第27話 桐井の決意、舞音の動揺

 翌朝、俺は再び201号室に向かい、三三七拍子のノックを繰り出した。


 間もなくして、桐井が姿を見せた。



「おはようございます。昨晩は色々ご迷惑をお掛けして……」

「おはようございます。いえ、こちらこそ。本日はどうされましたか?」



 桐井は相変わらず落ち着いたトーンだ。 



「実は、美葉……小桜さんから、桐井さんに前管理人のお見舞いに行ってはどうかとの提案がありまして」

「本当ですか? 昨日とは随分ご意見が変わられたのですね」

「ええ。本人も桐井さんのお気持ちを色々と考えたようで。今日は大学の講義が忙しくて代理で俺が来たんですが」

「そうだったのですね」



 俺は桐井が喜ぶことを想定していたが、彼女は少し困った顔で逡巡している。

 そして数十秒の沈黙ののち、ゆっくりと口を開いた。



「ご提案、大変ありがたいのですが……その、私はまだ外に出る勇気がないんです」



 そうか、桐井は記者に追い詰められたトラウマがあるから、まだ外への恐怖心が拭えていないのか。そこまでは考えていなかった。



「それは失礼しました」

「いえ、あたたかいお心遣いに感謝します。……では、失礼します」



 桐井は俺に深く頭をさげた。だが、声は先程と比較して僅かに震えていた。


 ……会いたい、よな。


 俺も突然七香に会えなくなって、辛かった。

 相手がどう考えているかを尋ねられないこと、自分の気持ちを伝えられないことに苦しんだ。


 きっと桐井も、俺と似た痛みを抱えているはずだ。


 だから俺は、閉まりかけのドアの隙間に足を挟んだ。



「え、あ、どうされました?」

「あの……お節介かもしれませんが、今のお気持ちを伝えたらいかがでしょうか?」

「え……」

「桐井さんは前管理人の言葉を聞いて失恋したと感じて恋心を封印したのだと思いますが、本当はまだ諦めきれずに苦しんでいますよね?」



 発言したあとで他人の恋愛事情に踏み込みすぎたことを後悔した。

 だが、桐井の瞠目した顔を見ると俺の発言は図星なようだったので、もう少し話を続けることにした。



「俺、自分の気持ちを伝えたいのに一方的に遮断された経験があります。その時思いました。いつ、伝えられなくなるかわからない」

「……」

「それなら、大切な想いほど、伝えられるうちに伝えた方がいいと思うんです。もちろん、告白という形でなくてもいいんです。感謝や大切に思う気持ちを、です」



 桐井はハッとしたような表情を見せた。

 俺の言葉は、届いたのだろうか。



「でも……私、まだ外に出られなくて……」

「漫画」

「……え?」

「漫画を描いたら、どうでしょうか。あ、いや、あくまで俺の突飛な発想ですが」



 冷静に考えれば、プロの漫画家にそんな安直な案を提案することは失礼だろう。

 しかし桐井は、僅かに瞳を輝かせた。



「考えたこともありませんでした……」

「失礼だったらすみません」

「いえ、とても素敵なお考えです。あの……今から描きます」

「え?」



 もしかして、本当に漫画を描くのだろうか?



「あなたのおっしゃる通り、いつ伝えられなくなるかはわかりません。そのことに気づかされ、深く感銘いたしました」

「あ、ありがとうございます」

「ならば、一刻を争います」

「いや、そんなに急がなくても……」

「いえ、明日隕石が落下して地球は滅亡するかもしれません。その前に、幹夫さんに伝えたい。だから、今から漫画を描きます」



 冷静沈着で怜悧だと思っていた桐井の、思わぬ熱さに驚きを隠せない。

 でも、この行動力があったからこそ、漫画で成功を収めたのかもしれない。



「じゃ、じゃあ、俺と美……小桜さんで、届けますね」

「ありがとうございます。明日の朝8時、お待ちしております。それまでに、素敵な漫画を描きます。漫画なら、口下手な私でも想いを伝えられそうです。彼女さんにもよろしくお伝えください」

「はい……って、え、彼女って?」



 桐井の慮外な言葉に激しく動揺してしまった。

 いつから俺に新しい彼女が出来たんだ⁉



「あれ、小桜さんってあなたの彼女さんではないのですか?」

「か、か、彼女だなんて……」

「仲、とても良さそうでしたよ?」



 第3者から美葉との仲をそんな風に見られていたなんて……。


 俺は……何故か、ちょっと嬉しい。



「では、改めて、明日よろしくお願いします」

「は、はい……」



 そして201号室の扉は閉じられた。


 俺は、早速チャットで今日のことを美葉に報告した。


 美葉が彼女だと間違えられたこと以外を。



***



「おっはよ~、なめしゃんっ!」

「舞音、どうして……?」



 あれから一夜明け、桐井から漫画を受け取けとった後、朝8時30分に美葉と集合の約束をしていた。


 だが、現れたのは舞音だった。



「美葉しゃん、今日大事なゼミで来れんのやって。やけん、創立記念日で休みのうちが代わりに来たばい!」

「え、でも昨日風呂入りに行ったときはなにも言ってなかったけど……」

「え‼ なめしゃん、美葉しゃんとお、お風呂に入っとーと⁉」



 舞音は目を白黒させると、脱力したようにその場にへたり込んだ。顔が真っ青になっている。



「い、いや、一緒には入ってないよ。俺も、貸してもらえるようになっただけだから」

「な、なんだぁ……」



 舞音は大きく息を吐くとゆっくりと立ちあがった。

 ……その拍子にピンクのパンツを見てしまったことは、絶対に言わない。



「でも、なんで急に美葉は――」

「え、美葉⁉」

「あぁ……みんな下の名前で呼んでるから、美葉もそうなったというか……」

「そ、そうなんや……」



 俺が美葉のことを話すと舞音が敏感に反応するのは何故だろうか?



「あ……そういえば美葉しゃん、『怖い』って言うとったばい」

「『怖い』?」

「そうそう。おじいちゃんの反応を見るのが怖いけん、やっぱ行かんって……あ、でもこのことはなめしゃんに秘密って……ふああ! 今の、聞かんかったことにして!」



 舞音は両手で俺のシャツをぎゅっと掴むと、ぺこぺこと頭を下げた。

 俺は口では「わかった」と言ったものの、今更なしにすることはできない。


 美葉は多分、桐井の想いを知った時の祖父の反応を見たくないんだろう。

 でもそれくらい、俺に言ってくれればいいのに……。



「な、なめしゃん、早速行くばい! 美葉しゃんのおじいちゃんはうちらが来ること知っとるけん、急がな~」



 舞音は先程の発言を誤魔化すような妙なテンションでそういうと、俺の腕をぐいと引っ張った。


 俺は脇に抱えた漫画が落下しないよう、脇をぎゅっと挟んで舞音のあとをついていった。



 ――そして、この時の俺はまだ、知らなかった。


 この1本の漫画原稿が、俺と『コーポ夜桜』のの運命を変えることになることを――





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