最終話
「なんでこんなことになったか、説明するね」
澪はそう言うと、前より数倍大きく見えるその目を伏せた。間もなくしてその目からぽろぽろと雫が落ち、テーブルにちいさな水溜りができた。
高校一年生、春。
行きたかった学校に合格して、新しい生活と友達に胸を膨らませていた。奇跡的に凛と亜蓮と同じクラスになって、優しくてあたたかいクラスのみんなと馴染めて、何もかも幸せだったと思っていた頃。あの頃から、すこしずつすこしずつ、何かが崩れ落ちていたのかな。当時の私は全く何にも気づいていなかった。
それに気づいたのは、それから数ヶ月経ったある日のことだった。その日が、皆を騒がせた“あの日”の一ヶ月ほど前のことだった。
「澪、大事な話があるの」
そう言われたから、私はお母さんの話に耳を傾けた。
「ごめんなさい。私の給料じゃもう無理。だから“あれ”を売るしかないの。いい、かな…?」
「“あれ”って、もしかして…」
「そう。お父さんから貰った、あのネックレス」
私にはお父さんがいない。お母さんがここまで一人で私を育ててくれた。もちろん生みの父はいるけれど、私の記憶にはあまり残っていない。形として残っているこのネックレスしか、父を思い起こさせるものがないのだ。お母さんによると、このネックレスはお父さんから私にプレゼントされたものらしい。お母さんではなく、何故か“私”宛に。なぜお母さんにはなにも遺さなかったのに、私にだけこんなに立派なネックレスを寄越したのか。その謎は今でも解けない。
いずれにしろ、このネックレスは高級なものだと分かっている。
『生活が苦しい時は、これを売りなさい』
お父さんのものと見られる、細長い字がネックレスと共に添えられていたのを見たことがある。今はその紙はどこかにいってしまって行方は全く分からないけれど、そこに書かれている手紙の内容を一語一句違わずに覚えているのは何故だろう。
「私も頑張ったと思う。仕事を掛け持ちして昼も夜も働いて、でもこれじゃ生活がキツいってことに気がついた。このままじゃ生きていけない。だから…これを売るしかないの」
「なんで…?お母さんはそれが大切なものだとは思わないの…?私だって言ってくれれば働くのに」
「澪にはまだ働いて欲しくないの。澪はまだ高校生だから、そんな子供を雇ってくれる場所なんてあるわけないでしょ。もし雇ってくれても大したお金にならないし、大学に行ってからにしなさい。でもそれまでのお金が足りないから、お父さんに頼るの」
「私は、それを売るくらいだったら働くよ」
私は自分の意見を伝えた。
「高校を中退してでも、それを守る価値があるから。お母さんに迷惑はかけないから」
「迷惑をかけるかけないとか、そういうんじゃないの」
お母さんは、なぜあなたは分かってくれないのといった表情を私に向けてくる。
「澪は大学に行ってから働いて欲しいの。そうすればあなたにとっても私にとっても穏便に済ませられる。一旦売ってお金を貰ってから、もしできればまた買えばいいじゃない」
「よくないよ、そんなの…そっちの方が高くつくじゃん」
「澪、お父さんもきっと私と同じようなことを思ってるはずなの。いい子だからお願いよ、私の言う通りにして」
「お父さんがどう思っているかなんて、お母さんは分かってないじゃん」
私はお母さんを遮った。お母さんを傷つけないように言葉を慎重に言葉を選びながら、私は自分の意見を伝える。
「お母さんは女手一つで私のことを育ててくれた。大変なこともあっただろうけど、ここまで育ててくれてありがとう。感謝してる。でも、このネックレスだけは譲れない。いくら死にそうになっても、これはお父さんから唯一貰った形見みたいなものだから、手離したくない」
「…」
お母さんは少しの間黙っていたけれど、思い直したように首をふるふると振った。
「また今度、話をしましょう」
「そんな。まだ話は終わってな…」
「あなたが月に三十万でも稼いでいたりしたら、変わるかもしれないけどね」
その言葉にカチンときた。でも私は癇癪を表情として、または音として外に出すことはなくただ黙って自分の部屋に籠っただけだった。でも、私はその日を境に、何かを無くしてしまったような気がする。
月三十万稼ぐ。お母さんは言葉の綾で言っただけなのかもしれない。けれど、私はあのネックレスを手元に置いておけるのなら、何だってできる。お父さんはそれを望んでいないかもしれないけれど、私はあのネックレスに強い思い入れがあるから。お父さんのことやかけてもらった言葉はよく覚えていないくせに、ネックレスを貰ったことだけはなぜか鮮明に、まるでついさっきあったことかのように思い出せる。
『みお。もう俺はおまえのそばにいれない。だから、これを貰ってくれ。これは、パパからの“未来”のプレゼントだから』
確か、そんなような言葉だった気がする。なぜお父さんは私のそばにいられなくなってしまったのか、それは大きくなってから分かった。お父さんがお母さんと離婚したからだって。離婚した理由は知らないけれど、今の私には関係ない。だって、お父さんは私たちを見捨てたも等しいから。普通なら教育するための費用を払うべきでしょ?でもお父さんはそれを払わずにさっさといなくなった。でも私は心の中にある、あのあたたかくて優しいお父さんの雰囲気が好きだった。顔はどうやっても思い出せないから、きっと会っても分からないんだろうけど。だから別にお父さんのことを憎んでるわけじゃない。ただ、記憶の隅にいるあの優しいお父さんが、私の記憶のまま変わって欲しくなかっただけだから。
それから私は何もかも捨てた。私が一番最初に失踪した日、あのとき何をしてたかというと、…あの時が一番最初だったかな。腹いせにここから近い方の繁華街を歩いていたら、私はとある女性に出会った。彼女は当時、セールスのように私に付きまとってきた。
「儲かる仕事があるんだけど、私とやらない?」
茶髪の可愛らしい女性だったが、ただ儲かると言われても怖いのなんの。
「…水商売とかなんでしょ。やりたくない」
「水商売じゃないって!そんな大胆なこと、私がやれると思う?さ、興味あるでしょ」
興味はなくもなかったので、私はその女性に大人しくついて行くことにした。部屋に通されて席に着くなり、彼女はこう言った。
「でもあんた、やっぱり分かってるんだね。水商売じゃないけど、それに近いことはするかもしれない。でも絶対性行為させることだけはしないから安心して」
「…」
信用できるかできないかは正直分からないがその強い目を見て、私はこの人に賭けてみることにした。
「まずはその大人しい黒髪をどうにかしなきゃね。私の知り合いに頼んであげるよ」
「え?!」
私は引っ張られるがまま、お洒落な部屋に通された。どうやら美容院らしい。
「兄貴ー!この子の髪どうにかしてあげて」
「はいよー」
しかも出てきたのは身長が高いオニーサン。
「え、あの…」
「純粋そうな子じゃん。かわいいかわいい」
「でしょー?」
その言葉に顔が真っ赤になる。私が子供っぽくてかわいいだけなのに、動揺するな。
「ほんとに俺の好きにしていーの?」
「YES!!あんた好みでもいいよ」
「おし、お代はタダでいーから俺の好きにするぞ」
「え!?あ、はい?」
訳が分からず待つこと一時間。メイクもされて、ちょっとだけ自分でも楽しみかも。
「わ…」
これが私?は言い過ぎだけれど、やればできるじゃんと言えるくらいのレベルにはなっていた。柔らかい金髪がゆるりと肩に落ちていて、綺麗な艶がついている。
「かわいーじゃん。やっぱ元がいいんだね、清楚が一番かと思ったけどギャルみたいにもなれる」
「だな、かわいい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の鼓動をダイレクトに感じる。いくらイケメンだからといって、落ち着け私の心臓ー!
「ってかごめん、髪染めるの禁止されてたりとかする…?」
眉を下げながら言われ、
「いえいえ!ぜんっぜん大丈夫です!」
慌てて首を振る。私の知る限り、学校の校則ではダメらしいというのは聞いたことがある。けれどようやく「自分らしさ」が出てきた気がしたから、私はこのままでいたかった。
「これだったら結構よくない?でこれからしてもらうのがパパ活かな。兄活ってのもあるけど、なかなか少ないかもね。オファーが入ってきてたんだけど、私ひとりで回すのはきつくて。お願い、私と一緒にやってくれないかな…?」
「…え…」
「さっきも言った通り、絶対にセックスさせたりなんかしない。それはパパのほうも了承済みだし、もし無理やりヤらされたら分かるようになってるからそこは心配しないで。それにあなたの連絡先とか下の名前とかは聞くけど、それ以外のことは聞かないから。お願い、頼むよ」
私はその女性の必死さと、お金の必要さに負けた。
「やります」
と、いうわけで私はパパ活または兄活をすることになった。パパ活といっても、数時間大人の男の人と食事をするとか、お話をするとかそんなもんだからそこまで負担にはならなかった。そして深入りはせず、下の名前とパパ活専用の連絡先を教えるだけにした。パパ活専用の連絡先は私にこの仕事を紹介してくれた女性…由莉さんが管理してくれているから楽だ。そうして私は順調にお金を貯めていった。
「お母さん、一ヶ月に三十万稼いでみたよ」
一ヶ月後、私はお母さんの目の前にお札をぽんと置いて見せた。百万円でひとつの札束になるから、全然薄っぺらい札束ではあるけれど。でもちゃんと数えてみると、一万円札が三十枚あるんだよ。
「…どうして…」
「ね、私だってやればできるんだよ?だからあのネックレスを買い戻したっていいでしょう?」
「なんで…なんでそこまでするの」
お母さんの声がくぐもって聞こえる。
「お父さんのことなんか忘れて。あなたにはお父さんなんていないの」
「いるよ…」
私はどうしてもそれだけは否定したかった。
「お父さんは私達のことを気にせず離婚したかもしれない。けれど、お母さんとは違って私はお父さんを恨んでなんかいないから」
「何よ、私とは違うって…」
「お母さんは私に月三十万稼げばいいって言ったよね。私は頑張ったよ」
「だからって高校を休めとは言ってない」
その返答に、私は言葉に詰まる。
「それなら私がやっている事が何もかも無駄になってしまう。授業料だって、いくらかかると思っているの?ちゃんと受けなさい」
「…でも…」
「でもじゃない。どうせ澪のことだから変なところでお金を稼いだんでしょう?そんなことをしてもしお金を請求されたらどうするの?私達じゃ、とても払えないくらい分かっているでしょう」
「…」
「今すぐやめてきなさい」
「それはできない」
「何で?」
「お母さんが働くよりよっぽどお金を稼げる方法を、私は知ってしまったから」
「…っまさか澪、あなた援交でもしたの…?」
「してない。そんな度胸、私にはない」
私はお父さんのために何だってできると言ったかもしれない。でもそれは流石に限度がある。残念ながらなのかは分からないが、私には援交なんてするタマはついていない。まあ、それに近いことはしてる…のかもしれないけれど、それとは全然覚悟が違う。
「パパ活でお金を稼いだの」
「パパ活!」
吐き捨てるようにその台詞を言ったお母さん。
「おじさんにお金をせびったの?その金髪で?」
「金髪は関係ないの!自分で染めただけ」
「校則で禁止されているんじゃなかったっけ?なんでそのままの髪で高校に行ったの。それで怒られるのはあなたじゃなくて私なんだから」
「違う。お母さんには心配をかけないから」
確かに私は学校で反抗的な態度をとった。でもその理由は、パパ活もなにも関係ない。私に似合う、そう言ってくれた人がいるから。だから、この金髪は元に戻せない。元の、何も知らない自分には戻りたくない。
「もういいよ。さよなら」
そして今がどういう時間かを気にせず、私はお母さんの目の前から姿を消した。
「夜八時か…」
家を出てからそう呟く。昔はこのくらいの時間に寝てたな、なんて思い出す。
でも、もう昔の私はいない。いい子ちゃんな私はもう存在しないんだよ。
そんな日常が変化するのは、あっという間だった。
「そのネックレス…」
「良いでしょ?私のおじさんが買ってくれたの。これ、後で魔王に売りつけるから」
「待って、それって…」
「パライバトルマリンっていう宝石なの。初めて聞いた?トルマリンの中で希少なもののことを言うの」
「…」
私がずっと探し求めていたものが、そこにあった。
「あの、それってちょっとだけつけさせてもらってもいいですか」
「いいけど、取り扱いには十分注意してね。いくら中古だとはいえ、かなりの高値なんだから」
中古。
そう呼ばれたネックレスをそっと首につけてみる。あの時と同じひんやりとした温度、そして特徴的な彫刻。
「ほぼ確信」が「確信」へと変わった。
「このネックレスって、“魔王”という方に売ってしまうんですか」
「そ。私がこんなもの持ってても壊しそうだし、だったら金になればいいかなって」
「魔王とは、誰なんですか」
「知らないの?裏の世界の王、類翔」
類翔。個人的に好きな名前だと思った。“る”から始まる「瑠璃」という言葉が好きで、それとすこし似ているような気がしたから。
「あんたの髪をセットしてくれた男がいたでしょ?その男が類翔」
「あの人が…」
やけに綺麗な顔をしているな、と思った人だった。モデル顔負けの美肌で顔の作りも外国人っぽくて、言ってしまえばタイプそのもの。
「もしかしてこのネックレス、欲しい?」
「えっ…」
私は黙った。はっきり言ってしまえば、欲しい。けれど盗むとか、そういうような方法はしたくない。というか、常識のある人ならばしてはいけない行動だし。
「魔王に頼んでみれば?」
「…」
「冗談だよじょうだ…」
「やってみます」
「え!?」
「魔王はどこにいるんですか?」
「多分この前と同じ場所…」
由莉さんが言うか言わないかのうちに、私は駆け出していた。
「あ、この前の清楚ちゃんじゃん。なんか用?」
「…あの、ネックレスを譲って貰えませんか」
私は単刀直入に言った。
「なんで?」
そりゃそうなるわな。私は勇気を振り絞って自分の意見を伝える。
「それ、元々私のネックレスで。母親に勝手に売られて、探していたもので…。だから、お金はあまりないけれど譲ってくださると…」
「お金っていくら?」
「今は三十万なら…家にありますけど」
「そんなんじゃ足りないなー。その五倍はするよ」
「そんな…」
やっぱり世の中は甘くはなかった。流石に私の事情なんかに同情してくれる人なんていないか。それにお母さんはネックレスと同じくらいの価値のお金を手にしている。あのお金さえあれば…。
「そんなにあれが欲しいの?」
「はい」
「じゃ、俺になんかしてよ」
「は?」
と言ってしまってから、私は慌てて口を閉じる。なんかしてよ、とは。
「例えば馬車馬のように働くとか。女には不自由してないからさ、セックスとかはしなくていーよ。清楚ちゃんを襲う趣味なんてないし」
なんだかバカにされているようで気に入らない。
「あ、もしかしてそーゆー系のをお望みだった?だったらそれでもいいけど」
「別に!」
私はふいっと目を逸らそうとした。が、どこからか彼が取り出したナイフが首に突きつけられる。ひんやりとした感触が生々しくて、一気に身体が動かなくなる。
「将来ご主人様になるかもしれない人にそんな口を聞くなんて、悪い下僕だな。俺は女だからって容赦したりはしないからな。殺したきゃ殺すし、お仕置きも俺の拳や足で行う」
「…」
「それでも働きたいか?」
「…」
何も言葉が出てこない。そんな私を見て、彼はふっと笑った。
「ま、いい。一週間の猶予を与える。それまでに俺に仕えるか、ネックレスが売られるのを指をくわえて見ているか決めるんだな」
「…はい」
私が返事をすると共に、ナイフがそっと下ろされる。私はほっと息をつくと、彼と目を合わせないようにして猛ダッシュでその場を後にした。
家に帰ると、ドアの鍵は開いていなかった。いつもは無防備に開けてあるのに、珍しい。でも鍵なら持ってるもんね、私はバックの中からそれを取り出してドアを開けた。家に入ると、どうやらお母さんはまだ帰っていないらしく真っ暗だった。
私がリビングに着いたと同時に、家電が鳴り出した。セールスかと思って放っておいたがしばらくしても鳴り止まないので、私は渋々電話を取る。
「沖田さんの家で間違いないでしょうか」
冷静な女の人の声が聞こえた。
「はい」
何か悪いことをしただろうかと不安になっていると、
「沖田湊さんが…」
お母さんの名前が、聞こえた。
「沖田湊の娘なんですけど…」
私はすぐにお母さんがいる場所へと向かった。ここから若干遠かったが、お母さんのためなら仕方ない。
「沖田さんですね。こちらへ」
案内された部屋には、顔に布を被せられた女の人が横たわっていた。私の口からああ、と息が漏れることもなかった。
「…お母さんですよ」
言われなくともそれは分かった。でも、それを見てもなんの感情も湧かなかった。私はただ立ち尽くして、無表情でいるだけだった。泣きたくもないしかといって笑いたいなんてありえない。人が死ぬってこういうことなんだ、と思っただけだった。その手に触れてみると、まだ少し温かかった。いつもは熱いお母さんの手がここまで温いのは、違和感しかなかった。
「お母様…湊さんは過労死のようです。まだ定かではありませんが。そしてこのことを沖田総さんにも連絡をしています。その方に全てを任せることになっているそうなので、あなたは家に帰ってもいいですよ」
「では、そうさせてもらいます」
そう言うと、もちろん驚いたような表情をする女の人。総さん…叔父さんが全てやってくれると言うなら、私がここにいてもなんの意味もない。お母さんの死をいたわりたい、そんな思いさえ湧かない私はおかしいのだろうか。いや、おかしくないと思う。
…なんて、反語かよ。思わず笑いそうになる。そんな私を見て、さらに怪訝な表情をする彼女。同感だよ、ここまで何も感情が湧いてこないなんて初めて。彼女もこんな人と一緒にいたくないよね。私はふっと口元を緩めると、その場を後にした。
それからは皆が知っている通り。どこからか噂を聞きつけたこのマンションの住人がみんなに広めて、それが凛たちの耳に入ったってこと。それから類翔とも由莉さんとも会ってないし、別に今は会わなくていいと思ってる。あの人達はどうせ裏の世界の住人なんだし、私に起こっていることくらい理解できているでしょうよ。だからわざと連絡はしなかった。もちろん、あっち側からは連絡が来た。『大丈夫なの?』とかね。勝手に私の行動を見ているのが丸わかりだっつーの。それを見て、なんだか全てがどうでも良くなってしまった。
…生きていることになんの価値がある?
お母さんを死なせておいて、それになんの感情もない私に、生きる権利なんてある?
答えはひとつに決まっていた。私はスマホを開くと、『自殺 方法』と入力してみた。すると一番最初に出てきたのはなんだったと思う?『こころの相談ダイヤル』、だよ。ふっ、笑わせんな。もう私は相談してどうにかなるような場所にはいないんだよ。当時の私はそう思ってたから、それを頼りにはしなかった。今考えれば、もう少し頼っても良かったかな、と思っている。スマホをスクロールさせていくと、とある言葉が目に入った。
『首吊りほど安全かつ確実に死ねる方法はない』
首吊りか。確かにそうかもしれない。ナイフだといざ死ぬ時に手元が狂うかもしれないし、凶器を使うといってもロープがあれば十分だ。あとはロープを天井から吊り下げて、端に出来た輪っかに首を通すだけ。なんだ、思ったより死ぬのって簡単なんだ。私は覚悟を決めた。さよなら世界、そしてこんにちは別の世界。その輪っかに首を通そうとした。
ピーンポーン。
なんでこのタイミング。私は悪態をつきながら渋々それをやめて、ドアを開けた。その人物を目にして、私は目を大きく見開いた。
「え…」
「澪、話してくれてありがとう」
と私はまず最初に言った。まるで鍵をかけられた扉のような口をしていた彼女が口を開くなんて、思ってもみなかった。それに理由がこんなにも残酷だとは。もしかしたら私が「ルイトが…」と伝えたことで、彼女を動揺させ自殺の道へ導いてしまったのかもしれないと思うと、頭がおかしくなりそうだった。あの危ない街であそこまで生き延びてきた彼女は、すごく格好よく見えた。寧ろ、
「私より、“凛”としてるよ」
と言うと、初めて彼女は笑みを浮かべた。目元が赤くなっていて泣き笑いのようだったが、それでもここ最近で見たどの澪の笑顔より好きだと思った。
「何言ってんの」
凛は凛、私は私だってば、と言う澪。
「凛、私ね」
と彼女は話し始めた。
「凛とか葉月とか亜蓮とか蒼とか、…幼馴染には絶対に教えたくなかったの。何となく気まずい、ってのもあったけれど、何よりこの四人は私を助けてくれてしまうだろうから。当たり前みたいに言ってごめんね、でもこの十六年の絆だもん、きっとお金を援護しようとしてくれるかもしれない。そんなことになったら私は断りきれないし、嘘でもなんでもないから誤魔化しがきかない。だから、最初から黙って貫き通そうとしたの。もちろんお母さんもなにも話さなかったでしょ?お母さんは理由を聞くふりをして、私を試してたの。私がちゃんと戻ってくるように、ね」
「お母さんは私がいなくなった理由には直ぐに気づいていなかった。どうせ虫の居所が悪いと思っているだけだったのかな。あの話し合いの後すぐにいなくなった訳でもないし、関連性が低いと思ったのかも。でも紛れもない事実だし、お母さんがそれに気がつくのも時間の問題だろうって思ってた」
「お母さんがようやく気づくまで、かなり時間がかかったかな。ようやく頭を悩ませて絞り出した答えが、この結論に至ったわけ。私はその頃家に帰っていなかったわけじゃなかったから、お母さんに問い詰められたよ。夜十二時に、近所の迷惑になることも考慮しないで大声で怒鳴られた。あの時、ちゃんと謝っておけば良かった。あの時頭を下げることを躊躇しなければ、もう少し未来が変わったかもしれないのに…」
澪の嗚咽が聞こえた。湊さんは死んだ。これは一生変えることができない事実。
人は誰でも、いつかは死ぬ。人に限らず動物はいつか死ぬ。その死ぬタイミングが少し早まっただけ。そう考えればいいのに…。どうしてこんなに涙が出てくるんだろう。
湊さんはあたたかい人だった。澪の家に遊びに行ったときも、私のことを快く迎え入れてくれた。他のどこの家に行っても、湊さんに勝つ家はなかった。湊さんが一番私にとって大事な親代わりの存在で、大人の中で一番心を開ける相手だった。その程度はお母さんにも勝るくらいだったかもしれない。でもいつだったか、澪のお母さんは仕事に明け暮れ、疲れた顔をして家に帰るようになっていた。澪や私が「大丈夫?」と声をかけても、こくりと頷くだけ。安否を確認しても、結局のところ意味はなかった。やっぱり子供ってのはほんとうに無力なものだ、とつくづく思っただけだった。
「…私さ、お父さんに会いに行きたいと思う」
「連絡先とか、知ってるのかよ」
「うん。たぶん」
澪はそう言うと、ポケットからネックレスを取り出した。多分それは、パライバトルマリンとかいうネックレスとは別のものなのかな、だってやけに安っぽいから。そしてそのネックレスの真ん中にかかっているダイヤの宝石を、割った。
「!?」
割ったように見えたのは気のせいらしく、どうやらそこには隠しポケットのようなものがあるらしかった。そこから取り出したのは、黄ばんだ紙切れ。
「○○県○○市××区××町マンション12の6」
ここに、澪のお父さんがいる…?
「行ってくる…感動の再会だなんて、そんなの思ってないから。ただ私がしてしまったことを、ありのままにお父さんに伝えていきたいと思う」
「うん。それでいいと思う」
澪がこの紙に気がついたのはいつ頃だったのだろうか。もしかしたらかなり前だったのかもしれない。それから今まで会いに行かなかったのは、不思議かもしれない。でも私は納得がいった。澪ならきっとそうするだろうという確信があった。
「皆にはきっとものすごく迷惑をかけたから、話さなくちゃいけないよね。帰ったら伝えるから、それまで待ってて」
「分かった」
澪にお父さんがいることも、そしてそのお父さんが生きていることも知っていた。けれど私に行く権利はないと思う。というよりは、私達が首を突っ込む権利はない、と言った方が正しいかもしれない。私達は澪が知られたくないことにしゃしゃり出て、澪に多大なる迷惑をかけた。もちろん、澪がその事について知られたくないと思っていることを承知の上、だ。だから、澪がこのあとの話を話してくれるなんてことを聞いて少し嬉しくなった。湊さんのためにも、そして澪自身のためにも、しっかり聞いておかなくちゃ。
「私、お母さんが何をしてくれていたか知らなかった。生活保護とかも当然受けているんだって思ってた。けれどお母さんは忙しくて、多少は貰っていたけれど全ては貰えなかったんだと思う。生活保護についてもっと私が詳しく調べておけば…」
「澪。起きたことはもう仕方ない。振り返るな」
亜蓮が言った。
「私、その言葉大嫌い」
澪は泣きながら言う。
「まるで自分が悪くない、起きた後はどうなったっていいんだ、そう言われてるような気がするから」
その言葉に、亜蓮は身体をびくっとさせる。
「私は過去を振り返るよ。今みんなに言う。その代わり、私は罪と生きる。だから、この罪と共に生きている私を、受け入れてくれませんか」
「受け入れる受け入れないって、そんな問題じゃないでしょ」
と私は澪に返した。
「かと言って許すとか許さないとか、そういう問題でもないと思う」
じゃあどんな問題なんだよ、って突っ込みたくなるかもしれない。
「私達が澪のことを好きでいる。澪も私達のことを好きでいてくれている。それだけで十分でしょ?」
「…凛…」
「澪が今まで隠してくれていたことを話してくれた。私達もそれを聞いた。それでいいから」
「…凛は、いつまでたっても変わらないね」
「ん?どういうこと…?」
首を傾げる私に、澪は笑いながらもこう言った。
「そのままでいてってこと」
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