僕らの今日より、君の明日を
朝吹透羽
第1話
その日は、朝から何かがおかしかった。
「凛!起きなよ!」
という澪の声が聞こえない。いつもはその大きくてはっきりとした声で起きるはずなのに。なぜだ、と思ってうっすらと片目を開けてデジタル時計を見てみると8、1、0の数字が見えた。
「やば!」
私は布団を乱雑に畳んでから急いでパジャマを投げ捨ててワイシャツを羽織り、その上からブレザーのボタンを閉める。こんなに朝寝坊したのは久しぶりだ。
うちは共働きだから起こしてくれる人なんていない。でも私は目覚ましなんかじゃとても起きられない。目覚ましを鳴らしても、気づけば布団の中で眠ってしまっている。
だから、私はよく澪に起こしてもらっていた。澪なら私の家の合鍵を持っているし、私の家から近いし、それになにより信頼できるから。
きっと今日は相当忙しかったのだろう、澪が私を起こしに来なかったのなんて、私が澪に起こすよう頼んでからはじめてかもしれない。
「あーもう!」
私は一人で叫んだ。トイレも行きたいしまだ髪も整えてないし顔も洗ってないし。歯磨きは学校でやれるかな。…いや、やろう。こんなんで始業時間に間に合うのかな、なんて思いながらトースターに適当にパンをセットしてスイッチを鳴らす。準備かなんかで3分くらい潰れるだろうし温かいパンを食べたいし。朝食はどんなに急いでいてもちゃんと摂るっていうのがマイルール。
とりあえずトイレを済ませてからトースターでほかほかと私を待っている(であろう)パンを手に取り、がぶっとかぶりつく。すごいね、食パン3口で食べれたのは初めてかも。
そしてその後にぐちゃぐちゃに荷物が詰め込まれた鞄を手に取り走り出す。
「はよ」
エレベーターには、私の幼馴染のひとりである谷口葉月がいた。
「え⁉︎葉月大丈夫なのこんな時間で」
「大丈夫じゃないよ?」
「じゃあなんでそんなのんびりしてんの⁉︎」
私は半ば呆れながら尋ねる。
「だって自分が急いでても、エレベーターは急いでくんないじゃん」
眠そうに大きな欠伸をしながら葉月が言う。
葉月は漫画でも王道だと言われるような爽やかイケメンだ。癖のないさらさらの黒髪は眉毛にかかるくらいに軽く落ちている。目尻が下がっていてどこか優しい印象をも思わせる。———ただしそれは見た目のみ。
実際は超がつくほどバカで鈍感で、空気も読まないし面倒くさがりだし恋愛のれの字もないくらい恋に疎い。バレンタインのときに女の子が彼に本命チョコを渡していたのだが、本人は全く気付かなかったようで
「ん?俺にチョコ?なんで?…まぁいいか、ありがとー。ずいぶん豪勢だねー」
と大きな声で言っていた。…もうどこからどう突っ込んでいいのか分からないくらいひどい。
見た目だけで近づいたら別の意味で打ち砕かれるよ、とでも言っておこう。
すんごく簡単にまとめると、なぜかスポーツはできるけど長所と言ったらそれくらいしかないポンコツイケメンって感じかな。
「今何時?」
「8時半」
私は葉月の声に被せるか被せないかの速さで言った。どうやら時間を急いでいると言葉も急いでしまうらしい。てか20分で支度してエレベーターに乗った私偉すぎな?
「絶対無理じゃん。堂々と遅刻すりゃあいーじゃん」
「よくない!そーゆーのは大事なんだから!」
「凛は変なとこで真面目だよな。授業中いっつも寝てんのに」
「それとこれは関係ない!はいもう着いた!先行くね!」
私はエレベーターのドアが開くのと同時に駆け出した。
「え⁉︎なんで葉月も!?」
なぜか葉月も横で走っているではないか。しかも私のように必死にバタバタ動かしているわけではなく、その持ち前の長い手足を武器にゆったりと動かしている。くそ、羨ましい。
「なんか1人で行くの寂しーじゃん」
「葉月、あんた、こ、ども…はー、はぁ」
私の息は次第に荒くなっていく。話すのも億劫で口を閉ざしたが、息が苦しくなってほんの僅かだけ口を開く。その様子を見て葉月がぷっと吹き出した。
「凛、元バレー部なのにね」
「うっさい」
私はそれだけ言って、走るスピードを上げた。
「はー…はー…」
私は息を弾ませて自分の席に座った。
ちなみに間に合わなかった。ギリギリ。
先生に抗議したけど
「1秒過ぎてたらもう遅刻なんだ。大人はそういうのにシビアだから今のうちから学んでおく必要があるんだ」
とかなんとか言って頑として受け付けてくれなかった。
「残念だったね」
私の席の近くにいた男子が声をかけてきた。彼は亜麻色の柔らかそうな天然パーマの髪を持っている。目は黒だけど彫りが深くて、鼻もすっとしていて綺麗だ。彼の名は亜蓮。私の幼馴染のひとりで、たぶん彼が一番の美形だと思う。
「澪は?」
と彼が尋ねた。彼は私が澪に毎日起こしてもらっているのを知っている。
「知らない」
私は斜め前の澪の席を見てみた。やっぱり。その席は空っぽのままだ。
「澪は欠席か?知ってる人いるかー?」
それに先生がこういう風に言うってことは、澪が欠席かどうか分からない、つまり澪は欠席の届けを出していない、ということだ。
もちろん、誰も答えない。先生は小さくため息をつくと、
「一時間目は数Aだな。はい、解散ー」
とすぐに出て行ってしまった。
「もしかしたら澪、急に熱出してたんじゃないかな。ほら、澪は母子家庭だからお母さんが電話する前に行っちゃったとか」
と亜蓮。
「んー…なんか嫌な予感がするんだよなー…」
私はその推測が違うと思った。澪は調子が悪くても必ず欠席の連絡はするはずだ。亜蓮の言う通り、澪は母子家庭だから
『帰りなんか買ってきてくんない?お腹すいた』
というLINEくらいなら来るはずなんだけど。澪はよく熱を出すから、私はよく買い物に駆り出されてる。
その私の違和感は、見事に当たることになる。
「え⁉︎澪がいない?」
私はスマホを片手に大きな声をあげた。お母さんがびっくりしたようで私に視線を向けてくる。
『そうなの。もしかしたら凛ちゃんと一緒にいるかと思って。でも、もう10時だものね…遅くにごめんなさいね』
電話の主は澪のお母さんだった。
「いえいえ、でも澪がいないなんておかしいですよね。探しましょうか…?」
『そんな、いいのよ。多分もうそろそろ帰ってくると思うから』
「でも…」
「凛!」
いきなり外から大きな声が聞こえてきた。この声…亜蓮だ。
「あ、ごめんなさい、切りますね!」
『え⁉︎あ、そうね…ありがとうね』
私は電話を切ると急いで玄関のドアを開けた。
「どうしたの?」
こんな夜遅くに出てくるなんて。
「まだあいつ帰ってきてないのか?」
あいつ、とは澪のことだろう。
「そうみたい。澪に何かあったのかもしれない」
「とりあえずもう一回澪に連絡を取ってみようか」
「そうだね」
亜蓮の言う通りだ。まずは澪に携帯が通じるか確認しておかなければ。
私はスマホを取り出して、澪のトーク画面をタップした。
『澪?』
そう呼びかけてみても、なんの返事もなかった。それに9時間前に送ったメッセージさえも既読がついていないということに気がついた。
私が首を振ると亜蓮は後頭部に手を当てて上下にくしゃくしゃと動かした。これは彼が困っている時に見せる癖だ。
「俺は葉月を引っ張り出してくるから。きっと蒼は受験勉強でもしてるから無理だよな…凛は家で待ってろ。葉月と俺で探してくるから」
「嫌だよ、みんな動いてるのに」
「もう暗いし、凛は女の子なんだから」
亜蓮は私のことを女の子扱いしてくれているんだって分かってる。それ自体は嬉しい。けど今回ばかりは譲れないから、亜蓮に目で訴えかける。
ほんとは知ってた。亜蓮がこういうことをすれば断りきれないってことを。
でも澪がいなくなって心配しているのは亜蓮だけじゃないから。私だって、何もできないかもしれないけれど力になりたいって思ってるから。
「……仕方ねえな。行くぞ」
私は頷くと、お母さんに許可も取らずに亜蓮とともに先を急いだ。
私達は葉月の住む階に着いて、葉月の部屋のインターホンのチャイムを鳴らした。
「夜分遅くに失礼します。あのー…葉月っていますか?」
『凛ちゃん?葉月ね。はづきー!凛ちゃんが呼んでるわよ!』
葉月のお母さんの声が大音量で響く。こんな時じゃなければ笑っていただろう。
しばらくして葉月がドアを開けてきた。
「何の用?」
葉月の目はとろんとしていた。きっと今から寝ようとしていたのだろう、なんだか申し訳ない。
「澪が帰ってこない」
と亜蓮が言うと、その目は一気に深刻げになった。
「凛は亜蓮と一緒に行けよ。俺は一人で探すから」
「ん、それがいいな」
男同士で私の押し付け合いをしていて申し訳ない。
「…亜蓮、ごめんね」
葉月と別れた後、私は彼に謝った。
「ん?なにが?」
と首を傾げる亜蓮。
「…私が女の子だから」
パーカーのフードを目深に被って言うと、亜蓮がその上から私の頭をよしよしと撫でてきた。
「俺が心配なだけだから」
亜蓮は本当に優しい。いつも彼は私を助けてくれる。
「澪が行きそうな場所ってどこかな」
と亜蓮が話題を変えた。そうだ、今は澪を探しているんだった。
「澪は繁華街とかは行かないと思うんだけどな…とりあえず公園とかそういうところもしらみつぶしに探していくのもいいと思う」
「そうだな」
私達はすこしだけ歩調をはやめた。
「…いないな」
私達が澪を探し始めてそろそろ一時間が経とうとしていた。
『亜蓮、見つかったか?』
亜蓮が私にも聞こえるよう調節してくれたお陰で、大音量で葉月の声が聞こえる。
「いや。まだだ」
『澪のお母さんがもういいって。明日にも捜索願でも出すからって。このままだと補導されるぞ』
「…そうだな」
「…」
葉月の言う通りだった。
「俺らも帰るわ。また明日、澪のお母さんに電話してみよう」
というわけで、なんの意味もなく澪の捜索は終わった。そのあとお母さんにものすごく怒られたのは言うまでもない。
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