春の風

なゆた黎

春の風

 桜の木の下にブルーシートを広げ、新入社員の歓迎会を兼ねた花見がある。

 私たちの陣取ったところの桜はちょうど満開で、時折花びらがはらりと散る。風情のかけらもないブルーシートの海に散る白い花弁が、飛行機から見下ろす海の白波のように見える……と言われればそのように見えなくもない。言われなければそうは見えないし、言われたからといって、そのように見ようと努力しなければ見えないのだが。

 つい二、三日前は寒の戻りでだいぶ冷えたが、今日はまた暖かな陽気である。先日ほどではないが、また夜から冷えるとか言っていただろうか。快晴ではないが、今にも泣き出しそうな空模様というわけでもない。

 周りを見渡すと、あちこちの桜の木の下で私たちと同じように集う人々がいる。これから準備を始めるところもあれば、まさに今、宴もたけなわというところもある。

 ふいに風が強く吹いた。ざあっと音をたてて枝が揺れ、枝から離れた桜の花びらは、突風にあおられ雪のように舞い散った。

 風は、南の海上にある前線の影響か、妙に生ぬるく湿り気を帯びていた。

 ああ、そうだ。忘れていた。

 私は立ち上がった。

 大事な用を思い出した。

 近くの同僚に声をかけ、靴を履くと社員のヤジに見送られながらその場を立ち去った。

 急がなければ。

 しかし、どこへ行けばよかったのだろう。

 明確な場所を思い出せない。足の進むままに行くしかないだろう。

 公園を抜け、歩道を早足で進む。信号は赤になったばかりだ。普段は使わない歩道橋を渡ることにしよう。

 ここだっただろうか?

 歩道橋の上でふと立ち止まる。湿った風が汗ばんだ首筋をなでていく。

 いや、違うか。

 帰らねば。

 そうだ。母の元へ帰るのだった。

 再び歩き出す。反対側へと渡り、早足で道を急ぐ。酒が入っているので、あんまり走ると目が回る。現に、今の状態でも時折つまずきそうになる。

 道はこれでよかっただろうか?

 会社へと戻っているようだが、会社で母と会うことにしたんだっけか?

 まあたぶん、そうなのだろう。生ぬるい風が、髪をかきまわす。

 会社の裏口から守衛に声をかけて中に入る。

 ああ、急がねば。

 エレベーターで上へと上がる。事務所へは用はない。外が見えるところ。窓だ。いや、窓より屋上がよく見える。

 守衛に言って屋上の鍵を開けてもらおう。

 守衛は急ぐ私を訝しく思ったようで、何事かと聞いてくる。

 他意はない。ただ母親のところへ帰るのだ。そう答えながら屋上の扉を開け、手すりから向こうをのぞきこむ。

 しばらくもしないうちに腐るであろうと思われるほどに熟しきった果実の、ともすれば腐臭ともとれるような甘い香りが、吹き抜ける温い風の中に含まれていた。

 ああ、お母さん。

 私はつぶやいた。

 守衛の声が聞こえたような気がした。

 屋上からのぞきこんだその真下に、両の腕をいっぱいに広げた母なる大地がそこにあった。

 母の胸元を私が真っ赤に汚してしまった。申し訳なく思ったが、母は優しく微笑んで、

 おかえりなさい

 とささやいた。

 春の風が、狂ったように吹き荒み、木の葉や花びらを吹き上げていった。


終わり

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