死のない石

久浩香

死のない石

 サークルのマドンナにこっぴどくフラれた大学2年生の青木薫は焦っていた。

 ウォーキングステッキが折れたのだ。

 それというのも、いつの間にか先ゴムが外れていて、細い石突きが登山道の岩と岩の間に嵌り込んで抜けなくなった。その拍子でバランスを崩し、思い切り体重をかけ、てこの原理でぐにゃりと曲がった。

 ステッキも劣化していた。

 それは卒業した先輩から貰ったお古で、それなりに体力があった薫は、ステッキを持つ事をポーズぐらいに思っていて、自分で買うという事は頭になかった。

 山を舐めていた。

 失恋の傷を癒すためとはいえ、無謀にも一人で挑戦した山の急勾配に息があがり、ようやくステッキの必要性を実感したところだった。


 登山道から樹木の生い茂る山肌に足を踏み入れる。丁度いい長さの枝でも落ちていないかと探したが、それらしい物があっても、少し体重をかけるとポキリと折れた。

 薫は登山道に戻り、降していたバックパックの中を漁り、念の為と思って持って来ていた折り畳みの鋸を取り出した。キョロキョロと周囲を見渡し、人影が無い事を確認してから、さっきよりも深く山の斜面を滑り降りる。


 いけない事だと解っていたが、背に腹はかえられない、と自己弁護しながら、幹から伸びた丁度良さげな太さの枝に刃を入れた。枝の先端のしなりも切り落とす。登山道に戻りながら、使い勝手も良さそうだと思った。


(あれっ?)


 登山道の元いた場所に戻ったつもりだったが、バックパックが無かった。


(登りすぎたか?)


 薫は登山道を下った。山の斜面から登山道へ戻る時の角度から、元いた場所より下った場所へ戻ったとは考えられなかった。と、すず色の髪の幼女が登ってきた。


 薫は、彼女を見留めるギョッとなって足を止めた。


(えっ? なんで?)


 薫達のいる場所は、登山口から標高としては800m、距離としては3.5kmは登ってきている。森林限界の先にある山荘までは後1.5km歩くというところだった。

 そんな場所に、子供が一人で、座敷童のような恰好で登ってきたかもしれないという出来事に対面し、薫はこめかみを押さえて目を閉じ、混乱する頭をどうにか整理しようとした。

 どうにかなる筈もなく、再びゆっくりと目を開ける。ゴツゴツとした岩石を登ってきた彼女は薫を見上げていた。


 若竹色の着物の柄は鳶色で縁取りされた六角形の亀甲紋様で、鼠色の帯の柄は松。子供が着るにはあまりに地味すぎる着物だ。おかっぱ頭。肌は卯の花のように薄黄味がかった白い肌。朱鷺色の唇はへの字に結ばれ、薫を上目遣いで睨める瞳はにび色だった。


(山荘の子供なのかな?)


 薫は、不意にそんな事を思った。

 着物姿の必然性は解らないが、履いているのは、靴ではなくて草鞋だった。子供ならではのはしっこさで、降りてきたのかもしれない、と考えたのだ。でなければ、薫の常識では、身長1mぐらいの、どう考えても保護者の必要な年齢の幼女が、装備を背負うどころか着物姿で登山をしているなんていう事に、とても説明がつかなかったのだ。


 薫がそんな風に、自分と折り合いをつけている間にも、幼女は薫を厳しく冷たい表情で睨みつけていた。


(にこりと笑いでもすれば、可愛いだろうに)


 そう思った後、彼女が下から登ってきた事に思いが至った。どこまで降りて、山荘に帰ろうとしているのかは解らないが、もしかしたら自分がバックパックを置き忘れた場所を通ったかもしれない、と思ったのだろう。


「あ~っ、えっとぉ、お嬢ちゃん」


 幼女の目線に合わせる為に膝を折って、愛想のいい笑みを浮かべた。幼女は険しく眉間に皺を寄せ、不審者を見る目で薫を凝視する。薫は、左手で上部、右手で下部を持っていた杖を、右手で上部、左手で下部へと持ち替えた。特に意味は無いが、なんとなく杖に縋りたいような、そんな気分だった。


(参ったな)


 直ぐ傍にいながら警戒されている。そんな空気が時が進むのを阻んでいた。薫は幼女から目を逸らし、斜め上の宙を見上げた。


其方そちは男か?」


 薫の右耳に幼女の声が届いた。それは、女の子特有のからっとした晴天を思わせる明るく弾ける声ではなく、成熟した女性の陰鬱さとか憂愁とかといった粘り気を孕む濁りの混じる声であった。


(えっ?)


 ゾクリと背骨が軋んだような気がして、薫は再び幼女へと目をやった。薫が顔を向けると、能面のように平らな表情をしていた幼女は、目を切り落とした爪のように細め、口角を吊り上げた唇は小さく開き、白い歯をのぞかせた。


「持ち物に書いた名前、結わえた長い黒髪…儂の心を惨めにかき乱す、恨めしい美しい女子おなごじゃ、と罪へと誘ったが…そうか、男か」


 幼女はそう言うと、先を尖らせた朱殷しゅあんの舌をちろりと突き出し、ゆっくりと自分の唇の形を辿るようにベロリと舌なめずりをした。湿り気を与えられ、オレンジがかった薄腿色の唇が、ドス黒ささえ感じる夕暮れの暗さの混じる茜色へとまっていく。


「この日に山を荒らした罪人なれば、山に植わる樹木に数え、葉を引き千切り、枝をへし折り、無様に樹液垂れ流すを笑うて、憂さを晴らそうと思うたに…」


 言いようのない恐怖が薫を覆った。幼女の発する言葉が決して嘘偽りではない事を本能が感じ取った。「ひぃっ」と悲鳴を上げ立ち上がって逃げようとしたが、山の岩盤についた杖の先が岩の中にめりこんでおり、杖を掴んだ両手を離そうとしても、くっついて離れなかった。


「災難よのぉ。だが、犯した罪は償うてもらわねば」


 山には『山の神の日』という山仕事をしている者が入山できない日が三日ある。正五九月の十六日。この三日は、山の神様が山に植わる木を数え、この日に山に入ると、神様に木として数えられて帰って来られなくなるという。そして、この日は9月16日だった。5月に田の神として村落に降りていた神様が、山に戻って来る日だった。忘れ去られ廃れつつある風習で、元々、入山しただけで帰さない程、神様も無慈悲では無かったが、木の枝を盗んだ者を許す程寛容でもなかった。


 幼児の髪がみるみる内に長く垂れていく。幼児であった体も、手が、足が、頸が、するすると細くしなやかに伸びていった。幼女は妙齢の女性へと姿を変えた。ほっそりと端正な顔立ち、二重のくりっとした可愛らしい目、ふっくらと厚みのある柔らかそうな唇、胸の膨らみこそささやかなものだったが、着物の上からでもスレンダーな美女だと解った。

 薫の先程までの恐怖が失せ、彼女に見惚れ、あんぐりと言葉も出なかった。


「あまりの醜さに声も出ぬか? せめてこの髪なりとも黒く艶めいていたならば、返される事もなかったろうに…」


 女は口惜しそうにそうに髪をさらりとかきあげて零した後、薫の顎へと細い指を伸ばした。

 

「男だと解れば其方の顔は良いな。豊かに下膨れた頬。細く秘めやかな目。美しい。妹の如く美しいの。…ここは、どうじゃ?」


(えっ!?)


 顔をさすられ蕩けそうになっていた一瞬後、薫の体の首までが山岩の中に埋まり、着ていた物が丸く小さく黒く爛れて薫の首の周囲に散らばっていた。


(えっ!…あ、く…うっ、…はっ)


 山の中に片手を突っ込んだ女は薫のモノを握って弄び、薫は女の手の中に射精した。女は山から手を引き抜いて、手についた白濁を舐めた。


「ほぅ。其方は童貞か。なかなかに美味じゃ。これならば、御神酒の代わりに飲んでやらんでもない。そうよの。儂を楽しませよ。精出して崇めれば、許してやろうぞ」


 そう言って女は山の中に沈み、薫の首から上を山の中に引き摺りこんだ。



 薫が下山したのは翌年の1月16日だった。後期の単位は絶望的であったし、この4ヶ月の記憶が抜け落ちている事も警察を悩ませたが、両親は行方不明になっていた息子が、何の変わりもなく無事に戻ってきた事だけを喜んだ。

 しかし、同年5月16日。薫は置手紙を残し自ら姿を消した。


『おお、そうじゃ。かつて儂は父によって誓約うけいを施されての。この磐長イワナガと契った男は死なぬのじゃった。ニニギと違い其方は、石となりて悠久の時を生きるじゃろう。うっかりしたものじゃ。ま、良いか。物好きにも契りを望んだのは其方の方じゃしの。人の世での憂いを除かば戻って来やれ。儂の傍で苔むす鼓動打つ石となっておれ。気がむけば人のなりに戻し、儂が飽くる迄は契ってもやろうぞ』

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