してくれることは、本当にありがたい。


 ……と心愛のことを考えている間にも、俺の鼓動はどんどん加速する。



「お、お茶を入れるので、お、お待ちください」



 予定では、心愛がお茶を出してお盆をおきにキッチンに戻るタイミングで俺が出て行く。つまり、あともう少し。



「ココちゃん、今日なんか調子悪い?」

「ひぃっ……いえ、大丈夫です」



 七香は昔から勘が鋭い。もしかしたら、異変に気付いてバレるかもしれない。



「お、お茶です」

「ありがとう。あ、テイクアウトのお弁当買ってきたよ! 最近人気のナシゴレン、召し上がれ」

「あ、ありがとうございます。えっと、お、お盆を、お盆、戻します」

「やっぱりココちゃん、なんか変だなぁ……」



 い、今だ――


 バンッ!



「きゃっ」

「な、七香……」



 七香は、この世の終わりのように青ざめ、放心状態になっている。

 確かにいきなり押し入れから俺が出てきたらこうなるよな。



「ど、ど、どうして……」

「話が、したいんだ」



 俺は七香の対面に座った。彼女は心愛の方を向いて「だからおかしかったんだね……」とボソッと呟いた。


 心愛は玄関のドアの前で申し訳なさそうに俯いている。


 七香は諦めたのか、正座に座りなおして下を向いた。俺とは目線を合わせないつもりらしい。



「は、話と言うのは……」

「浮気のこと、不倫の噂のこと、許嫁のこと」



 俺の言葉を聞いた七香は口を小さく開閉したが、音にはならない。


 だから俺が、沈黙を埋めた。


 今までの想いを、打ち明けた。



「辛かった。浮気された後に何も訊けないままの状態で、会社にもあらぬ噂を流されて、どうしようもなく心が痛かった。死にたくもなった。このアパートに来るまで、俺は廃人だった」



 涙が溢れそうになった。


 今までの俺は七香にかっこ悪いところを見せたくなくて堪えていた。

 でも、今の俺は違う。感情をそのまま流した。


 俺を今もモニタリングしている『コーポ夜桜』の住人なら、受け入れてくれる気がしたから。



「俺はずっと七香に嫌われたくなくて繕っていた。2年間、無理をしていた。タワマンに住んだのも、高級レストランに連れて行ったのも、ティファニーのダイヤのネックレスを買ったのも、全部無理をしていた。良く見せたくて背のびばかりして、本当の俺をさらけ出せていなかった」



 思えば俺は、七香に本音を言ったことがなかったのかもしれない。

 こんな形で今更言うのも無様だが、俺の口は休もうとしなかった。


 七香は、ずっと俯いている。



「だから……だから、七香も俺に素を出せなかったのか? 俺との時間は居心地が悪かった? 本音を教えて欲しい。俺が悪かったところも、噂を流すくらい嫌いになったのがいつからなのかも、全部教えて欲しい」



 話していて、美葉の当初の作戦と主旨がズレてきたことに気づいた。七香が虚偽の噂をながした証言が取れれば良いはずなのに、そういうことが頭から抜けていた。


 心が先走った。たぶん、決着をつけて終止符を打ちたかった。


 前に進むための、終止符。

 新しい想いを大事にするための、けじめ。


 こんな情けない姿を美葉に見られているなんて、惨めだけど。それでも。



「ごめんなさい……」



 やっと七香が口を開いた。


 消え入りそうなか弱い声。絹のように繊細な声。


 ああ、これは俺が好きだった声だ。だけど、今はもう違う。



「あなたを傷つけて、ごめんなさい。許して欲しい……」

「今更――」



 許して欲しいなんて都合が良すぎる。別室の美葉と花栗もそう思っているだろう。


 告訴のために美葉が手筈を整えてくれたんだ。それを無碍にして許すことはできない。


 いくら昔好きだった七香でも、泣き落されることなんて決して――



「私、まだ雪郎のこと、好きなの……」



 ない……ないけど……え……?

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