架空世界の歴史小説短編集

明空

棒術乞食・馬一春

 羽林軍棒術師範・馬一春がその所領――それは、猫の額ほどの小さな土地だったが――を返納して、放浪の旅に出たのは彼が27歳、輝流帝8年の話だった。


 一春はこの星昌国建国の父、武祖・昌望明8代の孫だ。しかし、彼の属する馬氏(その祖先が、帝に遠慮して改姓した)は勢いふるわず、一門はいずれも弱小の領主に転落していた。

 幼いころから一春は棒術を好んだ。皇帝の親衛隊である羽林軍に仕官すると、その腕は高く評価され、若くして師範に推された。

 中肉中背、垂れ気味の目に薄い髪、ナマズ髭と見た目は冴えない。しかし棒を取らせれば、国中から集まってきた精鋭を、まるで子ども扱いにした。

 ふだん飄然としているだけに、余計にその実力は底知れないものがあった。


 その一春が、不意に出奔したのである。

「妓楼に通い詰めて、借金で首が回らなくなったそうだ」

と言う者があれば、

「気に入らない上官を酒の席でぶん殴り、居づらくなったらしい」

という噂が流れ、さらには、

「西の龍生国から、相当な支度金で引き抜かれたとか」

ともささやかれた。


「さて、実際のところはなんでかね」

 旅の空で、本人もそうぼやく。

 確かに妓楼にそれなりの借りを作ってはいたし、上官とも上手くいかなかったが、それも決定打とまではいかない。引き抜きの話も、すぐに断っている。

 結局のところ、本人もよくわからない。ただ、なんとなく、都での毎日が嫌になって、領主としての責任も、何もかも放り出してしまいたくなった――まあ、そんなところが真実のようだ。


 その放浪の旅は、実にのんきなものであった。

 愛用の棒だけ一本担ぎ、ふらふらと国内を西へ東へ、北へ南へ。

 街に入れば、棒の腕が役に立つ。

「さあさあ皆の衆、ちょっとした芸を披露しよう」

 とん、と棒を地面に突くと、その反動を生かして跳ね上がり、棒の反対側に「着地」する。そのまま棒の上に立って、よっ、ほっ、とバランスを取って見せる。「武」でもなんでもないが、これまでの鍛錬のちょっとした応用である。これが結構受ける。「おおーっ」と通行人がどよめき、周りに人垣ができる。

 あとはこっちのものだ。観客の大男に棒の端を持たせ、そいつの体を軽々持ち上げてみたり、風車のように棒を振り回してみせたり。終わると観客が小銭を恵んでくれるので、それを集めて安宿に泊まり、あるいは酒を買い、実入りのよいときは女を買う。


 街に飽きたら、さらに次の土地を目指して旅立つ。道中、手ごろな村を見かければ、

「どうか今夜ひと晩、泊めてくれ」

と頼み込む。当然、村人も嫌な顔をする。中には、そのまま蹴りだされることもある。そうなれば野宿もやむなしだが、まあこれにもすぐに慣れた。うまく人のよい村人がいれば、しばらく逗留する。さすがに何もしないでは悪いので、農作業を手伝ってやったり、子どもたちの遊び相手をしてやったりする。


「それでは、乞食も同然じゃないか」

 久々に会った親類は、顔をしかめた。所領をたまたま通りがかったので、一夜の宿を乞うたのである。暮らしぶりを尋ねられ、ありのままを話したところが、この答えだ。

「そうだ、乞食だな。しいて言うなら棒術乞食だ、あははは」

 結局、この親類は自らの館に上げる代わりに、いくらかの金を投げつけるように渡して、彼を追い返した。一春は大喜びで、城下に酒を買いに向かった。


 放浪は続いた。

 40代にもなると、元々薄かった髪はすっかり抜け落ち、肌は土のように黒くなり、いよいよ乞食にしか見えなくなった。

 一方で、その棒術の腕はますます磨かれていた。


 ある村に長居していたときのことである。

 昼間から他人の家でゴロゴロしていると、どうも外が騒がしい。棒を手に、様子を見に表に出る。

「おう、どうしたあ」

「川向こうの領主さまの兵だ!」

 なるほど、村の外れからは煙が上がり、騎馬の軍人に率いられた兵たちの姿が見える。

 この時代、こうして領主が他人の土地にちょっかいをかけることは日常茶飯事である。あいにく、守るべきこちら側の領主の兵は出払っており、村は丸裸だった。

「それは災難だな。どれ、わしがちょっと言って話してこよう」

 そう言うと、一春は村人が止めるのも聞かず、そちらのほうにてくてく向かう。

「おっ、なんだ貴様は」

「この村に世話になってるもんだがね。すまんが、勘弁してやってくれんか。大してこの村は裕福でもないし、みんな困ってるんだ」

「ハゲじじいが何をバカな。おい、やってしまえ」

 騎馬の軍人の命とともに、数人の歩兵が一春を襲う。しかし一春、まず突きつけられた槍をあっさりとかわすと、その持ち主の顎を棒で打ちぬいた。

「このっ……」

 別の兵が刀を振りかざすが、目にも見えぬ速さで旋回してきた棒は、鎧越しにそいつの腹をぶっ叩き、そのまま吹き飛ばす。驚きひるんだ残りの兵も、それぞれ突きを食らって昏倒した。

「貴様っ!!」

 馬上から刀が振り下ろされる。しかし、ほぼ同時に一春の棒は、その馬の足を砕いていた。悲鳴とともに馬は崩れ落ち、男も顔から地面に転がり落ちる。

「うぐ……ひっ」

 なんとか身を起こそうとした彼の鼻先には、棒の先端が突きつけられていた。


 兵たちが追い散らされたとの知らせを聞き、今度はその主君が兵を率いて村に襲来した。

「一人の乞食坊主相手に……情けないやつらめ!」

 村の入り口まで着くと、そこには棒を片手にしたハゲ頭の男が、地面にあぐらをかいて待ち構えている。

「俺の家臣どもの邪魔をしてくれたというのは、お前か」

「うん、そうだ」

「どこの坊主だ、名を名乗れ」

「名か。うーん。名は馬一春という」

 げっ――領主は絶句した。

「馬一春とは、前の羽林軍棒術師範の、あの馬一春どのか」

「まあ、その馬一春だ」

 領主は下馬し、拱手の礼を取った。

「たいへん失礼いたしました。私は以前、羽林軍に所属していたころ、あなたの教えを受けていた者です。馬師範が相手では、うちの兵ごときが勝てるわけがございません」


 こういう話は、いくらかあった。

 やがて尾ひれがついて、大軍を一人で叩き伏せたとか、巨大な化け物を退治したとか、そんな噂がまことしやかに語られるようになった。一春が国を何周かして、50歳を過ぎるころには、すでにその名前は、生きながらにしてある種の伝説となっていた。彼が現れるや、すぐに領主が飛んできて、その城で接待三昧にするのが、すっかり恒例行事となる。


 一春は閉口した。


(さすがに困る)

(無名の棒術乞食として生きたいからこうしているのに)

(これでは放浪してないのと同じだ)


 結局、56歳のとき一春は平都に戻り、以後は、旧知の商人の家の居候として過ごすことになった。出奔からおよそ30年。すでに帝は、紫文帝に代わっていた。

 平都での一春は、その髭も白くなり、乞食というよりは高僧のような風貌となっていた。時折、腕自慢の武人が勝負を申し込んだ。気分の良い時には相手をしてやったが、常にそれは一春の勝利で、礼として酒をおごらせた。


 その噂が、紫文帝に届いた。星昌国後期の名君とされる紫文帝だが、武人への偏愛は、数少ない奇癖だった。ただちに帝は一春を召し出して、時の棒術師範であった魯猛元との立ち合いを命じた。

 一春は再三辞退したが、結局、やることとなった。羽林軍の訓練場で、筋骨隆々の若武者・猛元と、ハゲ頭に白髭の一春が対峙した。

 猛元としては、こんな戦いをさせられて、ちょっと不満である。

(達人だかなんだか知らぬが、相手は60になろうかというじじいだぞ)

 さっさと終わらせて、俺の実力を帝に見せつけてやろう。激しい気合とともに棒を打ち込む。一春はかろうじてそれをかわす。さらに突く。ギリギリのところでさばく。防戦一方だ。

 しかし、猛元の鋭い攻撃は、一向に一春に届く様子を見せない。観衆となっていた羽林軍の兵たちに、どよめきが起こる。その手が、ことごとく読まれているのだ。

 おしのびでそれを見ていた帝も、思わず息を呑む。


「この辺でよいだろう」

 猛元の疲れが明らかになった頃合いを見計らって、一春はからりと棒を投げ捨てた。

「師範殿はわしに当てられず、わしは師範殿に打ち込めず。この勝負は引き分けだよ」

 もちろん、どちらが真の勝者かは言うまでもない。のちの陸氏の乱でも武功を立て、ついには将軍まで昇った猛元だが、「生涯、あんなに恐ろしい思いをしたことはない」と繰り返し語ったという。


 紫文帝は一春に所領を与えようとしたが、固辞されるのは目に見えていた。そこで、一春を居候させている商人に、「有為の士を援助している褒美」として土地を授けた。商人に相談された一春は苦笑しつつ、

「もらえるものはもらっておこう。乞食だからな」


 馬一春は、紫文帝14年、63歳で死去した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

架空世界の歴史小説短編集 明空 @mingkong

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ