第8話 日常からの逸脱
憎らしいほどの快晴。澄み切った朝の空気が寝不足の私を無性に苛立たせる。
「大学……行かなくちゃ」
その行動に意味など感じられず。その行為に目的など何も無いのに、私は今日も真面目に大学に通う。中途半端だ、いっそ大学など辞めて引きこもりにでもなればいいのに。
「それでも……私の世界は此処だから……」
このつまらない世界で生きている私には、この世界のルールに抗うことなどできない。ああ、なんと歪な存在か、とっくに私の心はあの世界に居るというのに体という牢獄に捕らわれて身動きが取れないのだ。
重い体を引きずるように家を出る。頭が、痛い。小人が私の頭蓋骨の中に入り込んで、スプーンで脳みそをぐちゃぐちゃとかき回しているかのようだ。気を紛らわす為にぐるりと周囲を見回した。
青い空、にょきにょきと地面から生えている不細工なビルの数々、何かに追われるように急ぎ足で行きかう人々、銀の懐中時計を持つ白い兎がニヤリと笑った……。
「……兎?」
トランプ柄の燕尾服に身を包んだ白い兎。銀色の懐中時計を確認し、胸ポケットにしまうと私に向って語りかけた。
「おいでアリス。時間だよ」
そして兎は人ごみの中へと飛び込んでいった。
「っ待って!」
なぜだかは私にもわからない。けど、ここで兎を追いかけなければ、私は一生後悔するような気がしたのだ。
「待って! ねえ、待ってってば!」
兎はすばしっこく人と人の間をすり抜けて、少しでも遅れると見失ってしまいそうだ。走る、走る、走る。ドキドキと胸の鼓動は早く鳴り、頭痛は最高潮に高まっている。それでも、足を止めない。ここで立ち止まったら、もう……。
人ごみをかき分けてかき分けて、兎はポーンと車道へと飛び出した。
あれ? っと疑問に思う間もなく、私の体も兎を追って車道へと飛び出した。
周囲の人々が何かを叫んでいるのが聞こえる。
景色が急にスローモーションで流れ出す。
車道へ飛び出した私の体、けたましく鳴り響くクラクションの音、ゆっくりと音の鳴る方向へ視線を向けると、焦った様子のドライバーと車が私に迫ってくるのが見えた。
思考が加速している。体が脳みそに付いていかない。加速した思考で必死に車を回避しようとするも、体はピクリとも動かず、そして私は車にはねられたのだ。
衝突の瞬間は覚えていない。気が付くと私は仰向けに倒れていて、周囲には人だかりができていた。
右腕と両足の感覚が無い。ただ、体から絶え間なく血が流れ出している事がわかった。寒い、そして怖い。静かに、だが確実に、死が私に近づいていた。
………………………………………………………………
………………………………………………………………
………………………………………………………………怖い?
なぜ、私は死を恐怖しているのだろう。嫌いな筈なのに、憎い筈なのに。この世界になんて、なんの価値も感じていない筈なのに、私は今、死ぬのが怖いと、そう感じているのか。思考が加速していく、私は考える、永遠にも思えるその一瞬の時間を。
ああ、そうか。そういう事だったのか。
「……はは、ははは。あはははははははははははぁ!」
血を吐きがら、私の口からは自然に笑いがあふれ出た。理解してしまったのだ。何故、こんなにも世界が憎いかを、何故、私が死を恐怖しているのかを。自身の胸の内に渦巻いているドロドロとした感情の正体、それは限りなく歪な自己愛であったのだ。
そう、私は愛していたのだ。自身の事を。誰よりも深く、狂うほどに激しく。
だからこそ私はこの世界が嫌いだった。何一つ私の思い通りに事が運ばず。誰一人、身を焦がすほどに私を愛してくれないクソッタレなこの世界。だからこそ私はあの世界に惹かれたのだ。隅から隅までアリスのために作られた理想郷。世界そのものが個人の為にあるという矛盾。
ああ、でも私はアリスではない……。
嗚呼、憎い。
ニクイ
にくい
憎い
憎しみという感情が何なのかすらわからなくなるほど、全ての事情が私を苛立たせる。この両の目を抉り出せば世界は消えるのだろうか?
―――ほら、空の青が零れ落ちるよアリス。
見上げた空がドロドロと崩れていく。降り注いだ青が世界を染め上げた。
―――既に扉は開かれた。神崎友梨亜、私は君を歓迎しよう。君のその純粋な狂気は、君がアリスに成り得る資格だ。さあ、君の狂気で私をもっともっと魅せてくれ。
声が聞こえた気がした。
―――さあアリス足りうる者よ
視界が……だんだん…………暗く………………
――――――ワンダーランドへようこそ
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