第十二集 長安に至る

 趙英ちょうえいの活躍で水賊の襲撃を逃れた楼船ろうせんは順調に渭水いすいを下り長安を目指した。


 隴山ろうざんを抜けて関中かんちゅうの平野部に入ると、最初の街である陳倉ちんそうの近くに、太公望たいこうぼう釣魚台ちょうぎょだいがある。この時代より遡ること千三百年前という太古の昔、暴虐な紂王ちゅうおうが君臨したいんの時代。天下の荒廃を嘆いていた西伯せいはく姫昌きしょう、すなわち後のしゅう文王ぶんおうが、そこで天下の賢人・呂尚りょしょうと出会った場所とされる。太公望の称号を受けた呂尚は周の軍師となって殷を滅ぼし、後にせい国の始祖となるのである。呂尚はまた中華で最初の兵法書『六韜りくとう』『三略さんりゃく』の著者としても伝わっている。


 さて陳倉を通り過ぎると、その後はひたすらに平野が続いており、山といえば南北数百里の彼方に峰々が連なっているのが見えるのみである。この辺りは五丈原ごじょうげんと呼ばれ、この二十数年後に蜀漢しょくかん諸葛亮しょかつりょうと、曹魏そうぎ司馬懿しばいが最後の決戦を行った場所として後世に知られている。


 更に渭水を進むと両岸に美しい森が広がり、正に風光明媚を絵に描いたようなに到達する。ここには董卓とうたくが作らせた郿城がある。たとえ勢力が衰退しても己だけは生き残るという執念の元、難攻不落の城として作られた郿城であるが、そこが戦いの場となる事は遂になく、城主である董卓は帝位禅譲の嘘に誘われてまんまと長安に赴き、王允おういん呂布りょふの手によって暗殺されたのである。遡ること二十年ほど前の事だ。


 そして更に下れば、渭水の南岸に目的地である長安が見えてくる。

 その長安のすぐ西側には、周の文王・姫昌の生まれ故郷である豊邑ほうゆうや、周建国後に都とされた鎬京こうけいがかつて存在した。

 また渭水を挟んで北側には、しんの始皇帝が都とし、後に西楚覇王せいそはおう項羽こううによって燃やされた咸陽かんようの跡地がある。

 項羽を倒した漢の高祖こうそ劉邦りゅうほうは、そのような場所に自らの都を作ったのである。


 時代を下れば、天下争乱となった五胡十六国時代には、前趙ぜんちょう前秦ぜんしん後秦こうしん、そして続く南北朝時代には、西魏せいぎ北周ほくしゅうと、群雄が次々と都とした後、とう李淵りえんもまた長安を都として中華を再統一する事になる。その後はシルクロードの玄関口として大いに栄えるというわけだ。


 このように渭水盆地の別名でも呼ばれる関中は、古代中華の中心地として幾度も覇権が争われた場所なのである。



 さて趙英ら一行だが、関中に入ってからは特に問題が起きる事もなく穏やかな船旅が続いた。初めての土地に好奇の視線を送る呼狐澹ここたんに、緑風子りょくふうしが歴史の講釈をするという、さながら史跡巡りの様相を呈しつつ渭水を下り続け、数日の後に目的地の長安へと辿り着いた。


 まだ陽の高い日中で、雲ひとつない晴天である。夜中や悪天候でないのは幸先が良い。

 手荷物や馬たちを下ろした後、はん船頭に約束の謝礼を払う。持ち切れず余った食料なども譲ると大いに感謝され、船員と分けると言う。

 いくら報酬に目が眩んだとはいえ、得体の知れない三人組をわざわざ数日かけて運ぶという怪しげな仕事に飛びつくくらいだ。生活の苦しい者も多いのだろう。


 上流に帰っていく楼船を見送ると、誰とはなく目的地である長安城の方向を振り返る。後漢になってからは洛陽らくように、現在ではぎょうに都の地位を譲ったとはいえ、さすが前漢二百年の栄華の象徴である。その大きさも四方がおよそ十五里(六キロ前後)にもなる。城外に広がる田畑も相当なものだ。

 しかしそれら城外の田畑も大部分が放置され荒れ果てている。


「せっかくの畑なのにどうして……?」


 素直な疑問を口にする呼狐澹に、緑風子が答える。


「董卓が、皇帝陛下を伴って洛陽からこの長安に強引に遷都。董卓は贅の限りを尽くした後に司徒しと・王允と、将軍・呂布に暗殺された。ここまでは船の上で説明したね。

 しかしその後に、董卓の腹心だった李傕りかく郭汜かくしが軍勢でもって長安を包囲。王允を殺害し、呂布を追放した。追放された呂布は中原での群雄割拠に参戦するも、最終的に曹操そうそうに敗れた。

 その間に李傕と郭汜は皇帝陛下の威光を利用して、関中軍閥を配下に治め、この長安で董卓以上の暴政を行ったんだ。民からの略奪は日常茶飯事。城の内外には死体や飢民があふれ、その時に多くの民が長安から去った。当然それで田畑を耕す者もいなくなったってわけだよ。

 その後、女性関係で仲が悪くなった李傕と郭汜は互いに争うようになり、その隙に朝廷の家臣たちが皇帝陛下を連れて長安を脱出し、そこを曹操が保護して現在の丞相じょうしょうの地位に至るわけだね。

 当然、皇帝陛下の威光を失った李傕と郭汜に従う理由が何も無い関中軍閥だ。偉そうにしていた二人はそのまま袋叩きにされて殺されたってわけ」


 そうして話している間に長安の城門前に到着する。日中だというのに城門は固く閉じられて番兵が立っている。

 門番に呼び止められるよりも早く、趙英は包拳して名乗った。


漢陽かんよう郡は城より、涼州参軍・趙偉璋ちょういしょうの使いの者です! 火急のご報告に参りましたゆえ、どうかお取次ぎされたい!」


 門番は互いに顔を見合わせると、そこで待てと言われて一人が城内に入っていった。騒いでも仕方がない上、ここに至って騒ぐほどの阿呆でもない。道端に避け、しばらく待つ事にする。


 しかしまだ日中だというのに、城門が閉じられ民の往来もほとんど無いというのは、いささか異様であった。

 李傕・郭汜によって町が荒れ果て民が去ったのは、もうだいぶ前の事。彼らが討たれてから数年間は統治する者が誰もいないまま荒れ果てていたが、十年ほど前に曹操から派遣された役人たちが長安の復興を始め、最盛期ほどにはまだまだ至らないが、徐々に民が戻り始めていたと聞いていた。しかしこの様子では、小さな県城にも満たない。

 そんな趙英の内心を感じ取ってか、誰とはなしに緑風子が呟いた。


「去年の潼関の戦いの前哨戦でも、この辺は戦いに巻き込まれてるからねぇ。今もまだ関中一体は官軍と反乱軍の戦いが続いていて、なかなか復興が進まないのさ」


 緑風子もあえて口には出さなかったが、冀城で起きている事など関中全体の、ひいては天下全体の争乱の一部に過ぎないという事で、乱世に於いては、どこも似たような状態なのだ。


 だが黄巾の乱以降、各地で群雄が旗を上げた天下の乱れを鑑みれば、次第に収束していき、今では華北一体は曹操によって、江東一体は孫権の手によって治められ、安定期に向かっているとも言えた。政治まつりごとに無関心な趙英でもそのくらいは分かる。

 それなりに敵も多いが曹操の支配域として安定している土地は、民も安心して田畑を耕せている事だろう。二十年も戦乱に巻き込まれ続けた華北の民としては、それが何よりありがたいのかも知れない。

 曹操は後漢皇帝の威光を利用している等の批判も理解はできるが、それを理由にようやく安定してきた民を再び戦乱に巻き込もうなど、やはり趙英にはくみする事などできなかった。


 それにしても遅い。

 門の前で待たされて既に半刻(一時間)ほど経った。いくら長安が広いとはいえ、返答が遅すぎる。気になった趙英は、さり気なく門番にその事を訊いてみると、溜息を吐きながら門番が答える。


「今は夏侯将軍が留守なんだよ。何しろこのところ反乱鎮圧が続いていて、なかなか手が回らないんだ……。もうしばらく待っていてくれ、たぶん代理の者が話を聞いてくれるから」


 ちょうどこの時、行護軍ぎょうごぐん将軍・夏侯淵かこうえん率いる官軍は、関中に残った最後の残党である梁興りょうこう討伐の為に、長安南方にある藍田らんでんに出兵していたのである。





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