第十三集 藍田の賊

 夏侯淵かこうえん率いる駐留軍は長安にいない。つまり城への援軍をすぐに出す事など出来ない。その可能性は無論のこと考慮していたが、改めてその事実を前に内心落胆する趙英ちょうえい

 だがまずは冀城の現状を報告しない事には話にならない。代理の役人が出てくるが早いか、すぐさま報告を済ませると、軍が戻るまで長安に逗留する事を勧められた。


 長安の中に入ると、やはり民が戻っていない事もあり、城壁に近い外側の家ほど空き家が多く荒れ果てている。

 しばらく歩いたのち、宮城にほど近い客桟やどやに案内された。内装の整った結構な作りをしていて、くつろぐには最適であったが、趙英は寛ぐ気になどなれなかった。押し黙っている趙英の内心を察してか、緑風子りょくふうし呼狐澹ここたんも顔を見合わせる。


 午後の日差しが差し込む窓辺に佇んで、どことも知れず遠くを眺めて物思いに耽っている趙英を見かね、緑風子が溜息を吐きながら言う。


「そんなに気になるなら、行ってみるかい?」


 その言葉に振り返る趙英に、緑風子は微笑みながら付け加える。


藍田らんでんにさ」


 気持ちとは裏腹に行く事を渋っている趙英を、緑風子は手を引いて半ば無理矢理に客桟から連れ出し、南側の城壁まで連れて行く。


 この時代の城壁は後世の人が連想する石や煉瓦レンガではなく、土や砂を塗り固めて作った物である。無論ながら城内の家も同様に土壁である。そのため定期的に補修がされなければ風雨にさらされて百年と経たずに風化して崩れ落ちてしまう。史書などを見ると、古代に城塞都市があった土地がほんの百年後にはただの農村になっていたりするのはその為だ。


 余談だが、石造りや煉瓦造りの城壁に移り変わるのは唐から北宋の時代にかけてであり、近代以降まで残っている城壁や関所などは、万里の長城なども含めて、ほとんどが明代以降に作られたか補修がされたものである。


 董卓とうたく死後から補修作業がなされていなかったこの頃の長安城であるが、依然として復興作業が進んでいない事は、ところどころ城壁がひび割れている事からも察する事が出来た。


 城壁に上ると、その上には膝丈から腰丈程度の低木が所狭しと並んでいた。


「何これ?」


 素直に疑問を呈した呼狐澹に、緑風子が答える。


「城壁は土で出来てるだろ? 雨が降ると徐々に溶け出しちゃうから、こうやって城壁の上に木を植える事で水分を吸わせているんだよ。ある程度育ったら城の外に植え直して、また別な苗木を植えるのさ」


 この時代の城市ではこれが基本の様式であった。城壁の崩落を防ぐ目的の他、周囲の植林も兼ねた仕組みである。しかし攻城戦に於いては火矢に弱くなるので、戦に巻き込まれそうになると、これらを全て一時撤去するという手間があったのが玉にきずである。馬超ばちょう軍に包囲されている冀城でもこれは全く同様の事だ。


 城壁の上に立った三人は、長安の南に視線を送った。平地が続いた先に百里(約四十二キロ)も行かない距離から小高い山になっている。蓮花山れんかざんという名の山である。

 その蓮花山のふもとに軍勢が見えた。それが夏侯淵率いる官軍であろう。さすがに遠目が効く呼狐澹でも軍旗を判別できるほどでは無いが、こうして城壁から充分に見える距離である。日が傾いていない今なら、馬で駆ければ夕暮れ前に到達できるだろう。


「いいじゃん、行ってみよう?」


 呼狐澹もすっかり乗り気になっており、趙英も思案したのち首を縦に振った。縁のない土地である長安で客人として待っていても藍田以外から報告が飛び込むとは考えにくい。また藍田に行って戦況に関われなかったにしても、ここで待っている事と大して変わりはないという結論に至ったからである。


 三人は客桟に戻って支度をすると、もしも宮城の役人が来た時の為に主人に一言だけ伝え、すぐさま馬で南門を出る。黒鹿毛、月毛、芦毛と、毛色の違いが映える三頭の馬が主を乗せ戦場に向かって駆けていった。



 夏侯淵率いる官軍を藍田で迎え撃っているのは関中軍閥の一人である梁興りょうこうである。多くの諸侯が関中から逃げ出したか投降した後、関中に残って抵抗を続けている最後の一人である。

 しかし抵抗するにも兵を養わなければならず、領地を既に失っている彼らは関中各地の農村を襲っては強制徴収の名の下に略奪行為を働き、名実ともに賊軍に堕ちていた。

 一方で官軍側は、衛覬えいき鄭渾ていこんと言った穏健派の文官を中心に軍用の兵糧を割いて困窮した民に分け与える事で民心を繋ぎ留めていた。これにより梁興率いる賊軍は完全に孤立。多くの逃亡兵を出しており、藍田に立て籠もるのは僅か数百人となった。


 もはや勝負にもならず一日で終わると思われていたのだが、梁興は藍田に住む民衆を人質に使ったのである。追い詰められ何としても生き残りを図りたい梁興の最後の手段と言えた。両軍の兵力差は数十倍になる。このまま戦いが始まればすぐに勝負は付くであろうが、確実に乱戦となり住民が犠牲になる事は明白であった。


 彼らの主君である丞相じょうしょう曹操そうそうは、かつて敵対した徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけんによって、父・曹嵩そうすうや弟・曹徳そうとくを含め、故郷の一族を殺害されている。二十年ほど前、初平しょへい四年(西暦一九三年)の事である。復讐戦として五十万の大軍を以って徐州に侵攻し、その苛烈な戦いで多くの民衆を巻き込んでしまい、それを陶謙によって徐州大虐殺と喧伝されたという事があった。


 それによって曹操の信用は失墜し、民衆にも反曹操の機運が高まり、部下からも多くの離反者を産んだ。そうした虐殺者の印象は曹操が後漢皇帝を擁立してからも残滓として残り続け、曹操自身も、彼に仕えている配下たちも、それを払拭するために多くの時間と労力をかけて民生に心血を注いできたのである。


 数年前の赤壁せきへきの戦いに於いて多くの兵を失った事で、その信用も再び傾き始めていた最中の事。ここで勝利に固執し民衆を犠牲にする事など、旗揚げから長らく曹操に仕え、ずっと支えてきた夏侯淵には出来なかったのである。


 それぞれの思惑を抱えた両軍は藍田の城壁を挟んで睨み合い、双方とも打つ手無しの膠着状態となって数日が経過していた。


 趙英ら一行が藍田に馬を走らせたのは、まさにそんな時であった。





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