王立水族館アトランチカ

一色まなる

前編

 クローディアスにとって、最大の友はノアだった。されど、ノアは人ではなく、大きな白鯨だった。ノアは水槽の中に囚われてはいるものの、その雄大な動きはのびやかであった。


 魔法都市エデン。魔法使いが集う街でひときわ目を引くのは、各地の動植物をかき集めた水族館であった。アトランチカ、そう名付けられた水族館には、エデンの技術を誇るように大小さまざまな水槽、きらびやかな装飾に、最先端の研究施設が備わっていた。

 エデンに来た人々はまず、アトランチカに魅了される。その一人がクローディアスだった。


「あれが……ノア。……奇跡の獣」

 エデンに生まれ育ったクローディアスは魔法の才能に恵まれなかった。次第に級友たちに追い抜かされ、教師にはため息をつかれる日々だった。そんなクローディアスに両親はせめてもの慰みにとアトランチカのパスポートを譲った。

 アトランチカのパスポートは優秀な魔法使いにしか与えられない貴重なもので、まだ8つのクローディアスは罪悪感でいっぱいだった。

 ―――けれど、”彼”がいた。


 初めはその巨大さに。次第にその優雅さ、美しさに目を奪われた。白磁の表皮に浮かぶ文様は古き時代の魔法陣のよう。照明の光によって赤にも青にも移り変わる文様はまるで書物を読んでいるかのよう。

 ノアは特別な白鯨だった。なぜなら、エデンの魔法使いたちが技術の髄を極めて復活させた鯨だったからだ。鯨のような巨大な生物はかつての悲惨な戦争によってすべてが死に絶えたという。魔法の素材に使われたからだ。

 ライオンやゴリラ、シャチなどの強暴な生き物は武器にしやすかった。鯨もその影響を受け、この星から姿を消した。

 エデンでは、絶滅した生き物を復活させる魔法を研究している。その研究の成果を水族館として展示しているのだ。だから、無制限で入場できるパスポートは限られた人間にしか渡されない。


「すげぇなぁ……。きれいだ」

 水槽に張り付くようにクローディアスはノアを見上げた。そこはノアのためだけの特別な水槽で、ドーム状に作られた水槽の中をノアは悠然と泳いでいく。鯨が生息していたという深海に合わせ、展示室は薄暗く、もう少し暗くなればプラネタリウムでもできるのではないだろうか。

 それでも全く息苦しさを感じないのは、ノアの表面に浮かぶ魔法陣から発せられる光のおかげだ。

 ぽこ、ぽこ。

 時折、ノアが発する呼吸の音が少し大げさにドーム内に響く。それは定期的で、まるで子守唄のようだ。アトランチカを代表する水槽だからか、ドームの中には休憩できるスペースがあり、座り心地の良い椅子が配置されている。

(ノアに寝かしつけられているみたいだ)

 椅子に座り、目を閉じていると自然と誰もがそう思う。ノアが水中を泳ぐたび、息をする度に心地の良い音が流れる。水槽の水が入れ替わる音もさざなみのように聞こえる。

 クローディアスがノアの所に入り浸るようになるのも、無理はない事だった。毎日鯨を見に来る少年がいる、それが自然に思われるのに時間はそうかからなかった。クローディアスは学校で出された課題をノアの前でするようになった。

 ノアの前であれば難しい呪文の暗記も、歴史上の偉人の偉業もすんなりと頭に入ってくる。魔法の才能には恵まれないままであったけれど、彼の悠久の瞳の前ではささいなことだとクローディアスは思った。


 数年後、クローディアスはいつものようにノアの前にやってくると、上級生の課題を進めていく。14歳になったクローディアスは、学校を卒業してからの進路を決めかねていた。魔法を上手に扱うことのできないクローディアスに残されている選択肢はあまりない。

「ここで働けたら一番いいんだろうけれど、それこそ夢のまた夢だしな」

 アトランチカの職員になるには、それこそ類まれなる才能の持ち主でなければならない。幼い頃から気付いていたことだ。顔見知りになった職員たちはみな、それぞれが優秀な魔法使いだったからだ。

「ノア。学校卒業したら、毎日は来れ無くなるけれど、それでも、時間がある限り来るよ」

 クローディアスにとって、ノアは偉大な師であり、気の置けない友だった。語りかける言葉に返事が無くてもよかった。そして、課題の本を広げたとたん、急に辺りが輝きだした。

「え?」

 光は次第に強くなっていく。白から赤へ、赤から青へ、緑、金、紫と、数えきれないばかりの小さな光の粒が上から降り注いでいく。色を変えながら落ちていく雪のような光は床につくとはじけて消えた。

「何が起こったんだ??」

 閉館時間も近い頃で、辺りには人がいない。いや、”いなくなった”。クローディアス以外の人間が入って来れないような障壁魔法が作動している。その証拠に、職員の通用口からどんどん、と力強くたたく音がしている。入って来れないのだ。

 誰が? 僕が?

「まさか」

 障壁魔法は基本中の基本だが、クローディアスのそれは豆鉄砲でも壊れてしまうほどちんけなものだ。魔法が作動する音が聞こえている。それも、かなり強い魔法だ。それを阻むほどの強固な障壁がこの空間一体にかけられたのだ。

「ノア……なのか?」

 ノアはゆっくりと水槽の中をいつも通りに泳いでいく。何の変化もない。

 ズ、ズ……。

 ノアはクローディアスの正面にやってきた。額の文様が淡い光をまとっている。その光を見たとたん、クローディアスの足元が揺らいだ。急に誰かから足元をすくわれたようだ。


 ――― 君に、幸福があらんことを。

 

 横倒しになっていく体の中から、誰かの声がした。床に打ち付けられ、はっと気が付くとノアの体が光に包まれていく。今まで見た光の中で一番強い光だ。まるで、太陽がそこにあるかのようだ。

 光の雪の中、ノアの体が水に溶けていく。

(ノア……?)

 クローディアスは手を伸ばす。体が鉛のように重く、鈍くなっていく。


 ――― 君に、幸福があらんことを。


 もう一度、聞こえた。男とも女ともつかない、やわらかな声色が。 

「ノア!!」

 もう一度気づくと、そこにはもぬけの殻となった水槽と、大勢の職員たちの話し合う影法師があった。

「ノア! どこだ!? ノア!!!」

 クローディアスは声のかぎりに叫んで、周りを見渡すも、あの淡い光はどこにも見当たらない。 

「クローディアス君。ノアは消滅したんだ」

「嘘だ!」

 見慣れない人物だが、職員のネームカードを首から下げている。職員と思しき男性は柔らかな物腰で、クローディアスをなだめる。

「魔法は永遠じゃない。私たちの限界をノアは教えてくれたんだ」

「嘘だ! アトランチカは最高の研究所だって、父さんが言ってた! ノアが消えるなんて! そんなこと!!!」

「ノアが消えることは前々から予測はできていた。今日がその日だっただけだよ」

「そんな! でも、でも! 僕は!」

 クローディアスの言葉に男性はうつむきそうだね、と小さくつぶやいた。

「君の事は他の職員からよく聞いている。クローディアス君。ノアは君になんて伝えて逝ったのかな?」

「…………」

 そう言われ、クローディアスの胸にすとんと落ちるものがあった。気が付くと、顔見知りになった職員の顔が見えた。みんながクローディアスを心配そうに見つめていた。気づかないうちに自分は有名になっていたようだ。

「ノアは……。僕に……」

 幸せになってほしい、と。

 その言葉は声になっただろうか。クローディアスの両眼から涙があふれ、止まらなかった。先ほど見た光とは比べ物にならないほどそまつなものだった。


「クローディアス君、良かったらの話だけれど……」

 泣きやんだクローディアスに、先程の男性が声をかけてきた。

「ここにこないかい? アトランチカは君を歓迎するよ」

「え?」

 寝耳に水とはこのことだ。

「アトランチカの保全職員。要するに掃除や雑用になってしまうけれど、ノアが障壁魔法を使ってまで君との最期の時間を過ごしたかったんだ。それが要因だ」

「なんで?」

「ノアは生み出されて消えるまで、誰ともコミュニケーションをとろうとしなかったんだ。心を読む魔法を使っても、誰も彼の心を知ることはできなかったんだ」

 ノアが魔法を使えることは何となくわかっていた。でも、それなら、なぜ。

「ノアはもしかしたら、君をアトランチカに呼ぶために生まれたのかもしれないね」

「僕が……アトランチカに……」

「返事はいつでもいい。待っているよ、クローディアス君」

 アトランチカに行ける。それは、落ちこぼれと笑われ続けたクローディアスにとってまたとないチャンスだった。


 クローディアスはためらいなくアトランチカの門をくぐり、下っ端の職員となった。雑用ばかりの毎日ではあったけれど、そもそも毎日のように通っている場所だから、勝手は分かっている。

 それでも、クローディアスはノアのいた水槽には近づけないでいた。他の職員も気を使ってか、水槽に近づかなくてもいいようにしてくれていた。その気遣いに感謝するように、クローディアスはてきぱきとよく働いた。

 そんなある日の事、クローディアスに新しい仕事が入った。

 

 あの水槽に、新しい白鯨が入るのでその世話をすることだった。


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