第31話 役割を与えられぬもの

「殺そう」




 何気なく呟いたその言葉は、しかし声に出してみるとそれ以外に私に選択肢は無いように当たり前な決断に思えた。




 私は、アリスを許さない。




 だから殺すのだ。しかし問題はどうやってあの世界に行くのか、まともに体も動かせないこの現状で。わからない、だけど殺さねばならないのだ。




 何はともあれ、まずはこの体を治す事から始めねばならないだろう。あの世界に行く方法を探るにしても体が動かない事にはどうしようもない。だから私は、胸の奥に殺意を秘めたまま医者の言うことに素直に従って療養する事を決めた。




 それは苦痛の日々だった。身を焦がすほどの殺意を持ちながら、私は医者の言うまま飯を食べ、薬を飲み、安静にベッドの上で横になる。ゆっくりと、気が狂いそうになるほどノロノロと時間が過ぎていく。




 ああ、コレは不味い。時は私の敵だ。殺意も、狂気も。膨大な時の流れの前には風化して薄れてしまうのだ。




 もどかしい、しかし自分一人ではベッドから起き上がる事もできないこの身で、何をしろというのだ? 私は強く唇を噛みしめた。






―――ふふ、なかなか苦戦しているようだねえユリア






 不意に聞こえた声に、ハッと周囲を見回す。




「誰? 誰なの」




 私の唇から漏れたその言葉は震えていた。






―――誰とはご挨拶だね。俺だよ、愉快な子猫ちゃんさ






 目の前の空間がぐにゃりと歪む。何も無い空間から意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべた猫の顔が浮かび上がった。




「・・・・・・チェシャ猫。何の用? 私を笑いに来たの?」




 声が固くなる。アリスでは無いとはいえ、今の私には向こうの世界の住人を歓迎する気分にはなれない。




「そうさ、俺は無様な君を笑いに来たのだ。哀れみに来たんだ。嘲りに来たのさ。そして」








―――君を救いに来たんだ






「・・・・・・救う?」




 救う、救うだって? この猫は一体何を言っているのだろうか。




「ああ、ユリア。俺はアリスであった頃の君には全く興味がない。けど今の君には興味が尽きない。興味深い、とても魅力的になったねユリア」




 狂ったような笑いを浮かべた猫の首は、ずいっと私に近づいてきた。




「ああユリア、前に会った時に渡したプレゼントは持っているかい?」




 プレゼント・・・・・・前に会ったとき、だとすれば・・・




「あのナイフの事? 残念だけど、向こうで持っていたモノはこちらに戻ったとき何一つ持っていなかったわ」




「それはおかしな話だねえ、だって君、こちらから向こうに行ったときに来ていた服はそのままだっただろう? なら向こうで持っていたモノをこちらで持っていないとおかしいじゃあないか」




 ならば、もしチェシャ猫が言っていることが正しいのならば。私は持っているのだろうか、今も、あのナイフを。




 目を閉じる。そして思い浮かべた。大ぶりで肉厚な刃、ズシリと重く不思議に手になじむ重量、銀の装飾が施された見事な柄。




 ゆっくりと目を開く。私の右手には思い浮かべた通りのナイフが当たり前のようにそこに存在した。




「なんだ、やっぱり持っているじゃないか」




 チェシャ猫が満足げに喉を鳴らす。




―――さあ行くよユリア




 チェシャ猫の顔がぐにゃりと歪む。ぐるぐるぐるぐるかきまわる。ゆるゆると世界が浸食されていく。




 ええ行きましょうチェシャ猫。私の唇がにやりとめくり上がった。




 体がどろどろに溶けて、蕩けて、ほどけてく。不快な肉体から解放されていく快楽にゾクゾクと背筋が震える。






 ああ、待っていて愛しのアリス。




 今、殺しに行く




 すぐ、逢いにイクカラ・・・・・・











 柔らかに降り注ぐ陽光。木々が風に吹かれてざわざわと鳴っている。青々と生えた草原の上に私は立っていた。はらりはらりと全身に巻かれていた包帯が力なく地に落ちる。




「・・・・・・あぁ」




 ふと違和感を感じて自身の顔に手を当てると、つるりとした感触が指先に伝わる。




(あぁ、そうか。そうなのね)




 この世界において役割を与えられぬモノの証。白磁の仮面・・・・・・。








    私はもう、この世界において何者でもない








(でも殺すわ。だって私はアリスじゃないもの)




 白磁の仮面がギラリと光るのだった。


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血塗れのアリス 武田コウ @ruku13

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