幕間 嘗胆の志
話は少し戻り、
上邽の県令は
しかし権威は衰えたとはいえ、未だに後漢皇帝は健在。役人の大多数はあくまでも漢王朝の臣下であり、朝廷から与えられた仕事を日々淡々とこなす、国盗りとは無縁の者たちであった。
上邽の閻温もまた同様の考えのもとに県令の職を務めてきた真面目な男である。
露骨な失策もあり悪く言う者も多いが、漢王朝の
当然ながら馬超を迎え入れる心積もりは閻温には無かった。だが乱世の閉塞感からか、分かり易い反権力闘争の象徴である猛将・馬超を英雄として迎えようという声が民の中からも相当数に上っていた。
ましてや馬超は、涼州一帯に定住する
閻温はそこで、城門を開いて馬超を迎え入れ、一旦は素直に上邽を明け渡す事とした。下手に反抗して余計な死傷者を出す事を避けたのである。
馬超を迎えた閻温は、そこで会話の機会を得る。馬超は明確かつ短く、訛りのある漢語で話していた。噂は本当だなと閻温は思った。
実は馬超の母語は漢語では無かったと言われている。祖父の
馬騰は羌族との混血でありながらも、漢の役人である父と共に
しかし
次男の
母共々、家庭内での立場が低かった事は想像に難くない。
そんな馬超は、最低限の漢語を話す事は出来るものの基本的には漢語が苦手であり、更にはその生い立ちも相まって、父や弟たちに対し非常に強い劣等感を持っていたとされる。
馬騰が曹操の求めに応じ、一族郎党を引き連れて
故郷の残存兵をまとめ上げる為に信頼されていたと言えば聞こえはいいが、兄弟の中で最も漢語が苦手であり、歪曲表現を多用する都の風土に馴染めないと父に判断されたとも捉える事が出来る。
馬超にしてみれば、自分は父に見限られたと感じていた可能性は充分にある。
先年の潼関の戦いでも、同盟者である
漢語、羌語ともに話す事が出来た韓遂は、馬超と会話する際は羌語で話していたが、曹操との会談では漢語を使って
だが逆に流暢な羌語を話す上、馬術、弓術、槍術にも優れる馬超は、羌族および同じ言語圏の氐族には非常に信頼される事となり、今回のように鶴の一声で、馬超を慕う各地の羌族・氐族が次々と集まる結果を生んだのである。
さて、そんな馬超が関中より逃れて
閻温は県令の座を馬超に譲りたいと申し出て、馬超もそれを承諾する。そんな閻温が去り際、拱手をしながら頭を下げて馬超に笑顔で言った。
「
役人たちはぎょっとしたが、馬超は大いに笑って喜んだ。
向天吐唾は、天に向かって
嘗胆は、呉越戦争で敗れた越王
閻温の立場を鑑みれば「謀反人の馬超はいずれ必ず滅びる。ゆえに今は笑って屈辱に耐えよう」という意味になろうが、もともと漢語の歪曲表現が苦手な馬超は、閻温の笑顔をそのまま受け取り「天子を我が物としている曹操をいつか倒す為、今は力を蓄えなさい」という激励の言葉だと解釈したのである。
そうして上邽を去った閻温は、涼州刺史・
しかし漢陽郡の各地の城は、上邽と同様に馬超に呼応する民も多く、羌族・氐族の集落もあちこちに点在している。馬超軍はわずか数カ月で数万の兵に膨れ上がっていた。
関中の治安維持を任されて長安に駐留する
そんな最中、情勢に大きな影響を与える事件が都で起こった。
鄴に帰還した曹操は、先の潼関の戦いで反乱の旗印となり、今また逃亡先で力を蓄える馬超を正式に謀反人とし、都に在住する馬超の親類縁者およそ二百名を処刑したのである。当然ながらこれには、馬超の父・馬騰。そして弟の馬休・馬鉄も含まれている。
この時代、朝廷に対する謀反人が出ると、連座して一族全員の罪となる事はごく普通の事であった。例え丞相が曹操ではなく、かつての
これに対し、後世の歴史家の評価は分かれるところである。
事実上の人質を取られているにもかかわらず、馬超はその劣等感や疎外感から、父と弟を見殺しにした不義不忠の輩と評する者もいる。
いずれにしても、馬超は自らの行動によって一族二百人の命を奪ってしまった事実は覆らない。
だが分かっていた事とはいえ、いざ報告を聞いて憤った馬超は、漢陽郡の支配権を一気に奪うべく上邽で蜂起するに至ったのである。
もとより馬超軍に呼応していた漢陽郡の各県城は号令一下、馬超軍の旗が翻る事になる。唯一それに抵抗したのが、涼州刺史・韋康の駐留する冀城。その下には元の上邽県令・閻温を始め、先の潼関の戦いで曹操軍にて献策をした
その抵抗を当然のように予期していた馬超は、全軍を以って冀城を包囲し、韋康に開城を迫った。
隴西の
趙英の家族の住む冀城は、まさに馬超軍数万が包囲する戦火の只中となったのである。
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