第二十八集 素朴な民

 多羅克たらくに連れられて訪れた南匈奴みなみきょうどの逗留地は、何十、ともすれば何百もの天幕テントが立ち並び、さながら軍営の様相を呈していた。

 ここまでの規模は想像していなかった趙英ちょうえいは驚きを隠せずにいた。

 そんな趙英を見て、横で控える緑風子りょくふうしが言う。


「南匈奴全ての部族を治める単于ぜんう(大王)がここにいるというのだし、南匈奴の規模を考えれば、このくらいは当然と言えば当然だよね。街に定住するわけじゃない人たちなんだから、王都ごと軍営で移動しているようなものさ」


 緑風子の言葉に素直に納得する趙英。天幕が立ち並ぶ中に入れば、そこかしこに匈奴の民が歩き回っており、趙英らを見かけると視線を送ってくる。それは決して悪意ではなく、物珍しいモノを見る好奇の視線。

 漢人の街を歩く胡人たちが感じる視線は、きっとこんな物ではないのだろう。


「あそこだ」


 多羅克の指した方向には、余裕を持って百人は入れそうな、特に大きな天幕があった。

 周囲には警備の兵が一応いるが、近辺には昼食時を迎えた民が行き来し、遊んでいる子供たちも駆けていて、物々しい雰囲気は感じられなかった。

 王のいる場所と言えば、漢人の城市まちで考えれば宮城にあたるべき場所だが、まるで繁華街や市場の中にあるような印象である。


 王と民の距離がこうして物理的に近いというのは、その心も近い証である。堯舜ぎょうしゅん(漢人最古の王朝・よりも前に存在したとされる神話上の統治者)の時代は、或いは漢人もこうであったのかも知れない。


 都の漢人たちは、こうした部分を指して未開だ野蛮だと言うのかも知れないが、格式ばった事が苦手な趙英は、そんな匈奴の在り方に好感を持った。

 横を歩いている呼狐澹ここたんもまた、離れていた故郷に戻ったように穏やかな笑みを浮かべている。


 単于の天幕の前まで到着し、先行して中に入った多羅克が、間もなく出てくる。


「単于は狩りに出かけたようだ。日暮れ前には戻るはずだ。昼飯を準備させるから、待っていてくれ」


 その多羅克の言葉に、緑風子が応える。


「ありがたい話ですが、食事と地図の確認だけしていただければ、単于の手を煩わせる事もないかと…」

「いや、きっと単于も会いたがるはずだ。せっかくの縁、一晩泊まっていくといい」


 多羅克の引き留めに、顔を見合わせた趙英と緑風子は、無理に断るのも悪いと無言のまま頷きあい、その申し出を受ける事とした。




 多羅克の用意してくれた天幕で昼食を済ませると、単于の帰還まで改めて三人だけで待機する事となった。


 緑風子は天幕の隅で、寝ているのか瞑想でもしているのか、杖に持たれるようにして休んでいる。

 呼狐澹はと言えば、待っている時間も惜しむように、内功修練に励んでいた。深く息を吸い込む呼法の音を響かせると、外から持ち込んでいた一抱えほどの石に手刀を叩きこむ。


 石は音もなく二つに割れた。

 その断面はまるで刃物で切り裂いたように滑らかである。


「呑み込みが早いな、やっぱり」


 その様子を何の気なしに眺めていた趙英の褒め言葉に、自慢げに振り向く呼狐澹。


「でもずっと右手だけでやってるのが気にかかるな。左手でも同じように出来るか?」


 どこか挑発気味に口元をわずかに緩めた趙英のそんな言葉に対し、すぐに別な石を並べて左の手刀を叩きこむ呼狐澹。しばらくの間があった後、果たして石は全く割れる事はなかった。呼狐澹はと言えば、左手を震わせて痛みを堪えている。


「右手だけじゃ、まだまだ実戦でほとんど使えないぞ。武器を持てば持ち手から武器の先へと飛ばし、軽功けいこうならば飛び上がる瞬間に脚へと飛ばし、硬身功こうしんこうならば相手の攻撃が当たる瞬間にその打点へと飛ばす。

 基本は同じだが、体内で生み出した内力を自在に全身へ、咄嗟に飛ばす事が出来て、やっと実戦で使えるようになるんだ」


 呼狐澹は苦笑いをしながら頭を掻いた。


「やっぱ難しいもんだなぁ」


 そんな事をしていると、天幕の外から複数の視線を感じた呼狐澹。その方向に目を向けると、数人の匈奴の子供たちが、どうやら好奇心から覗き込んでいるようだった。

 そんな子供たちと目が合った瞬間に匈奴語で叫ぶ呼狐澹。それは怒鳴るというより、どこか冗談めかした雰囲気であったが、覗いていた子供たちは叫び声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。


「何て言ったんだ?」


 そんな趙英の問いに、悪戯っぽい笑みをしたまま振り返った呼狐澹が応える。


「覗き見なんかしてると、そこの姐さんに取って食われちまうぞ、って」

「誰が食うか!」


 そんなやりとりに、天幕の隅で杖にもたれたままの緑風子も肩を震わせた。




 多羅克が天幕に現れたのは、陽も暮れかかった頃だった。どうやら単于が戻ってきたらしい。三人は申し訳程度に身なりを整えると、件の大きな天幕へと移動した。

 中に入ると中央奥に座っている老齢の男性がまず目に入る。それが単于であろう。その周囲には部族の中でも責任ある立場の者と思われる者たちが十人ほど座って待っていた。

 どうやら多羅克もその中の一人……、いや様子から見て単于に次ぐほどの立場であると思われたが、その集団の中で最年少と断言できるほど特段に若かった。


 彼らの匈奴語のやり取りを聞いて驚いた様子の呼狐澹に、趙英が問うと小さく呟くように答える。


「多羅克さん、左賢王さけんおうだったよ……」

「左賢王……?」


 呑み込めていない趙英に、緑風子が補足する。


「次の単于。つまり王子様って事さ」


 ひそひそと密談をしている形となった三人に、中央に座っている老人、すなわち単于が訛りのある漢語で言った。


「ようこそお客人。我が単于の呼廚泉こちゅうせんだ。どうかくつろいでくれ」






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