第23話 お手本のような修羅場

 雨で濡れた階段。おまけに暗くて見通しも悪い。こんなところを走って駆けあがったら、当然高確率で転んでしまう。


 だが、そんな初歩的なことを忘れるくらいに俺は取り乱していた。

 美葉と桐井の修羅場化を未然に防ぎたい、その一心で階段を2段飛ばしで駆け上がるという暴挙に出た。


 だから当然の結果と言えば当然だ。


 俺は6段目で足を滑らせ、盛大に転倒した。



「痛ッッッ!!」



 階段から転げ落ちた俺は、身体を地面に強く打ち付けてじった。その衝撃はすさまじく、思わず蹲って身悶みもだえた。


 もし、さらに6段高いところから転倒していたら大けがをしていたかもしれない。

 ……今度からはどんなに急いでいても気を付けよう。


 そして数分後、俺は何とか立ち上がった。

 しかし、服は泥まみれ。このまま行くのは憚られるが、まずは修羅場阻止が先決と考え、構わず201号室へ向かった。



「ちょ、締めないでくださいよ! 管理人ですよ!」

「な、なんなんですか……記者ですよね?」

「だから、管理人です! 強制退去がお望みですか⁉」

「け、警察呼びますからね」



 ……遅かった。


 201号室の前では、ドアを隔てて美葉と桐井の激しい攻防戦が繰り広げられている。


 まさに、お手本のような修羅場。


 こんなことになるなら、せめて『三三七拍子』のことは伝えるべきではなかった。そうすれば桐井が顔を出すこともなかったのに。


 ……いや、桐井の恋愛事情を暴露したことのほうがまずかったか。完全に俺の失態だ。


 俺は自分の言動を悔いながら、急いで2人の仲裁に入った。



「ス、ストーップ‼」

「なめろう、離して! 上司の命令ですよ!」

「俺は部下じゃない!」

「今朝の男性の方……あなた、私を騙しましたね。やはり記者なんですね」

「俺は記者じゃない!」



 ……誰か、助けて。



***



 数分の死闘の末、2人の熱がやや引いたタイミングで何とか話し合いという形に持ち込むことに成功した。


 桐井の家のちゃぶ台を3人で囲む。

 しかし、依然として美葉と桐井の睨み合いの拮抗状態が続いている。俺の泥だらけの服など気づいてすらいない様子。

 これでは、いつさっきの修羅場が再発してもおかしくはない。


 ……空気は最悪だ。


 そんな中、口火を切ったのは意外にも桐井だった。



「記者じゃなくて管理人だとおっしゃるなら、証拠を見せてください」

「いいですよ」



 美葉はポケットからスマホを取りだし、桐井の前に差し出した。



「これ、桐井さんの賃貸契約書の写真です」

「……確かに私の筆跡です。わかりました。では、なぜ夜遅くにこんな強引なことをしたんですか?」

「なぜって、桐井さんがおじ――」

「本当に幹夫さんのお孫さんですか? 彼はこんなことをするような人じゃありません」

「幹夫……彼……」



 美葉の顔が明らかにひきつった。祖父を名前で呼ばれたことに2人の親密さを感じてしまったのだろうか。


 そんな美葉を見て、大人しそうな桐井も美葉に胡乱うろんな目を向けている。


 これはまずい……。



「ま、まあまあ2人とも……まずは桐井さん。夜遅くに押しかけてしまって申し訳ありません」

「……はい」

「そして、もう1つ謝らなければいけません。桐井さんの初恋の話を美葉……小桜さんに話してしまいました。そのことで彼女が誤解をしてしまったようです。本当に申し訳ありません」

「……」



 俺は土下座の勢いで深く頭を下げた。

 しばしの沈黙の後、桐井の落ち着いた声が聞こえた。



「顔を上げてください」

「……はい」

「ご事情はわかりました。お2人の行動は正直はた迷惑ではありますが、家賃を滞納してしまった私にも非はあります。申し訳ございません」

「いえ、今回の騒動は俺たちが……」

「きちんと説明します。私が外に出ることができない理由も、幹夫さんのことも」

「え……」

「お茶をご用意するので少々お待ちください」



 桐井はそういうと、すっと立ち上がってキッチンへ向かった。

 横目で美葉を見ると、顔に不機嫌さが滲み出ている。


 俺はこれ以上事を荒立てないよう、美葉に耳打ちで釘を刺した。



「絶対に怒るなよ」

「だって、50歳も離れているのにおじいちゃんのことが好きっておかしい……きっとハニートラップを仕掛けて遺産を狙うつもりだ、絶対に」

「しっ! 声大きい、聞こえるって」

「聞こえてますよ」

「「げっ」」



 俺たちの背後にはお盆を持った桐井が立っていた。

 背筋が凍る。話を聞かれていたか……。


 さすがに美葉も反省したのか、先程と比べるとしゅんとしており、俯いてじった。


 桐井は動じることなく、俺たちの前にお茶を出した。


 透き通った黄金色の、いかにも高級そうなお茶。

 確かこの色と匂いは、玉露。茨城の祖母の家でよく飲んでいたからわかる。


 ボロアパートに住んでいるのに、何故こんな高いものを……。



「幹夫さんが事業にご成功されているのも、奥様と死別されたことも存じています。しかし、遺産狙いでは決してありません。そもそも――」



 桐井は一呼吸おいて、静かに言葉を発した。



「私、既に失恋しているので、ご安心ください」



 ……俺と美葉は絶句した。

 

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