第32話 俺たちの間の、時が止まる

 ――あなたのことを、好きになってもいいですか?


 涙を流すほど幹夫さんのことが好きだった桐井が、そんなにあっさりと俺に乗り換えるというのか? そもそもどうして俺なんだ?


 これが美葉だったら直接的に聞けるかもしれないが、まだ掴み切れない桐井にはそうはいかない。俺は言葉を選び、なるべく迂遠的な表現になるよう心掛けて尋ねた。



「あ、あの……幹夫さんのことは、今はどう思っていらっしゃいますか?」

「幹夫さんのことは完全に吹っ切れている訳ではないですし、彼のことは一生大切に思うと思います」

「そ、それなら、まだ他の人を好きになろうとしなくても……あ、や、対象は俺に限らずです、もちろん」


 

 俺が控えめに発言すると、桐井はお茶をすすってからやや情緒的な声色で話し始めた。



「幹夫さん、私に言ってくれたんですよね? 『次の恋を応援しているよ』って」

「は、はい」

「大切な人の言葉は、大切にしたいんです。幹夫さんがそうおっしゃるなら、私は次の恋に踏み出してみたいんです」



 言葉ってそういうことか。

 やはり桐井が心から幹夫さんのことを慕っていることが、改めてよくわかった。『乗り換え』などと疑った自分が恥ずかしい。



「す、素敵なお考えですね」

「ありがとうございます。でも、こんな気持ちになれたのはあなたのお陰です」

「俺、ですか……?」


 

 正直あまり身に覚えがなくて動揺してしまう。



「はい。あなたは私に『今のお気持ちを伝えたらいかがでしょうか』とおっしゃってくださいました。もしそのお言葉、そして漫画で伝えるというご提案がなければ、私はずっと悶々とした日々を過ごしていたでしょう」

「で、でも、漫画を描いたのは桐井さんですし……俺は何も」

「いいえ。そもそもあなたがいなければ、幹夫さんが入院したことも知ることが出来ませんでした。全てはあなたのお陰です」



 人に褒められることがあまりない俺は、ここまで率直に『全てはあなたのお陰です』と言われると、気恥ずかしくて反応に困ってしまう。


 しかし、同時に喜びも抱いた。


 俺の言動で人が前向きになれたのなら、それは素晴らしいことなのではないか。


 少し前まで疎まれて存在意義を見失っていた俺でも、人の役に立てるなら……俺は、これからも誰かのために行動したいと思う。



「そういえば、お名前をお伺いしてませんでした」

「え」



 感動からの拍子抜け。桐井は淡々としているのに人の感情をジェットコースターのように揺さぶりまくる。本人には自覚はなさそうだが……。


 そして名前に関していえば、俺は最初に名乗っている。だが、『コーポ夜桜』の人間は俺の名前を覚えられない病にかかってるいから仕方ないのかもしれない。



「行川雪郎です」

「なめ……じゃあ、なめろうさんってお呼びしますね」

「なんでだよっ!」



 しまった。ゆるると同じことを言い出したからついノリツッコミをしてしまった。


 引かれたかと思いきや、意外にも桐井はころころと笑った。



「なめろうさんって面白い方ですね」

「あ、いえ、桐井さんの感性が変……独創的だなと思いまして」

「実は『湯呑みゃあ』になめろうってキャラが出てくるんですよ。出番は少ないのですが、私は気に入っていまして」



 そんな偶然があるのかと驚いてしまった(出番が少ない、というのは俺らしい)。



「あと、できれば下の名前で呼んでいただけたら……その、幹夫さんにもそう呼ばれていましたので」

「え、あ……こ、心愛さんでしたっけ。幹夫さんがおっしゃってました」

「覚えてらしたんですね。嬉しいです」



 年上の女性を下の名前で呼ぶことは初めてだ。

 冷静に考えれば、桐井……改め心愛は、元々俺がファンだった『ココナナッツ』のメンバー。そんな憧れの、しかも美しくて多彩な女性が俺を好きになりたいと言っている。


 ……夢?


 そう思ってしまうほど、現実離れしたことのように思えた。心が騒めき、やや身体が火照ってきた。



「あの、なめろうさん?」

「は、はい! なんでしょう……」



 色々考えている時に呼ばれたから、焦って変なイントネーションになってしまった。心愛は鋭いから、胸中を探られなければいいが……。



「私のために動いてくださったお礼に、私にもお手伝いできることはありませんか」



 お手伝い……その言葉で、思い出した。


 ――七香のこと。


 心愛は、七香と繋がっている可能性がある。だから、そのことを尋ねようとしていたんだった。舞音ともそれを約束した。


 一気に鼓動が加速する。


 聞きたいが、聞きずらい。いや、聞きたくない。


 どれが自分の本当の感情なのかを見失った。その時。



 トントントン、トントントン、トントントントントントントン――



「あ、そういえば今日は来客の日でした。すみません」

「こ、こちらこそ長居してしまいすみません」



 心愛はそういうと、急いで玄関へ向かった。


 引きこもりの心愛に来客は珍しいと思ったが、強制的に七香のことを聞く機会が消えて正直ほっとした。なんでも先延ばしにしたいと思ってしまうのが俺の悪いところだが……。


 俺はすっと立ち上がり、帰り支度を始めた。



「ココちゃんお久しぶり」

「お久しぶりです。ちょっと先客がいるのですが、上がってください」

「お邪魔します。今日は第2弾の件、是非お願いします!」



 ……?


 ……聞き覚えのある声……。


 ……まさか――



「ココちゃん、これ、ピエールマルコリーニの新作です。よかったらどうぞ!」

「ありがとうございます。美味しそう。お皿に盛りつけますね」

「よろしければ先にいらしていた方にも……て、え……ゆ、雪郎?」



 俺たちの間の、時が止まる。


 約4か月ぶりの――



「七香……」



 俺は、呼吸ができなくなった。


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